2月 一年で最も短い月(12)
――田実にとっての人生最大のピンチは十一月のあの日だった。
ギリシャ神話めいた牛頭の怪物に、市川ともども殺されかけたあの日。
七月の技能研での一件も、あの時は何が何だかわからなくて流されたが、今となっては相当なピンチだったとわかる。
もしかしたら死ぬかもしれない――生きていく上でそれに勝る危機的状況はない。
が、たとえ命にかかわらなくても危機は危機だ。
――田実は今、女物の派手なセーターを身につけた、ひょろりと痩せた初老の男に半ばしなだれかかられ、頭と顔と時々尻をなで回されていた。
知り合いではない。見覚えすらない。浅黒く日に焼けた肌色と対照的な真っ白い髪。痩せているからか彫りの深さと皺が際立つ顔のなか、にっと笑んだ時に見えるやたら整然と並んだ金歯と銀歯が目立つ。アルコールとたばこのにおいと女物の香水のにおいが混在していてくらくらする。くらくらするくらい目の前にその匂いのもとはいた。
単なる料金未納による停水の通告のはずだった。
今月の相方は井上で、マルキは回ってこない。その分、マルチューや特注が回ってはくるが、その上さらに特記事項がつくようなのは回さないと山木は言っていた。そして、実際、特記事項はなかった。
にもかかわらず田実は古いアパートの一室から出てきた男に抱きつかれ、現在に至っている。
「――で、あれでしょ、正行くん? うち、水道料金未払いって言ってたよね? その未払い分って水道局まで行って払わなければならなくて……、でも、払うまでの間、水、いったん止めちゃうんでしょ? 正行くん」
やわらかくない、かさかさとした掌が頬を包む。
最初に田実のフルネームを確認したあと、しつこいくらいに下の名前で呼び続ける男の話は、とにかく堂々巡りだった。
のっけから同僚がとんでもない目に遭っているのに、なぜか笑顔で井上が最初に説明した給水停止から解除に至るまでの流れを言葉を少し変えつつ、田実に確認する体でなぞるたけ。それがかれこれ十五分は続いている。
「じ……自分たちがここで徴収というのは、その、できないので……」
たぶん、これで三度目のこちらの言い分を口にしながら、ちらっと井上の方を見遣る。
井上はにこにこと笑んで頷いた。
田実としては助けを求めたつもりだったのだが、井上の首肯は男に対する返答に対してだろう。
マルチューや特注の特記事項付のなかには、その場で徴収できるように整えて赴く世帯もあるが、原則として受け取れない――という段ではない気がするのだが。
「ええ? 正行くんに集金してもらえないの? それ、困るわあ……」
言うほど困っていない顔を寄せられ、のけぞる。
と、あら危ない、と頬に添えられていた男の手が腰に回った。
「よろけたよ? 疲れてるんでしょ? 正行くん。うちの奴が帰ってきたら、あたし、水道局にお金払いに行ってもいいから、ね? うちの奴、もうすぐ帰ってくると思うから、それまでそっちのお兄ちゃんにこの近所の仕事頼んで、うちで休んでいった方がよくない?」
「よ、よくないです! 体調全然悪くないので!」
「あら、正行くん、遠慮がちね。ダメよ?」
腰の手がじわじわと下がっていく。
「いや、遠慮させてください!――井上さん!」
今度ははっきりと声に出して井上に目を向けた。
いくら何でもこういう展開になったら井上も何かしら言うだろう。
案の定、さきほどまでの満面の笑みを、ちょっと困ったようなそれに変え、すみません……、と口を開いた。
「僕たち、給水停止の時は規則上、二人一組でしか動けないのですよ。心配するお気持ちはとてもよくわかりますし、何より名残惜しいでしょうけど……」
な、名残?――井上がいったいこの状況をどう思っているのかさっぱりわからなかったが、男はどうやらそれで諦めたらしい。
「二人一組でないといけないのねえ……、わがまま言って目をつけられてもいやだし……」
残念、と田実の尻に添えていた両手を離し、ぽんと双肩に手を置いた。
「うちの奴が帰ってきたら払いにいかせるわ。それまで水停めといていいよ?――それよりまた遊びにきてちょうだいね? 正行くん」
そうして双肩から下ろされた手が不自然に股間を撫でていったが、とにかくさっさとこの場から離れるべく、気づかないふりをして、停水に取りかかった。
