3月 さようなら、おやっさん(1)

 三月が始まった。


 収納係は先月に引き続き精算担当が右往左往しているなか、胃腸の調子さえよければ盤石と定評のある浦崎が、その定評通りに月次の締め当番をこなし、比較的おだやかな月頭になった。

 そして、今年度最後の田実の相方は、宮本に決まった。

 市川は、井上と。

 先月と同じく浦崎と組むことになった佃は、何で俺とおやっさんじゃあねえんだよ、と山木に悪態をつき、市川さんの有休消化でマルキが回ってこないのを期待しているのが見え見えだからです、と淡々と返されて顔をしかめていた。

「停水期間に有休使うんですか?」

 ふと問うと、そこしかないだろ、と市川は笑った。

「消化しろ、いつでもいいから使ってしまえって人事から言われてんだからな。だったら停水ン時に決まってる――いたら容赦なくマルキ回してくるだろ?」

 話を振られた山木が、ええ、と頷く。

「今回もいらっしゃる時は遠慮なく回させていただきますよ」

 とはいえ、そこまでするつもりもないのだろう。

 本当にそのつもりならば井上ではなく、やはり佃か、前月と同様に宮本と組ませたに違いない。

 市川もわかっているのか、

「最後の思い出づくりなんぞいらないからな」

 と、おどけたように言い、そんなことはしません、と山木は笑みもなく応じる。

「マルキに限らず普段通りです――田実君も」

 そうしてこちらに差し出してきたのは閉栓届の束。

 引っ越しや退去をする世帯から連絡を受けて出向いて、これにメーターの指針の数値を書き込む――要は精算担当の手伝い。

「また多いな……」

 田実よりやや多い束に顔をしかめた市川に、山木が頷く。

「精算の二人は例年通り集金までセットのところの対応に追われていますから」

 いつも通りの三月だな、と面倒臭そうに呟いて市川はさっさと歩き出し、ああ、と振り返る。

「面と向かって殺しにかかってきそうなとこがあったら俺に回せよ、山木君」

「すでに二、三件入っていますよ」

「容赦ないな」

 笑いながら、そのままフロアを出て行った。

 それを見送り、田実は手のなかの閉栓届に視線を戻す。

「どうかしましたか」

 さらりとした山木の声。

 ほんの少しだけ迷ったあと、いいえ、と首を横に振った。

「行ってきます」

 ――一番上にあった閉栓届の住所に見覚えがあった。

 「納付書送付」に印がつけられたそれは、九月、井上の過去を聞かされるきっかけになった家のもの。

 山木はきっとわかった上で仕込んできたに違いない。

 あの女の子は――幽霊にしか見えなかったあの子は、今日も二階の窓辺に立っているのだろうか。

 身構えて約半年ぶりに訪れた場所は、しかし、呆気に取られるほど様変わりをしていた。

 車から降り、しばし立ち尽くす。

 敷地には、庭と家屋。大げさではなく、それだけしかなくなっていた。

 無秩序に繁茂していた植物はどうやら根こそぎ刈られたらしく、庭に散乱してうらぶれた空気を生み出していた物たちも、もはや何一つとしてない。

 そろりそろりとメーターボックスの傍まで移動し、見上げる。

 風雨にさらされ汚れきった壁はそのままだった。鈍い銀色の窓の枠も、その向こうの薄闇色も。

 ――市川さん市川さん、女の子が。

 ――あれはお化けだ。

 だが、今はそこに誰もいない。

 引き返し、足を止め、見る。壁に貼り付いていた電気メーターはぴくりとも動かない。

 ガスボンベは痕跡しか残っておらず、メーターボックスまで戻り、なかをのぞき見ても、水道メーターの数字はいつまでも変わらなかった。

 あの女の子は、もう出て行ってしまったのだろう。

 メーターの数字を転記して、改めて開栓届を見る。転居先は市外だった。

 閉栓届をもとに電算システムが弾き出した最後の水道料金を料金調定係が確認したあと、ここに納付書を送る。

 それをたとえ無視されようとも、この程度の小口の取り立てをすることはない。ただ定期的に督促状を送るだけ。

 これにて縁は切れる。

 メーターボックスを閉め、閉栓届を見つめる――あの日、市川は機嫌が悪かった。

 あの女の子と田実をかかわらせたくなかったからだと山木は言っていた。

 滞納する世帯の背景に考えを巡らせるようになったら、仕事に手がつかなくなるのではないか、と。

 実際はそんなことなどなかった。今も停水にためらいなどない。滞納による停水が認められている以上、するまでだ。いや、命令されている以上、しなければならない。

 だが、この家のことはそれから半年経っても記憶に残っていた。

 あの女の子の姿と、井上の過去と、市川の表情とともに。

 ――そのうち忘れるのだろうか。

 ここに二度と滞納者が入らなければ、思い出すことはなくなるだろう。

 いや、またここに足を運ぶことになったとしても、きっと新しい記憶に上書きされていく。

 田実はそこまで物覚えがよくない。

 いやなことは大体早く忘れてしまう。


 生まれて初めて、それがとても怖いことのように思えた。

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