九、侯景の乱


 太清二年(五四八)九月下旬、侯景はわずか千人の兵をひきいて寿陽(いまの安徽省)をあとにした。向かうは梁都建康である。寿陽の東方、直線距離で約二百キロ、長江を南にわたった先に建康城がある。

 十月初旬、進路をさえぎるいくつかの郡県を襲撃し、長江の北岸にいたった。はじめ千人の侯景軍はみちみち兵を募り、いまや総勢八千人に増えていた。内応した蕭正徳手配の空船からぶね数十艘で長江をわたり、対岸に上陸。都城の南を東西に流れる秦淮河しんわいがを東に沿って進攻し、河にかかる浮橋うきばし朱雀航すざくこうに出た。浮橋をわたれば朱雀門、城内まで五キロの要衝である。この門で迎える正徳軍と合流した。出陣からわずか七日の急行軍だ。

「兵は拙速を尊ぶ」は、孫子の鉄則である。行動を起こした以上、体制が整うのを待つより、勢いのあるうちに、素早く進んだ方が、勝機をつかめる。

「これより建康城を攻める!」

 号令一下、全軍は一丸となって朱雀門を突破、繁華な市街地を通過し、城内に迫った。

 城内は外城と内城、二重の城壁で守られている。天子のいます内城(宮城)は台城という。外城の北側にあり、東西南北を三重の堅固な城壁で囲んである。南の関門である宣陽門を破り、外城を急襲した侯景軍は城内に侵攻、台城の四囲を圧倒的な人垣で埋めつくした。

 この間、梁朝とて指をくわえて黙ってみていたわけではない。

「数百の雑兵でなにができる」

 挙兵のはじめはたかをくくっていたが、叛乱軍の隊伍が整然と長江北岸に達したという報せを受け、ようやく梁武帝は、事態の重大さに気付いたのである。急遽、太子の蕭綱しょうこうに命じ、首都防衛の総指揮にあたらせることになった。しかし、ここで蕭綱は大失態を演じる。かれはおじの蕭正徳が侯景に内通しているとは露ほども思わず、建康城の南、朱雀門と宣陽門の守備という重要任務をまかせてしまったのだ。

 頼るべき実戦部隊は、ほとんどが外地に出動していた。首都が攻撃されるなど、想定するものはまったくいなかった。かりにいたとしても、懸念を口にしたとたん、「気が触れた」か「人心を惑乱する」ものとして譴責を受けるのが落ちだった。

 建国以来五十年の太平に、国都建康はどっぷりと浸りきっていた。繁栄に慣れ、平和を当然のことのように享受していた。御仏を奉る建康はこの世の極楽浄土だと信じて疑わなかったのだ。

 仏教信仰に名を借り、貴族は奢侈に流され柔弱になった。馬に乗るどころか、轡さえ取れないものが大勢いた。馬が一声いななくと、「虎が吼えた」と腰を抜かさんばかりに大騒ぎする体たらくだ。弓矢・刀槍のたぐいは、野蛮な道具として忌避されていた。

 この時代、「士庶貴賎」ということばがある。最高位が貴族で、つぎに士族、かなりはなれて庶民、人の埒外におかれたのが賎民である。そんな貴族に取り入った庶民の一部はなお贅沢三昧をあおり、仏を拝む一方の手で金をつかんでは、卑屈にほくそえんだ。

 繁栄の外側に、奴僕や流民などの賤民がいた。侯景は建康急襲後、奴僕を解放し、流民に食をあたえた。かれらは侯景を崇め、侵略軍の貴重な構成要素となった。


 外城を一気に攻略した侯景は、つづいて台城を攻めたてた。東西の城門に火が点けられた。火炎が沖天の勢いで燃え盛り、炎に染められた天空を、放たれた矢が蝗のように飛び交った。

 猛火をかいくぐり、守将羊侃ようかんは消火につとめた。多くの市民が声を掛け合い、手を貸した。火が消し止められたとみた侯景は兵士に命じ、長柄の斧で城門を叩き割り、台城内に突入しようとした。羊侃は長矛を振り上げ、騎馬隊をひきいて台城の外へ打って出た。形勢は逆転した。勢いに飲まれた侵略軍は武器を放り出し、われがちに逃げ出した。

 侯景は強気の一気攻めをあきらめた。いったん攻勢を手控え、外城の一郭を分捕り、兵を休ませた。夜、篝火かがりびをたき、大宴席をもうけた。徹宵、酒を酌んで将士を慰労した。