幸いなことに男はそのまますぐに部屋のなかに戻り、速やかに停水後、一声かけるとなかから、ごくろうさまー、と返ってきただけ。
車に戻るなり、さすがの田実も声を荒らげた。
「井上さん! 何で助けてくれないどころかにこにこしてたんですか!」
運転席に乗り込んだ井上は、ぎょっとしたようにこちらに目を向け、瞬かせた。
「知り合いじゃなかったの?」
「知り合いじゃないですッ」
「でも、頬すりすりされたり頭なでなでされてたりしたじゃない? おじさんか何かなんでしょ?」
怪訝そうに首を傾げる井上に、は、はい? と目を瞠る。
「あの、ちょっと井上さん、さっきの人、な、何だと思ってたんですか……!」
「だから、田実君の親戚だと」
あなたの親戚のおじさんは三十近い男の身体をまさぐるんですか、と訊ねたい気はしたが、あとはもう黙って残りの停水をすませるので精一杯だった。
局に戻り、割り当て分が終わったことを山木に報告したあと、田実は言葉を濁しつつ切り出した。
「今日の特注、高瀬アパートのなんですけど……、あそこ次からぼく、外していただけないでしょうか」
「高瀬の……ですか」
ふと眉を寄せ、端末に目を向けたあと、一の一〇三ですよね? と確認してきた山木に、頷いて見せ、問う。
「特記がなかったんですけど、どんな経緯で特注なんですか?」
「ここの世帯主は元マルチューです――」
ということは暴力団関係者か。
「――三年くらい前に一応その方面との縁が切れたものの、念のためつけていた方がいいという市川さん判断で特注にしています。なのでこれまでに何かトラブルがあったというわけではありません――何かあったのですか?」
「え、っと……その……」
はたして何と言えば、自分も聞き手もダメージを受けないよう、さらりと要点だけ伝えることができるのか。
「あの……ですね、セクハラまがい? の被害に遭いまして……」
「セクハラまがい?」
山木はそう言って訝しげに自分の席に戻っていた井上に視線を向ける。
こちらの話は聞いていたのだろう、セクハラっていうか……、と首を傾げた。
「孫とか親戚の子をかわいがる、スキンシップがやたら多いおじさんって感じでした」
「十歳足らずの子どもならともかく三十前の男、しかも仕事で訪ねてきた人間へのスキンシップは、よくてセクハラ、悪くて犯罪です」
おおむね田実が思っていたのと同じことをぴしゃりと言った山木は、
「――田実君、他に特徴はなかったですか?」
と、こちらに向き直った。
そのまっすぐ真剣なまなざしに促されるように口を開く。
「大体五十から六十くらいの痩せた男で、身長はぼくと同じくらい、白髪頭で、浅黒くて、そして、その……女物の服を着ていて、口調も女っぽいところがあって……」
「まったく違いますね」
ぼそりとかぶせるように言い、山木は首を横に振った。
「世帯主ではありません。一致しているのは年代だけです」
「同居人かもしれません。『うちの奴が帰ってきたら払いにいかせる』と言っていたので」
「うちの奴、ですか。単身だと聞いているのですが……」
そうしてしばし考え込むような素振りを見せたあと、ほどなくして電話をかけ始めた。
「……山木です。お疲れさまです、市川さん。高瀬アパートの特注について今、少々お時間いいですか? 世帯主の同居人について」
ああ? 同居人? と受話器から声が漏れ聞こえた。
確かに市川の声だった。
「……ええ、どうやら男のようなのですが……そうです、同居人も男です。世帯主と同年代で女物の服を着ていて、口調も女性っぽいとのことなんですが……はい……はい……わかりました、少々お待ちください」
保留ボタンを押し、田実君、と山木はこちらに向き直った。
「その男、歯に特徴はありませんでしたが?」
「歯――」
にっと笑んだ時に見えるやたら整然と並んだ金歯と銀歯。
「――ありました。金歯と銀歯がすごかったです」
頷き、保留を解除した山木は、市川さん、間違いないようです、と言った。
「そのタツさんとおっしゃる方が、停水中のうちの職員にセクハラまがいの行為を働きまして……、……え?」
山木の視線がこちらに向けられる。
目を見開き、そして、ゆるゆると顔をしかめていく。
「……いえ、そうですが……はい、はい……いえ、はい……はい……わかりました。はい……、はい……それではですね……ええ、そちらの方は市川さんがということで……はい、失礼します」
