十、尸解仙葛恩
「馮宝さまのご臨終にまにあわず、悔やまれます」
葛恩は霊廟で馮宝の遺霊に手をあわせ、冼夫人に頭を下げた。老いた顔に皺が目立った。
「ご苦労でした。亡き夫もそなたのみやげ話を楽しみにしておりましたが、待ちきれずさきに逝ってしまわれました。ときにそなたはこの地を出て、もう何年になりますか」
冼夫人は葛恩をまえに、すぎさった日々をかえりみた。
「蕭衍が二度目の捨身をした直後ですから、はや三十年をこえましょうか。大都老の冼企聖さまが非業の死を遂げられたとき、わしは羅浮山で方術の修行中でございました」
「そなたは馮宝どののお父君に仕えた若党でしたが、才覚を見込まれ、葛家へ養子に入ったのでしたね。元凶を斬って復讐する、といって出奔したときは驚きました。すぎてしまえば早いものですが、とうの梁武帝蕭衍もいまは亡き人。そなたが手を下しましたか」
「いえ、わしが手をつけるまでもなく、すでに寿命が尽きており、わしがさいごを看取ってやることになってしまいました。仇敵のはずが、同門のよしみを通じる羽目に」
「同門というのは初耳ですが、おいくつのころの話ですか」
「蕭衍は仏教に迷うまでは道教のまじめな学徒で、若いころ建康にほどちかい句曲山で修行しておりました。わしがはたちを出てまもなくのころの兄弟弟子です。そのまま修行をつづけておれば
尸解仙とは
「ご崩御は八十六でしたか。ふつうなら国をあげて盛大に弔うものを、寂しいことです」
「過ぎたるは及ばざるがごとし。仏教のこととなると妄執してしまい、道を誤りました。形にとらわれ、心を忘れてしまったのです。まことに愚かなことです」
「心といえば、侯景というのは世評どおり狼の心をもつ、叛服つねなき男でしたか」
「侯景は裏切り者の典型のようにいわれておりますが、むしろつきに見放された不運な男だったのかも知れません。随身した相手に先立たれたり、謀略にはまったり、本人の意思とはべつなところでつまずきました。喰うにこと欠く貧しい環境のなかから出発しただけに、弱いもの貧しいものたちの気持ちはだれよりもよく心得ていたろうと思われます。もっともそういうものほど、よりいっそう同類のものたちを虐げるものですが」
「いずれ皇帝になるというそなたの見立ては、幸運の兆しではなかったのですか」
「かえって余分な重荷を背負わせてしまったようです。宇宙大将軍などと誇大な妄想を抱え、じぶんでももうどうしていいか分からなくなっていたのでしょう。行き場を失った多くの人びとが侯景のもとに殺到しました、兵にしろ民にしろ、頼られた以上は養わなければなりません。それで江南の豊かな都市を掠奪してまわる結果になってしまいました」
「生きるため、喰うためとはいえ、ほんにむごいこと。まさしく獣の所業ではありませんか。侯景だけの問題ではないでしょうが、いつまでくりかえせば、止むのでしょう」
「侯景が殺されたあと、梁武帝の血族が帝位を継いだものの決着がつかず、結局、王僧弁を破った陳覇先さまが禅譲を受けて陳朝をお開きになり、戦はおわりました」
「まこと、争いはおわったのでしょうか」
冼夫人は深くため息をついた。昨年(五五二年)十一月に建国した陳朝だが、基盤は弱い。股肱の臣として建康入りを強く要請された夫の馮宝を今年三月、病で亡くしている。長子の馮僕はまだ九歳、ここ高凉地域の実質的統治責任は冼夫人が担っている。さらに冼夫人はいま、高凉中心に嶺南の俚人五十万人の生死をあずかる大都老(酋長)の職をひきついでいる。五十万人の
「わたしとて飢饉で部族民が喰うに困れば、山を越えて他の村落を襲うこともあるでしょう。飢饉でなくとも水利や田畑の境界をめぐって、いさかいは絶えません。人の心はいつ狼にかわるか分からない頼りないものです。侯景が北の胡族なら、われらは南の蛮族。ともに漢族からはさげすまれ、獣どうぜんに白眼視されてきたもの同士。とはいえ――」