 急襲のはじめ、侯景は厳しい軍律のもと一切の略奪行為を禁じていた。兵士も突撃に無我夢中だったから、あえて略奪するものは出なかった。一進一退の攻防がつづき、やがて兵士の緊張が限度に達したころ、侯景は軍律をゆるめ、略奪行為を黙認した。たちまち富豪の邸宅が襲われ、食糧倉庫が破られた。外城内外のここかしこで火の手が上がり、群集の喚声がこだました。婦女子の助けをもとめる声が闇を裂いてひびいても黙殺された。無力な市井の民は門戸をかたく閉ざし、無言でたがいに顔を見合わせるしかなかった。

 解放された奴僕と流民、さらに日ごろ虐げられていた建康の庶民が、こぞって侵略軍に加担し、わがもの顔にふるまった。台城を包囲する侵略軍は十万人に達した。

 一方、台城にたてこもった市民十万余と兵士二万は、守将羊侃と太子蕭綱の指揮のもと、まだ防御に余裕があった。台城は難攻不落の堅城である。内応者が出ないかぎり、外部からは容易に崩せるものではない。各地の方鎮軍が動き出していた。援軍が来れば城内から討って出て、敵を挟撃できる。包囲網は容易に解ける。だれもがそう信じ、楽観していた。

 ところが案に相違し、援軍の集結がおくれた。期待ははずれ、包囲は長期化した。


 台城籠城の一ヵ月後、待望の援軍が到着した。皇帝の第六子、総督蕭綸ひきいる三万の部隊だ。ただし時期としては早い吹雪に見舞われ、ろくな戦もせぬうちに撤退した。

 翌十二月、長江上流から司州刺史柳仲礼を大都督とする連合軍が勢揃いした。鄱陽王蕭範の世子蕭嗣と湘東王蕭繹しょうえきの世子蕭方等らがひきいる十二の勤皇軍から構成された、総勢二十万の大援軍だ。江州刺史王僧弁の軍が遅れてさいごになった。十二の軍団は思い思いの場所に陣営を築いた。しかしいずれも侯景軍を遠巻きにして傍観するのみであった。互いに牽制しあい、武力を誇示してみせても、けっして動こうとはしなかった。

 だれもが独裁者蕭衍の復活を恐れていた。突出するといずれ粛清の的となる。軍団の領袖は独裁者復活以後の政局をにらみ、息をつめて成り行きを見守っていたのだ。

 おりしも台城では守将羊侃が過労で身まかり、梁武帝の気心を知る寵臣朱异もまた黄泉路へと旅立っていた。あいつぐ凶事に城内の人々は不吉な予感におそわれた。


 籠城は百日を越えた。当初、四十万こくといわれた糧食は底をついていた。人々は鼠や雀をとり、馬を殺して腹の足しにした。台城内に飢餓の恐怖が押し寄せていた。

 包囲する侯景軍も兵糧は欠乏していた。そこで侯景は詐言をもって和議を求めた。梁武帝は反対したが、太子の蕭綱ら講和派に押し切られた。

 遠巻きに布陣する勤皇軍は囲みを解いた。散発的な小競合いはあったが、ついに勤皇軍全体としての総攻撃にはいたらなかった。一部の軍は侯景に投降し、地元に帰還する軍も出た。

 やがて十分に休養し、軍糧を補給し終えた侯景軍は、ふたたび台城を攻撃した。 もはや籠城側に、もちこたえる力は残っていなかった。


 三月十一日の夕日はことのほか大きく、いつまでも西山に懸かっていた。夕焼けの照り返しが内城の府邸を焼くほむらに変わっても、それと気づく人は少なかった。

 逃げ惑う人々に悪魔の業火が襲いかかり、この世の地獄図絵を描きはじめたのだ。

地獄から閻魔の手下が台城に侵入し、暗闇の現出を拒んだ業火が、人々の目に地獄の光景をまざまざと焼き付けた。

 台城の城門を打ち破った侯景軍は、無抵抗の城内を攻めたて、住民を殺傷し、掠奪して回った。掠奪のあと、その痕跡を消すかのように火をつけた。

 侵略者の足に取りすがり前進を妨げる邪魔ものは、兵士のひと蹴りでこときれた。なおも手を離さぬものは指を切られ、腕を断たれた。

 翌払暁、五ヶ月におよぶ攻防戦を経て、台城は陥落した。

 飢餓と伝染病と人の共食いで、多くの人が亡くなっていた。死者は十に八九を上回っていた。台城にたてこもった市民十余万のうち、生存したのはわずか三、四千人。まさに生き地獄である。異臭が城内を覆っていた。腐乱した死体が路上に折り重なり、ただれた人の肉汁が、溝にあふれていた。生き残ったものも、痩せこけるか、反対に浮腫むくむかして、息もたえだえに喘いでいた。開戦以来百三十六日、季節は秋から冬を越し、春に移っていた。