そうして通話を切った山木は、深く息を吐き出して、田実に頭を下げた。
「今日の高瀬アパートの件はこちらの失態です、すみませんでした」
「え? あ、そうなんですか……?」
失態という言葉に反応したのか、何があったのです、と村沢係長が席からこちらに声をかける。
「何か問題でも?」
「それですが――」
山木がめずらしく目に見えて苦々しい面持ちで席を立ち、係長に耳打ちをする。
目を瞬かせながら眉間に皺を寄せていき、やがて離れていった山木を追うように見上げた係長は振り返り、井上君、ちょっと……、と呼びつけた。どうやらそっちはそっちで話をするらしい。
個別に、そして、具体的なことは周囲に伝わらないように配慮して、ということは相当言いにくい内容なのだろう。
もっとも言われなくても、田実はおおよそのことを察しつつあったが。
「あのおじさんって、その、ぼくがダメってことですよね……? ぼくの見た目というか……何というかが」
戻ってきた山木にそう訊ねる。
「ええ、他は試してみないとわかりませんが……」
と頷き、山木はまた深く息を吐き出した。
そうしていよいよの小声で語り出したところによると、市川は世帯主とあの男の古なじみで、あの男が世帯主のところに転がり込んだことも知っていたのだという。
なお、知ったのは今月の頭。
あの男自身は金銭絡みについては品行方正で、これまで停水にも引っかかったことはない。だが、世帯主は年に一度か二度は停水を食らう。
なので、あの男が男好きで、しかも気が多いということを伝えなければならないと思っていたそうだが、今月から導入された新料金システムを前にして諦めた――うちの奴らなら誰でも閲覧できるようなもんに世帯主じゃあねえ、書類上は同居人でもねえ人間のあんまりよろしくねえ話なんぞ書けねえよ。そうでなくてもあいつがどんな男が好きなのかっつうのはよくわかんなかったしな。
システムに書くにせよ口頭で伝えるにせよ、いたずらに伝えたら混乱を招くだけ。
なにせ停水班どころか収納係には男しかいない。
「基本的に口頭で伝えられても理由は訊きます。なのでどうも言い出せなかったようですね」
「でも、市川さんだったら何が何でも自分が行くと言い張りそうですけどね……」
そんな時の市川の強面を思い出しつつ言う。
山木はほんの少し目を細め、ゆるゆると首を横に振った。
「言えないでしょう――確かに昨年の今頃ならば理由を伏せて言い張っていらっしゃったかもしれませんが」
「え?――」
なぜですか、と訊ねかけて、田実は口を噤んだ。
気づいてしまったからだ。
来月末で市川は定年を迎える。
今回無理を通しても、次の四月からは別の誰かの仕事になる。
気づいたことに気づいたのだろう。……そういうことです、と山木は息をつき、
「ともあれ、来月以降、高瀬アパートが回ってきても貴方は入れないようにします」
いつも通り淡々とそう言った。
その日、職場から退出する時、市川と一緒になった。
「すまなかったな……、何というか、本当に」
前を歩いていた市川は、そう言って振り返った。
困ったような笑顔。
水道局に来たばかりの頃は、ただただ強面としか思えなかったその顔が、案外表情豊かだと気づいたのは、いつ頃だったのだろう。
ただ、いつだったにしても、まだ一年は経っていない。
「仕方ないですよ」
平静を装って答える。
「そんな予測なんて、そうそうできないと思いますし」
「まあ、そうなんだが……な」
市川はそう濁し、ぼそりとぼやいた――俺が行けてりゃあなあ。
笑みを作ろうとして頬が引きつる。
ああ、ダメだと、そう思った。
――特殊型閉栓キャップはマスターした。特殊型止水栓キーも使うことができる。
強くなったとまわりから言われることが増えた。自分でもたくましくなったと思う。
けれども、それは市川という強い後ろ盾があったからだ。
いなくなったらどうなる。
「どうした、ボーヤ。妙な顔をして」
「……いいえ」
今度はうまく笑みらしいものを作れたのだろうか。
ならいいが、と怪訝そうに言いながらも、市川は前に向き直った。
「無理はするなよ。油断してると風邪引くぞ。まだ寒いからな」
一年で最も短い月がもうすぐ終わる。
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