2月 一年で最も短い月(7)

 田実は職場のなかで交友関係を広げたいと思ったことがない。だが、積極的に避けているわけでもない。かといって、来る者拒まず去る者追わずというのが職場での立場を安定させると考えているわけでもなく、とどのつまり、面倒臭がりで臆病なだけだ。

 そんなわけで営業課以外でよく見知っている同僚というのはほとんどいない。が、まったくいないわけでもない。

 大体、よくも悪くも仲間意識の強い昔気質な公務員が多い水道局で孤独でいるのは難しい。何せ一人でぼうっとしている同僚を見つけたら話し掛けずにいられないという奇特な人間までいるのだ。

 工務課の鞍川定実はその奇特な人間の一人。

 さらに奇特なことに、技術職が幅を利かせる水道局では事務屋嫌いが少なくなく、特に本庁から出向組は無能だと公言する人間もいるなか、鞍川はこってこての技術職でありながら、どうも同属の方が嫌いらしかった。

 水道局に棲んでる技術屋って、とにかく男臭くて奥手で仲間内でつるんでばかりでオンナノコから距離置かれる感じがしないか――というのが訊いてもいないのに自ら語ってくれた鞍川の主張だが、田実からすれば鞍川というのは彼のいう技術屋以外の何者でもない気がしてならない。

 鞍川の目指すところというのは、たとえば収納係でいえば事務屋を地でいく山木だったり、作業着のまったく似合わない小寺だったり、喪服を着て街中を歩くと警察に職質されるがインテリ風ではある佃だったりする様子だが、そんな当の鞍川の外見はというと、どちらかといえば彼らとは正反対の宮本と同系統で、いかにも体力自慢の技術職といった風情だ。

 ちなみに鞍川曰く、宮本は極めて人間に近い“何か”であり、事務屋技術屋という区分で分けるべきではないらしい。そういうのをすでに超越している、と。

 ところが最近、その色々と超越してしまっている“何か”が、人間の女性と結婚を前提としたお付き合いというものを開始した。

 なるほど世のなかには色々な趣味の人間がいるものだと田実は感心したのだが、どうやらそれは既婚者の余裕というものらしい――今、田実の横にいてほとんど泣き顔の鞍川に言わせると。

「……そんなもんですかね」

 結婚して一年と少し。しかし、元々結婚というものにさほど興味もなく、今だって関心のない田実は曖昧に笑んで返す。

 と、

「そうだよ、君は若くして結婚してるからあのみやもっちが結婚するかもしれないというのが同世代の人間にとってどれだけ驚くべき、いっそ脅威的なアクシデントかわからないんだ――」

 見た目こそ逞しいが、よく見れば線の細い面立ちをしている鞍川は、少し神経質そうな早口で言った。

「――そう、たとえば、たとえばだよ。君のところの井上少年が突然おそろしく有能になったら? 何かよくわからないけれど追い立てられるような心地になるだろ?」

 確かに井上とは同年代ではあるが、むしろ有能になってくれた方が嬉しいというかできることなら今すぐに有能になってほしい、それによって何かしら劣等感を覚えるようなことは絶対にない。内心、誰かあの人をできる人にしてくれないかなあ、と思いつつ、とりあえず話を合わせるべく、そうですね、そうかもしれません、と頷いてみせた。

 井上のことはさておき、結婚を熱望する人間がいるのはわかっているし、それを否定するつもりはない。

 田実自身、妻と結婚してよかったとは思っているのだ。誰よりも好きだった彼女と誰に何を言われるでもなく一緒にいられる。恋人のまま同棲状態を維持するよりはずっと楽で、楽になった分、生活が充実した気がしていた。

 だが、どうしても結婚したい相手がいたからこそ結婚したわけで、その相手がいなければ、いつどこで誰が結婚しようとも自分には関係ないことだと気にも留めなかっただろうと思う。

 結婚は手段であり目的ではない――心底そう思っているから、鞍川のような人間を否定はしないものの今ひとつピンとこない。

「まあ確かに宮本さんのような、その、ある種の規格外? な人が結婚できるのならば、他のある意味普通な人も当たり前のようにできそうな気はします」

 まあそれにしたって人それぞれだよなと密かに思う。

 宮本の彼女は、おそらく宮本と結婚したいと思っているから結婚を前提に付き合っているのだろう。それが奇特だろうと何だろうと、そんな彼女がいる限り宮本は結婚できる。鞍川は鞍川と結婚したいと思う相手に出会わない限りはできない。