 侯景は、台城に軟禁した梁武帝の召見に応じ、宮城に一歩、足を踏み入れた。

 城内は酸鼻をきわめていた。

「この世の地獄とはこれをいうか・・・」

 地獄を作り出した張本人があまりの惨状に絶句した。


 梁武帝はつねとかわらぬ態度で、侯景に声をかけた。

「大儀である(ごくろうだった)」

 臣下にたいするねぎらいの口調である。このひと言で侯景は気圧されてしまい、平伏したまま頭を上げられなかった。満面にどっと汗が吹き出していた。梁武帝は侯景に問うた。

「そちはいずこの出自じゃ。妻子はまだ北方におるのか」

 侯景は身じろぎもせず、黙したままである。同席した大将の任約じんやくがかわってこたえた。

「おそれながら、侯景は朔北懐朔鎮の出自にございます。妻子は東魏の高澄めに殺害され、孤独の身なれば、ただただ陛下におすがりするのみでございます」

 つづけて梁武帝は侯景に問うた。

「そちがわが梁に投降せしときは、いくにんであった」

 ようやく侯景は顔を上げた。声がかすれた。

「八百人でございます」

「このたび、はじめに長江をわたりしときは、いく人であった」

「一千人」

「して、台城を囲みしおりは、いく人であったか」

「十万人」

「ならば、いまは、いかほどか」

「普天のもと、すべてわが民にございます」

 その場から逃げ出したい気持ちをこらえ、天下の民はすべてわがものと、侯景はいいきった。金縛りが解け、ようやく平常心に戻っていた。

 梁武帝は頭をたれたまま、なにもいわなかった。ふと見ると居眠りをしていた。

 侯景は額の汗を拭って、しずかに座を立った。しんそこ、「かなわぬ」と思った。

 いらい、侯景が梁武帝にふたたびまみえることはなかった。


 侯景は梁武帝を宮中浄居殿に軟禁し、しだいに食を削っていった。自由を奪われた梁武帝は気鬱の病となり、御膳を受け付けなくなっていた。なん日ものあいだ、水も米も口にせぬなかで、梁武帝はさいごのときを迎えようとしていた。空腹感はすでに失せていた。

 ただ口中いっぱいに広がるにがさに耐え切れず、かれは呻いた。

「みつ、みつ。たれかある。蜜をもて、蜜がほしい」

 蜂蜜をもとめてかぼそい声で叫んだ。力のない声は無人の大殿にむなしく消えた。

「このごにおよんで、なお蜜をもとめるか。哀れなものよのう」

 無人のはずの浄居殿に人の声がした。ギョッとして梁武帝は声のあたりを凝視した。

「たれじゃ、たれかいるのか」

「おみわすれか、蕭衍どの」

 薄暗がりのなか、方士姿の葛恩かつおんが亡霊のように突っ立っていた。


 同年五月、梁武帝は八十六歳で崩御した。援軍は引き揚げ、皇帝の血縁は各地に散った。

 梁武帝の死後、侯景は太子の蕭綱を立てて帝とした。簡文帝である。侯景自身は相国・漢王となり、宇宙大将軍・都督六合りくごう諸軍事をかねた。宇宙とは天地と古今、いいかえれば空間(宇)と時間(宙)のこと。六合とは東・西・南・北・上・下の六つの方角。世界・天下を意味する。爾朱栄・高歓の天柱大将軍を超える、前代未聞の肩書といっていい。

「おれは、やるからには森羅万象、宇宙に存在するすべてのものを支配したい」

 侯景の真面目がここにある。しかし侯景に残された時間は、わずかでしかない。


 侯景は簡文帝に請うて、愛娘まなむすめ溧陽りつよう公主を妻にもらい受けた。まだ十四歳の少女ながら利発で、春の温もりを思わせるうららかな性格である。父帝の立場を理解したものであろうか、抗うことなく侯景に嫁いだ。

 侯景は数人の妾に暇を出し、公主を迎えた。わけ知らず少年の昔に戻り、胸がときめいている。侯景は壊れ物でも扱うかのように、公主に接した。


「わしをどんな男だと思うておった」

「狼のように獰猛で比類なく強い、北の荒夷あらえびすと聞いておりました。でもお優しそう」

 そういって公主はくったくない笑顔を侯景にみせた。

 ――かわいい

 侯景は歳を忘れ、夢中で公主を抱いた。小さな声をたてて公主は応じた。

 崩壊したかつての仏国土で、侯景ははじめて極楽の涼風に触れた。


 簡文帝を立てると同時に、侯景は三呉地域(呉郡・呉興・会稽)を攻めた。いまの蘇州・湖州・紹興である。食糧確保の侵攻が、阿鼻叫喚の焼殺しょうさつ搶掠しょうりゃく(家を焼き、人を殺し、財物を略奪する)をひきおこし、江南でもっとも富裕といわれた三呉地域は焦土と化した。

