九、侯景の乱
太清二年(五四八)九月下旬、侯景はわずか千人の兵をひきいて寿陽(いまの安徽省)をあとにした。向かうは梁都建康である。寿陽の東方、直線距離で約二百キロ、長江を南にわたった先に建康城がある。
十月初旬、進路をさえぎるいくつかの郡県を襲撃し、長江の北岸にいたった。はじめ千人の侯景軍はみちみち兵を募り、いまや総勢八千人に増えていた。内応した蕭正徳手配の
「兵は拙速を尊ぶ」は、孫子の鉄則である。行動を起こした以上、体制が整うのを待つより、勢いのあるうちに、素早く進んだ方が、勝機をつかめる。
「これより建康城を攻める!」
号令一下、全軍は一丸となって朱雀門を突破、繁華な市街地を通過し、城内に迫った。
城内は外城と内城、二重の城壁で守られている。天子の
この間、梁朝とて指をくわえて黙ってみていたわけではない。
「数百の雑兵でなにができる」
挙兵のはじめはたかをくくっていたが、叛乱軍の隊伍が整然と長江北岸に達したという報せを受け、ようやく梁武帝は、事態の重大さに気付いたのである。急遽、太子の
頼るべき実戦部隊は、ほとんどが外地に出動していた。首都が攻撃されるなど、想定するものはまったくいなかった。かりにいたとしても、懸念を口にしたとたん、「気が触れた」か「人心を惑乱する」ものとして譴責を受けるのが落ちだった。
建国以来五十年の太平に、国都建康はどっぷりと浸りきっていた。繁栄に慣れ、平和を当然のことのように享受していた。御仏を奉る建康はこの世の極楽浄土だと信じて疑わなかったのだ。
仏教信仰に名を借り、貴族は奢侈に流され柔弱になった。馬に乗るどころか、轡さえ取れないものが大勢いた。馬が一声いななくと、「虎が吼えた」と腰を抜かさんばかりに大騒ぎする体たらくだ。弓矢・刀槍のたぐいは、野蛮な道具として忌避されていた。
この時代、「士庶貴賎」ということばがある。最高位が貴族で、つぎに士族、かなりはなれて庶民、人の埒外におかれたのが賎民である。そんな貴族に取り入った庶民の一部はなお贅沢三昧をあおり、仏を拝む一方の手で金をつかんでは、卑屈にほくそえんだ。
繁栄の外側に、奴僕や流民などの賤民がいた。侯景は建康急襲後、奴僕を解放し、流民に食をあたえた。かれらは侯景を崇め、侵略軍の貴重な構成要素となった。
外城を一気に攻略した侯景は、つづいて台城を攻めたてた。東西の城門に火が点けられた。火炎が沖天の勢いで燃え盛り、炎に染められた天空を、放たれた矢が蝗のように飛び交った。
猛火をかいくぐり、守将
侯景は強気の一気攻めをあきらめた。いったん攻勢を手控え、外城の一郭を分捕り、兵を休ませた。夜、
急襲のはじめ、侯景は厳しい軍律のもと一切の略奪行為を禁じていた。兵士も突撃に無我夢中だったから、あえて略奪するものは出なかった。一進一退の攻防がつづき、やがて兵士の緊張が限度に達したころ、侯景は軍律をゆるめ、略奪行為を黙認した。たちまち富豪の邸宅が襲われ、食糧倉庫が破られた。外城内外のここかしこで火の手が上がり、群集の喚声がこだました。婦女子の助けをもとめる声が闇を裂いてひびいても黙殺された。無力な市井の民は門戸をかたく閉ざし、無言でたがいに顔を見合わせるしかなかった。
解放された奴僕と流民、さらに日ごろ虐げられていた建康の庶民が、こぞって侵略軍に加担し、わがもの顔にふるまった。台城を包囲する侵略軍は十万人に達した。
一方、台城にたてこもった市民十万余と兵士二万は、守将羊侃と太子蕭綱の指揮のもと、まだ防御に余裕があった。台城は難攻不落の堅城である。内応者が出ないかぎり、外部からは容易に崩せるものではない。各地の方鎮軍が動き出していた。援軍が来れば城内から討って出て、敵を挟撃できる。包囲網は容易に解ける。だれもがそう信じ、楽観していた。
ところが案に相違し、援軍の集結がおくれた。期待ははずれ、包囲は長期化した。
台城籠城の一ヵ月後、待望の援軍が到着した。皇帝の第六子、総督蕭綸ひきいる三万の部隊だ。ただし時期としては早い吹雪に見舞われ、ろくな戦もせぬうちに撤退した。
翌十二月、長江上流から司州刺史柳仲礼を大都督とする連合軍が勢揃いした。鄱陽王蕭範の世子蕭嗣と湘東王
だれもが独裁者蕭衍の復活を恐れていた。突出するといずれ粛清の的となる。軍団の領袖は独裁者復活以後の政局をにらみ、息をつめて成り行きを見守っていたのだ。