 冷酷だがそんなもんだろう。

「まあ、そのうち鞍川さんと結婚したいという人が現れると思いますから――」

「さやかちゃんは諦めろと」

「いやいやいやいや誰もそんなこと言ってませんから」

 ああもうこの人面倒臭いなあ、と思いつつ溜息をつく。

 実のところ、鞍川にも彼女というのが存在しているのだ――もしかするとすでに“存在していた”と言う方が正しいのかもしれないが。

 その彼女、“さやかちゃん”というのがいったいどういう人間なのか、例のごとくさして興味もない田実はよく知らない。が、ただ一つ、その“さやかちゃん”が鞍川と結婚する気はないというのは知っている。

 どうやら鞍川、宮本の一件で危機感を覚えて“さやかちゃん”にプロポーズをし、見事玉砕、ついでに別れを切り出されたらしい。

 元々ちょっとばかりおかしいなとは思っていたのだ。

 折に触れ、鞍川から“ノロケ話”を聞かされていたのだが、どちらかというと男女の仲の機微には鈍感な田実ですら、それは本当に彼女なのか? と思うような内容だった。

 たとえば賞与一回分を余裕で持っていかれる宝飾品を贈って、お返しは手作りとは名ばかりのほとんど冷食で構成された弁当一回分。会うたびにそこそこお高いレストランで夕食を奢るのが男の矜持だとしても、付き合い始めて二年、一人暮らしの彼女のアパートどころか敷地内にさえ一度も入ったことがないというのはちょっと気高すぎるのではないのか、と。もっとも、彼女の貞操観念が強いというならわかるが、どうやらホテルなどでやることはやっているらしく貞操云々は正直あやしい。なお、ホテル代はもちろん全額鞍川持ちだ。

 フリーターで稼ぎの少ない彼女にお小遣いをやっているというのを市川と一緒に聞いた時には、あとで市川からこそっと「援助交際というヤツと何が違うんだ?」と真顔で訊ねられ、答えに窮したこともある――田実も、ほとんど援助交際だよなあ、と感じたがゆえに。

「さやかちゃん、あれだけ俺のこと好きだって言っていたのに……」

 深い溜息をついて俯き、手で顔を覆う鞍川に掛ける言葉が見当たらず立ち尽くす。

 いったい何をどう言えばこの場から上手く抜け出すことができるのか――どれだけ考えても「その“さやかちゃん”というのは諦めろ、というかやめとけ」という一言をやんわりと伝えることしかできそうもなく、俯いたままの鞍川からそっと視線を外し、周囲をうかがう。

 誰か状況を打破してくれそうな人は――人がいる時はいるけれどもそうでない時は皆無の自販機コーナー。

 昼休みは入れ替わり立ち替わり人が訪れるはずなのだが、深刻な話をしている空気が漂っているのか、それとも皆、鞍川の現状を知っていて避けているのか、傍には誰も見当たらなかった。

 どうしたもんかと鞍川に視線を戻して思いあぐねる。

 鞍川も鞍川で行き詰まっているのだろう。時折溜息をつくくらいで動かない。

 いっそこのまま午後の始業のベルが鳴るまで黙っているのがベターだろうかと、十三時まであと十五分、諦め掛けたその時――

「おい、何石像みたいに固まってんだよ、お前ら」

 何はなくても地に響く、どことなく怒声染みた声。田実は足許に落とし掛けた視線を引き上げて振り向く。

 一番奥の自販機の影から隠れ得ぬ巨躯をのぞかせていたのは、鞍川曰く色々と超越してしまっている“何か”――

「み、宮本さん?」

 いったいどこからこの人出てきたんだと、一瞬鞍川のことを忘れるほど驚いたが、当の宮本もわかりにくい場所から出てきた自覚があったのだろう。ぬるりと自販機コーナーにやってきて面倒臭そうに口を開いた。

「午前中チャリで外回りしてたんだがパンクさせちまったんだよ。何とか帰ってきたがチャリ屋遠いし、何か間に合わせのもんがねえかなと思ってな――そこの倉庫に」

「ああ、なるほど」

 そういえばその向こうは収納スペースだったなと思いつつ問う。

「パンク、直りそうですか?」

 何も手にしていない辺り、めぼしいものはなかったのだろうなと察しながらも訊いたのは、この流れでここから逃げ出せないだろうかと思ったからだ。鞍川の愚痴は一通り終わっているようだし、そうでなくとも恋愛だの結婚だのに関してあからさまに格下認定して比較していた相手を前に何も語れまい。