「狼に境界はありません。腹が減ればどこまでも獲物を追いかけます。ましてやここ嶺南は天候と水利に恵まれた一年三熟(三毛作)の豊かな農耕地帯。北朝にとり、のどから手のでる穀倉地です。糧食をもとめ、いつ第二第三の侯景が出ないともかぎりません」
「北朝が侯景を操ったのであれば、このままではおわりません。ところで葛恩、そなたは人の心が読めるのですか。侯景の心をもてあそんだ、そのようなことはありませんね」
「方術の奥義に達すれば、人の心は容易に読めますが、もてあそぶのは邪道です」
「人の夢のなかに立ち入り、人の考えを左右することもできますか」
「立ち入るのは無理でも、眠らした人に問いかけて、考えさせることはできます。ただし示唆はしても、こたえはあくまでその人の判断、左右するわけではありません」
「わたしはいま俚人の領導に自信がもてず、迷っています。わたしにも試せますか」
「よもや、そのようなこと。大都老さまにたいし、おそれおおいことです」
否定も肯定もせず、葛恩は相好を崩した。笑顔は若い。冼夫人もそれ以上問わなかった。
侯景は狼と帝位にこだわったが、冼夫人は俚人の自立と嶺南の安定にこだわっている。
「で、どうしましたか。溧陽公主は侯景の肉を喰ろうたのですか」
冼夫人は葛恩を直視せず、盤王廟の壁に掛かる神犬盤瓠の伝説絵巻に目をやりながら、しずかに訊ねた。その絵巻には、盤瓠が敵将の首をくわえて戦場を駆けもどり、王がその功を称えて王女を嫁し、七夜で人間に変身するなどの一連の物語が描かれている。
「いちどは口にしましたが、やがて激しく嘔吐し、侯景の名を叫びつづけたあげく、子を産み落とし、その後まもなく身まかった由、付き添いの侍女から聞きおよんでおります」
葛恩は瞑目したまま記憶をたどり、淡々とこたえた。ひざに女児を抱いている。
「なんでしょう。憎しみだけではなかったのでしょうか」
「憎いだけなら子は産みますまい。わが身を通じて侯景の魂を子に伝えたのですから」
地上に戦乱と飢餓地獄はつづいている。人もまた悪鬼羅刹とならなければ生きてゆけない。きれいごとではすまされない。そんな時代に子を産み育てるには、どうすればよいか。
「狼の野生の助けがほしい。溧陽公主は、みずからも狼となって侯景の肉を喰らい、赤子の守護神に侯景をえらんだのではあるまいか。忘れ形見のこの子を生かすために」
葛恩の顔が苦渋にゆがみ、ひたいに老いの皺をきざんだ。
「そのお子ですか、侯景の子は。なんという名ですか」
冼夫人はことさら明るい口調で手をさしのべ、女児を抱き上げて頬擦りした。
「名は聞いておりません。あらためて名をつけてやってください」
「そうですか。では狼の侯景からではなく、盤瓠さまの賜と思うて、献身の献と名づけましょう。人とともに生き、楽しみ苦しみを分かちつつ、人に身命をささげて力を尽くすのが犬の狗郎。わたしが育てます」
建国三年目、陳覇先は逝去した。その三十年後、隋が陳朝を滅ぼし、南北は統一する。
嶺南の平穏無事を念願し、冼夫人は統一にかけた。南朝の梁と陳そして隋の三王朝に仕え、隋朝では広州都督
「葛恩、これからそなたはどうされますか。できればここ嶺南にとどまっていてほしい。わたしが道を誤らぬよう、つねに戒め、教導してもらいたいものですが」
「羅浮山にこもり方術修行をしなおします。おりにふれ夢のなかに参上いたします」
「そなたはすでに尸解仙ではないのか。百歳の長老にもみえ、ときには二十歳の若者にもみえる」
(完)
異聞南北朝 逢魔ヶ刻 ははそ しげき @pyhosa
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