 ――こんなはずはない。おれの見込みとちがう。なにかが狂っている。

 傀儡の皇帝を擁して主要拠点をおさえ梁朝を実質支配する――高歓流儀をまねているはずが、すべて破壊に直結していた。

 ――傀儡では限度がある。

 侯景は究極の結論に達した。


 二年後、侯景は簡文帝を廃して蕭棟を立て、その禅譲を受けるかたちで帝位につき、国号を漢とした。しかし一年ともたなかった。

 翌年二月、王僧弁・陳覇先らのひきいる勤王軍が決起し、建康を攻めた。多勢に無勢、籠城はきかない。侯景は台城の守りを王偉にまかせ、城外に打って出た。一万の歩兵と八百の鉄騎をひきい、決戦に挑んだのだ。

 侯景は先陣きって躍りでた。群がる雑兵を蹴散らし、騎乗で矢を放った。矢が尽きると矛をふるった。怒号と絶叫に包まれた戦場に血煙があがり、肉片が飛び散った。侯景の赤ら顔は返り血を浴び、どす黒く染まった。侯景はだれもが恐れる野性の狼に戻り、牙を剥いて吼えまくった。かぎられた時間を惜しむかのように、戦場せましと暴れまわった。

 ――修羅の戦場こそおれの生きる場だ。城奥に鎮座ましますだけの皇帝なぞ糞くらえだ。

 侯景は本領を発揮し、陳覇先の陣営に突進した。しかし堅固な槍ぶすまが前進をはばんだ。撤退を余儀なくされた侯景は、みずから城を放棄した。皇帝の肩書きをなげうった。


 侯景は侍女をつけ、溧陽公主を建康城外の市井に潜ませた。子を孕んでいた。連れてゆくわけにはいかなかった。別れに臨んで、未練が残った。

「たとえこの身は果てようが、おれの魂魄はかならず戻って来る。だから、おまえは生きろ。人の肉を喰らってでも、生きておれの子を生んでくれ」

「いやです。私は獣ではない。人の肉を口にするくらいなら、飢えて死にします。ましてや尻尾をまいて逃げる、弱い狼の子なぞ生みたくはありません」

 公主は冷たくいい放った。獣を見る憎悪の目だった。


 四月、残党数十人とともに船に乗り、扈瀆ことく―いまの上海から海上に逃れた。

 侯景は船上で熟睡した。夢を見た。あの方士が夢にあらわれ、耳元でささやいた。

 ――どうじゃ、皇帝になった気分は。

 ――なるべきでなかった。おれは狼の本分を忘れ、飽食の味を知り、牙を研ぐことを怠った。報いを受けるのは恐れないが、悔やまれる。再起するだけの時間がもう少しほしい。

 ――もはや命運は尽きた。時間は戻せない。おまえは多くの人を殺めたから、その誅罰を受ける。人の怨みを一身に負い、死んでのち人に喰われる。功徳と思うて、喜んで喰われろ。さいごに訊ねる。こんど生まれかわるなら、何を望む。人か、魔物か、それとも狼か?

 ――じきに子が生まれる。狼の子なら要らないという。生まれかわっても人でありたい。


 腹心の王偉はすでに離脱していた。いまは羊鵾ようこんが残党を束ねている。

 羊鵾はかの台城守将羊侃の子である。建康で権力を握った時代、侯景は急逝した羊侃のむすめを妾に加えた。羊鵾はその兄だから、侯景には義兄にあたる。さいごまで侯景につきしたがったが、ここにいたりさすがに観念した。侯景の寝込みを襲い、とどめを刺した。はからずも侯景の享年、五十歳。方士の予言に狂いはなかった。

 四年におよんだ侯景の乱は終息した。


 侯景の死骸は建康に送られ、王僧弁によって首級と胴体に分けられた。首級は武帝の第七子蕭繹のもとに届けられた。蕭繹は北朝との通好をのぞんでいたから、特上の手土産になった。胴体は建康のいちにさらされた。群衆は胴体に殺到し、手足をちぎり、からだの肉にかぶりついた。残った骨さえも奪い合った。

 群集のなかに溧陽公主がいた。十七歳になっていた。臨月間近の大きな腹を抱えていた。


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る