 このまま雑談しながら戻ろう――そんなささやかな期待を裏切ったのは、ほかでもない宮本だった。

「おい、サダミ。いつまで石像の真似続けてんだよ」

 ここから逃げ出すことに必死になっていた田実は思い出す――そういえば宮本さんもどちらかというと奇特なタイプだった……。

 大いに厄介な局面に放り込まれたことを感じつつ、ここは放っておいてあげた方が得策です、という意思を込めた視線を宮本に送る。が、これで伝わるのであれば宮本はそもそも鞍川を避けてこの場から立ち去っていただろう。

 鞍川が“問題の彼女”に振られたという話は、じわじわとは広がっている。あまりそういう話に興味のない田実でも知っているのだから、当然のことながら宮本も知っていて――

「お前、さやかちゃんに振られたんだろ。こんなところでぼんやりしてていいのかよ」

 ――ストレートにど真ん中を貫いた。

 田実は言葉を失い、鞍川も俯かせていた顔を跳ね上げ、唖然とした面持ちで宮本を見る。

 声を掛けられた時点で覚悟をしていたのかもしれないが、ここまで真っ直ぐな言葉が飛んでくるとは思っていなかったのだろう。

 ただ、場を凍り付かせた当の宮本は、田実と鞍川の反応にこそ驚いたらしい。

 何でそんな顔をしているのかわからないという風に鞍川を一瞥し、こちらに目を向け首を傾げ、そして、鞍川に視線を戻して呟くように言った。

「明日、バレンタインデーだろ……?」

 それと先ほどのストレートな発言に何か関係が?――目は口ほどにものを言うというが、どうやらかなりはっきりとものを言っていたらしい。こちらに視線をくれた宮本は、

「バレンタインデーを独りですごすのってつらくねえか?」

 と眉間の皺を深め、どこか言い訳染みた口調で言う。

「相手がいないっていうのならともかく、サダミは振られたばっかだろ。それもプロポーズして、そういうの重いって振られただけじゃねえのか? 違うのか?」

 ようやく我に返ったらしい鞍川は、しばし考え込むような素振りを見せたあと、ゆるゆると口を開いた。

「たぶん……うん、たぶん、そんな感じだった、と思う。結婚とか、そういうのを考えた付き合いは息苦しいからしたくないって。それで、別れよう、って……」

 思い出したのか、顔を歪めた鞍川に、みっともねえなあ、つうか泣くなよ? と、なだめるように言い、

「じゃあ簡単だろ。結婚なんてもう二度と考えねえからもう一度付き合って下さいって、ひとまずヨリを戻して仕切り直せ。どうせ明日になったら、バレンタインデーなのにってもっと凹むんだろ? 振られたって凹んでる余裕があるうちに動けよ阿呆が」

 間違ったことは言っていないが、正しいとは言えない乱暴な言葉を投げつけた。

 見た目より気性の穏やかな鞍川は、いよいよ泣き出しそうな顔になりながら、でも、と口を開く。

「さやかちゃん、怒ってるとか機嫌悪いとかそんな感じじゃなくって、けんもほろろってか取り付く島もないって感じで、とてもじゃないけどそんなやり直そうって言えない雰囲気で……」

 そうしておろおろと言葉を繋ぐのを、宮本は遮るように溜息一つ、

「サダミ、お前は本ッ当に阿呆だなあ」

 へし折った。

「顔を合わせた途端逃げ出すとか、目が合った途端嘔吐するとか、そういう拒絶反応が出てるならともかく、まだまだ駆け引きできる段階だろ。欲しいならもぎ取れ。努力もしねえのに愚痴ったって誰も同情すら寄越さねえよ。はっきり白黒付けてから、振られただの別れただの愚痴ればいいだけで、それまでは全力で行け」

 まるで負けられない試合に挑むような、まったく恋愛臭のしない叱咤。

 はっきり白黒付けたら真剣試合ならともかく恋愛では犯罪ではないのだろうかという疑問をよそに、さらに続く。

「一分一秒たりとも無駄にすんな。さやかちゃんって確か昼間は家にいるんだろ。行けよサダミ。午後から休み取って突っ走れ」

 ――たぶん、鞍川は傷つきたくない、復縁したいという間でゆらゆら揺れている。やんわりとなだめたり示唆したりという程度ではどっちつかずのままだろう。しかし、ここまではっきりと選択を迫られたら感情の針は間違いなく大きく振れる。そして、宮本はどちらかに振り切れるまで許さない。