おりしも台城では守将羊侃が過労で身まかり、梁武帝の気心を知る寵臣朱异もまた黄泉路へと旅立っていた。あいつぐ凶事に城内の人々は不吉な予感におそわれた。
籠城は百日を越えた。当初、四十万
包囲する侯景軍も兵糧は欠乏していた。そこで侯景は詐言をもって和議を求めた。梁武帝は反対したが、太子の蕭綱ら講和派に押し切られた。
遠巻きに布陣する勤皇軍は囲みを解いた。散発的な小競合いはあったが、ついに勤皇軍全体としての総攻撃にはいたらなかった。一部の軍は侯景に投降し、地元に帰還する軍も出た。
やがて十分に休養し、軍糧を補給し終えた侯景軍は、ふたたび台城を攻撃した。 もはや籠城側に、もちこたえる力は残っていなかった。
三月十一日の夕日はことのほか大きく、いつまでも西山に懸かっていた。夕焼けの照り返しが内城の府邸を焼く
逃げ惑う人々に悪魔の業火が襲いかかり、この世の地獄図絵を描きはじめたのだ。
地獄から閻魔の手下が台城に侵入し、暗闇の現出を拒んだ業火が、人々の目に地獄の光景をまざまざと焼き付けた。
台城の城門を打ち破った侯景軍は、無抵抗の城内を攻めたて、住民を殺傷し、掠奪して回った。掠奪のあと、その痕跡を消すかのように火をつけた。
侵略者の足に取りすがり前進を妨げる邪魔ものは、兵士のひと蹴りでこときれた。なおも手を離さぬものは指を切られ、腕を断たれた。
翌払暁、五ヶ月におよぶ攻防戦を経て、台城は陥落した。
飢餓と伝染病と人の共食いで、多くの人が亡くなっていた。死者は十に八九を上回っていた。台城にたてこもった市民十余万のうち、生存したのはわずか三、四千人。まさに生き地獄である。異臭が城内を覆っていた。腐乱した死体が路上に折り重なり、
侯景は、台城に軟禁した梁武帝の召見に応じ、宮城に一歩、足を踏み入れた。
城内は酸鼻をきわめていた。
「この世の地獄とはこれをいうか・・・」
地獄を作り出した張本人があまりの惨状に絶句した。
梁武帝はつねとかわらぬ態度で、侯景に声をかけた。
「大儀である(ごくろうだった)」
臣下にたいするねぎらいの口調である。このひと言で侯景は気圧されてしまい、平伏したまま頭を上げられなかった。満面にどっと汗が吹き出していた。梁武帝は侯景に問うた。
「そちはいずこの出自じゃ。妻子はまだ北方におるのか」
侯景は身じろぎもせず、黙したままである。同席した大将の
「おそれながら、侯景は朔北懐朔鎮の出自にございます。妻子は東魏の高澄めに殺害され、孤独の身なれば、ただただ陛下におすがりするのみでございます」
つづけて梁武帝は侯景に問うた。
「そちがわが梁に投降せしときは、いくにんであった」
ようやく侯景は顔を上げた。声がかすれた。
「八百人でございます」
「このたび、はじめに長江をわたりしときは、いく人であった」
「一千人」
「して、台城を囲みしおりは、いく人であったか」
「十万人」
「ならば、いまは、いかほどか」
「普天のもと、すべてわが民にございます」
その場から逃げ出したい気持ちをこらえ、天下の民はすべてわがものと、侯景はいいきった。金縛りが解け、ようやく平常心に戻っていた。
梁武帝は頭をたれたまま、なにもいわなかった。ふと見ると居眠りをしていた。
侯景は額の汗を拭って、しずかに座を立った。しんそこ、「かなわぬ」と思った。
いらい、侯景が梁武帝にふたたび
侯景は梁武帝を宮中浄居殿に軟禁し、しだいに食を削っていった。自由を奪われた梁武帝は気鬱の病となり、御膳を受け付けなくなっていた。なん日ものあいだ、水も米も口にせぬなかで、梁武帝はさいごのときを迎えようとしていた。空腹感はすでに失せていた。
ただ口中いっぱいに広がる
「みつ、みつ。たれかある。蜜をもて、蜜がほしい」
蜂蜜をもとめてかぼそい声で叫んだ。力のない声は無人の大殿にむなしく消えた。
「このごにおよんで、なお蜜をもとめるか。哀れなものよのう」
無人のはずの浄居殿に人の声がした。ギョッとして梁武帝は声のあたりを凝視した。
「たれじゃ、たれかいるのか」
「おみわすれか、蕭衍どの」
薄暗がりのなか、方士姿の
同年五月、梁武帝は八十六歳で崩御した。援軍は引き揚げ、皇帝の血縁は各地に散った。
梁武帝の死後、侯景は太子の蕭綱を立てて帝とした。簡文帝である。侯景自身は相国・漢王となり、宇宙大将軍・都督