 言い訳探しのためか曖昧に動き回る鞍川の視線。それを追うことなく真っ直ぐ見据え、宮本は眉根を寄せる。

「半休取れないのかよ? 有休足りねえの? それとも工務課今何か抱えてたか?」

「い、いや、別に、そんな急いで片付けなきゃならないことはないけど、その……」

「何だよ、」

「今日、宿直で……」

「はあ? 何だお前、もしかして愚痴愚痴愚痴愚痴あっちらこっちらで言って回ってるくせに全然ヨリ戻す気ねえのかよ」

 呆れ切ったとばかり宮本が言い放ったその瞬間、どうやら鞍川の針は振り切れたらしい。

「あるよ! 面と向かってはっきりきっぱり拒絶されんのが嫌だっただけだし!」

 目が合うだけでもちょっと怖い宮本の顔面をキッと睨めつけ、強い語気で言い切って、言い募る。

「そこまで言うなら宿直代わってよ! みやもっちゃん! 半休取ってさやかちゃんち行くから!」

「え、オレ?」

「何か問題ある?」

「問題はねえけど、オレも用事がねえってわけじゃあ……」

 確か今日明日二晩連続で彼女とデートだって言っていたような気がするなあ、と田実は朝の出来事を思い出す。

 出勤して間もなく、あまり整理整頓のなされていない自分の机の上を片付けていたら突然宮本にたまたま傍にいた井上ごとぐいと両腕で抱えられ締め上げられ、いかに自分の彼女がかわいいか、そして、その彼女と今日と明日、二日連続でデートの約束を取り付けたことを語られた記憶が微かにある。もっとも、締め上げられすぎて脳味噌が酸欠気味だったのであまり自信はない。

 が、どうやら気のせいではなかったようで、用事がなあ、と、らしからぬうろたえぶりで呟きながら、ちらりとこちらに視線を寄越してきた宮本に、田実は首を横に振って見せて言う。

「申し訳ないですけど“病み上がりの嫁”を独りにしたら後々怖いので代わりは勘弁してください」

 以前ならばともかく、現在結婚の二文字を強く意識している宮本は、病み上がりの嫁というのに反応したのか――田実もそれを見越して多少強調したのだが――より一層うろたえながら、そうだよな、そんな病み上がりの嫁を独りにしちゃいけねえよな、ていうかいけねえよ、と取って付けたような理解を見せ、今度は腕時計に目をやる。

 虱潰しに代わりを探そうと考えたのだろうが、昼休みはもうすぐ終わる。

 宿直の代理は理由問わず直前までに用意すれば問題ないということにはなっているが、当日となるとよほどやむを得ない事情でもない限りなかなか代わってもらえない。

 彼女とヨリを戻すという理由ではまず無理だろう。

 処分の面倒臭そうな未確認生物を目の前にした時のような、非常に難しい表情で腕時計を睨みつけた宮本は、やがて溜息をついて言った。

「……仕方ねえなあ。サダミ、オレが責任持って代わってやるよ」

「え……、……い、いいの……? 本当にいいの? みやもっちゃん、何か用事あるんじゃないのか?」

 見る見るうちに鞍川の表情が明るんでいく。

 対して宮本は、彼にしてはやさしい口調で、

「気にすんな。その代わりしっかり話つけてこいよ」

 と、善は急げとばかりペコペコ頭を下げながら駆け出した鞍川をあたたかい――いや、生温い眼差しで見送った。ぴらぴらと手まで振りながら。

 浮かれる鞍川が見えなくなってから田実は小声で訊いた。

「……よかったんですか?」

「別に構やしねえよ」

 振っていた手を下ろし、鞍川が消えた辺りを眺めたまま表情と同じく生温い声音で宮本は言った。

「オレの彼女はかわいくてやさしくて気立てがよければ心も広い。何より大人だしな。事情を説明すりゃわかってくれる」

 宮本の彼女が“そういう人”だというのは田実も聞いて知っていた。なるほど野獣染みた男を相手にするにはそれくらいの度量が必要なのだろうと思うが、

「……宮本さんは?」

 当の野獣はどうなのか。

「あ? オレ?」

 自分のことを訊かれるとは思っていなかったのか、こちらに振り向き、瞬かせた目を訝しげに細める。

「そりゃまあ、腹立たねえといったら嘘になるけどな、でも、そういうガキっぽいのを表に出すのはやめにしたんだ」

「……というか、別にガキだとは思いませんけど……」

 まあなあ、と、はっきりとしない態度でぽりぽりと鼻の頭を掻いた宮本は、目を逸らしつつ、ぼそりと言った。

「……あれだ。彼女と同じ土俵に立ってみたいとか、そんなこと思ったような、思わなかったような。まあ、彼女ならばこうするよな、みたいな感じか……」

 合点がいった田実は、そちらの発想の方が子どもっぽいというか若々しいというかかわいらしいと思いはしたものの口にはせずに小さく笑うに止め、しかし、何がともあれ助かりました、と礼を言う。