「おれは、やるからには森羅万象、宇宙に存在するすべてのものを支配したい」
侯景の真面目がここにある。しかし侯景に残された時間は、わずかでしかない。
侯景は簡文帝に請うて、
侯景は数人の妾に暇を出し、公主を迎えた。わけ知らず少年の昔に戻り、胸がときめいている。侯景は壊れ物でも扱うかのように、公主に接した。
「わしをどんな男だと思うておった」
「狼のように獰猛で比類なく強い、北の
そういって公主はくったくない笑顔を侯景にみせた。
――かわいい
侯景は歳を忘れ、夢中で公主を抱いた。小さな声をたてて公主は応じた。
崩壊したかつての仏国土で、侯景ははじめて極楽の涼風に触れた。
簡文帝を立てると同時に、侯景は三呉地域(呉郡・呉興・会稽)を攻めた。いまの蘇州・湖州・紹興である。食糧確保の侵攻が、阿鼻叫喚の
――こんなはずはない。おれの見込みとちがう。なにかが狂っている。
傀儡の皇帝を擁して主要拠点をおさえ梁朝を実質支配する――高歓流儀をまねているはずが、すべて破壊に直結していた。
――傀儡では限度がある。
侯景は究極の結論に達した。
二年後、侯景は簡文帝を廃して蕭棟を立て、その禅譲を受けるかたちで帝位につき、国号を漢とした。しかし一年ともたなかった。
翌年二月、王僧弁・陳覇先らのひきいる勤王軍が決起し、建康を攻めた。多勢に無勢、籠城はきかない。侯景は台城の守りを王偉にまかせ、城外に打って出た。一万の歩兵と八百の鉄騎をひきい、決戦に挑んだのだ。
侯景は先陣きって躍りでた。群がる雑兵を蹴散らし、騎乗で矢を放った。矢が尽きると矛をふるった。怒号と絶叫に包まれた戦場に血煙があがり、肉片が飛び散った。侯景の赤ら顔は返り血を浴び、どす黒く染まった。侯景はだれもが恐れる野性の狼に戻り、牙を剥いて吼えまくった。かぎられた時間を惜しむかのように、戦場せましと暴れまわった。
――修羅の戦場こそおれの生きる場だ。城奥に鎮座ましますだけの皇帝なぞ糞くらえだ。
侯景は本領を発揮し、陳覇先の陣営に突進した。しかし堅固な槍ぶすまが前進をはばんだ。撤退を余儀なくされた侯景は、みずから城を放棄した。皇帝の肩書きをなげうった。
侯景は侍女をつけ、溧陽公主を建康城外の市井に潜ませた。子を孕んでいた。連れてゆくわけにはいかなかった。別れに臨んで、未練が残った。
「たとえこの身は果てようが、おれの魂魄はかならず戻って来る。だから、おまえは生きろ。人の肉を喰らってでも、生きておれの子を生んでくれ」
「いやです。私は獣ではない。人の肉を口にするくらいなら、飢えて死にします。ましてや尻尾をまいて逃げる、弱い狼の子なぞ生みたくはありません」
公主は冷たくいい放った。獣を見る憎悪の目だった。
四月、残党数十人とともに船に乗り、
侯景は船上で熟睡した。夢を見た。あの方士が夢にあらわれ、耳元でささやいた。
――どうじゃ、皇帝になった気分は。
――なるべきでなかった。おれは狼の本分を忘れ、飽食の味を知り、牙を研ぐことを怠った。報いを受けるのは恐れないが、悔やまれる。再起するだけの時間がもう少しほしい。
――もはや命運は尽きた。時間は戻せない。おまえは多くの人を殺めたから、その誅罰を受ける。人の怨みを一身に負い、死んでのち人に喰われる。功徳と思うて、喜んで喰われろ。さいごに訊ねる。こんど生まれかわるなら、何を望む。人か、魔物か、それとも狼か?
――じきに子が生まれる。狼の子なら要らないという。生まれかわっても人でありたい。
腹心の王偉はすでに離脱していた。いまは
羊鵾はかの台城守将羊侃の子である。建康で権力を握った時代、侯景は急逝した羊侃のむすめを妾に加えた。羊鵾はその兄だから、侯景には義兄にあたる。さいごまで侯景につきしたがったが、ここにいたりさすがに観念した。侯景の寝込みを襲い、
四年におよんだ侯景の乱は終息した。
侯景の死骸は建康に送られ、王僧弁によって首級と胴体に分けられた。首級は武帝の第七子蕭繹のもとに届けられた。蕭繹は北朝との通好をのぞんでいたから、特上の手土産になった。胴体は建康の
群集のなかに溧陽公主がいた。十七歳になっていた。臨月間近の大きな腹を抱えていた。
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