「あのまま宮本さんが来なかったら正直どうなっていたか……」

 こちらに視線を戻した宮本は、そうだな、と太い腕を組み、表情を緩めた。

「最大限できうる限りの感謝をしろよ――といっても助けようと思って助けたわけじゃねえがな。本当に偶然だし……ああ、あれだ、どうしても感謝してえっていうならオレのチャリンコに感謝しろ」

 いや実際その通りだと思った田実は、自転車屋に運んでパンク直して来ましょうか、と半ば本気で申し出たが、冗談だよ気にすんな、オレは心が広いんだ、と胸を張った宮本は、しかし、ふと遠くを見るようなまなざしになって言った。

「ああ、ホント別にオレもオレのチャリも気にしてくれなくていいけどよ……一つ言うならば、次にサダミ絡みの現場に遭遇してもオレは余裕で素通りすっから、許せよ?」

「……はい、わかってます」

 言いたいところを察した田実は神妙に頷き、鞍川が走り去った方を見て、言う。

「あれは駄目ですよね……」

「堂々と唆しといてこんなこと言うのはあれだが間違いなく駄目だろうよ……」

 誰もこれまで鞍川とその彼女が上手くいくとは思っていなかったし、むしろ上手くいっても駄目だろうと思っていた。

「ああでもしねえとアイツあのままだろ。ってかうっとうしい。今日彼女のところに突撃して目が覚めればいいがなあ」

「でも……目が覚めても何となく新しい問題を引き起こしそうなタイプじゃないですか? 鞍川さんって」

 ――湿っぽく、執念深く、結婚に憧れ恋に恋する、一時の感情と脊髄反射で何かしでかしそうな小心者。

 こちらを見下ろす視線に気付いて、見上げる。しばし、見つめ合い、どちらともなくぬるく嗤い合う。

「ボーヤ、お前もしばらくサダミを避けて歩けよ?――先輩からの忠告だ」

「ありがとうこざいます、宮本先輩」

 そう頭を下げながら、何となくですが……、と言う。

「こっぴどく振られた帰り道、通りすがりの女の人に一目惚れしてナンパしてまた振られるとかそういう展開になりそうなんですけど……」

「ああ、その想像いいセンいってそうな気がするな……」


 案の定、今度こそはっきりと“さやかちゃん”に別れを告げられた鞍川は、その帰りにナンパこそしなかったものの、翌日――天下のバレンタインデー当日、局に出入りしている保険屋の営業に惚れた上、局員すべてに配っていた義理チョコに何をとち狂ったのか舞い上がって契約。しかし、その営業は小寺に気があるらしく鞍川を営業スマイルでスルー。撃沈した鞍川はなぜか北島出納係長に泣きついたらしい。

 北島以外誰も相手にしなかったせいだろう、と思ったが、

「そこまで独身主義でもねえのに独身やってる四十路のボスに泣きつくなんぞ悪魔のような奴だよなあ……」

 そうぼやいていた宮本は、しばらく鞍川には近付かないという前日の誓いはどこへやら、今朝から鞍川を追っていたのだという。

「……なぜですか」

「ああ? サダミの代わりに宿直入ったのはいいが、一緒だった陸さんの機嫌があんまりよくなくてな。ここは一発サダミに当たり散らして発散しようと思ったんだよ」

「でも、鞍川さんは捕まらなかった、と」

 愚痴を聞いてくれる相手を探しつつ、一方で宮本のことは避けていたのか、決して広いとはいえない局内散々探し回った挙げ句に宮本が見つけたのは北島に愚痴っている鞍川。

「何だろうなあ……、ボスに何愚痴ってんだ血ィ吐いて土下座しやがれとか何とか言いながら横から跳び蹴り食らわせばよかったのかもしれねえが、どうしてかやっちゃいけねえと思ったんだよな、あん時」

 火炎放射を浴びせてもなかなか死なない未確認生物を、時に一撃で仕留める宮本の跳び蹴りなんか食らわされた暁には死ぬとか死なないとかそういう問題ではなく、

「やらなくてよかったと思いますよ」

 と、ぬるく笑む。

 鞍川の話をややこしくしたのは宮本自身あずかり知らぬことだとしてもおそらく宮本。

 宮本が彼女彼女と浮かれていなければ、こんなことにはならなかっただろう。

「男の嫉妬は怖いらしいですから」

「え、もしかしてサダミって保険屋のねえちゃんじゃなくてボスのことが……?」

 何をどうすればそういう発想になるのかということを呟いて瞠目するのを見、この人今本ッ当に幸せなんだろなあ、と心のうちで呟いて田実は曖昧に笑んだ。

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