1月 結婚式とフンドシと(2)

 たまに所用で本庁に行くことがある。

 そして、

「お! たじっちゃんじゃないか」

 たまに知り合いに会うことがある。

 田実は本庁に三年いた。

 しかし、入庁直後からの三年で、その間、異動することもなく資産税課家屋係にずっといたので、知り合いの数というのは少ない。資産税課で一緒になった職員と、あとは同期入庁くらいだ。

 けれども、本庁勤務が長い佃などは知り合いに出くわさないことがなく、特に佃に限って言うといいかたちで外局へ異動したわけではないらしいので、近寄りたがらない。

 実のところ、そんな佃に脅されて仕事を押し付けられ午後一で本庁へやってきた田実は、佃の強面を鮮明に思い出しつつ、声を掛けてきた知り合いに笑顔で応えた。

「お久しぶりです、富士川さん」

 昨年度資産税課に異動してきて一年間だが一緒に仕事をした壮年の職員は、角張った顔に人好きのする笑みを浮かべて、本当に久し振りだなあ、と目を細めた。

「水道局だったよな。すっかり作業着慣れして……で、どうだ? 水道局」

「何とかやってます」

 本当に何とかギリギリですけれども、というのはおくびにも出さず、さらりとにこやかに言ってのけた。会話を早々に切り上げたいからだ。

 別に富士川が嫌いだからではない。嫌いになるほど関心がないというわけではなく、むしろ人の悪い佃などに比べると格段に好感度は高い。

 人柄を簡単に説明するならば親切でやさしく陽気。細かい計算が得意ではないらしく、決して仕事ができる方というわけではなかったが、人当たりがよく社交的な性格はそれを補っても余りある。昨年度の終わりには富士川と一緒だと家屋評価に行った先で嫌な目に遭うことがないというジンクスが係内にできていた。

 職場の人間付き合いを面倒臭く感じる田実だが、富士川とであれば時間が許すまで話をしたいところだった――今の職場があんなところでなければ。

 別に魑魅魍魎の住処ではないが、冗談でも洒落でもなく魑魅魍魎みたいなものを相手に戦うことがある水道局営業課収納係。

 実体を正しく知る人間は局内でも少ないが、尾びれ背びれが鱗並みに付きまくった噂というのは本庁にも伝わっているという。田実は知らなかったが、田実が武道経験者だと思っていた資産税の課長は、その噂を中途半端に知っていたのだろう。

 収納係に存在する“事実”を荒唐無稽だと笑い飛ばしてくれる人間ばかりならばいい。だが、火のないところに煙は立たないとばかりに、その噂の真相を求めて探りを入れてくる人間はいないわけではない。

 言うまでもなく田実たち収納係の現役職員や経験者に対しては緘口令が敷かれているし、そうでなくても言ったところで信じてもらえそうもないので誰も言わないのだが、そうやって黙り込むと、内情を知りたがっている相手の好奇心を余計刺激してしまうものらしい。

 富士川がそういう人間だとは思えなかったが、噂話などには興味ないだろうと思っていた同期に、いつぞやそれとなく訊き出されそうになったということがあって以来、田実は同期やかつての同僚と談笑することをさけている。富士川と喋れないのは惜しい気もしたが、念のため。

 表情は笑顔を保ったまま、それ以上何も話そうとしないのを訝しく思ったのか、ほんの少し眉をひそめた富士川は、……ところで、と、わずかに声のトーンを落として切り出してきた。

「たじっちゃん、水道局の何処にいるんだ?」

 ――早く切り上げてほしいと思った矢先に、いやな予感のする展開。

 ああもしかして富士川さんも噂が気になってるのだろうかと、何だか寂しくなったが、続いた言葉は田実の予想とは異なっていた。

「営業課のどこかに井上っていないか?」

「……え?」

 予期せぬ問いに緊張を解き、

「井上って、井上真人さんですか?」

 と間抜けな声で問い返す。

 局内全員の顔と名前を一致させることなどできないが、課内ならばできる。

 井上姓は営業課にただ一人、収納係の井上真人だけだ。

「ああ、そう、真人だ。たじっちゃんの知り合いか?」

「知り合いっていうか、同じ係です」

「仲はいいのか?」

「いいっていうか……普通、です」

 普通以外何か言いようがあるかなと多少逡巡したものの思い浮かばなかった。

 えらく冷めてるな、というような反応が返ってくるのではないかとちょっと身構えたが、

「そうか」

 と言っただけで顎の辺りに手を当てて視線を下に落とし、何やら思案顔になった。

「富士川さん?」

「……ああ、すまんな。たじっちゃんに言っていいもんか悪いもんか迷ってな」

 富士川は困ったように笑って頭を掻いた。

 そうやって迷うようなことはできれば言わないでほしいのだけれども、と乞うように思ったが、物事というのはたいがい田実の思うようには進まない。

「ちょっと訊きたいんだが」

 案の定、富士川は声を潜めて切り出した。

 そうだよな、言わないと決めたら言うのを迷っていたなんて明かしたりしないもんな、普通は、と内心でぼやきながら頷いて見せる。

 ただ、これまで富士川は今のように変にためらうような性格だっただろうか――

「たじっちゃん、真人が結婚するのは知ってるか」

「ええ、式にも呼ばれていますけど――富士川さん、井上さんとお知り合いなんですか……?」

 井上も本庁出身だ。本庁に知り合いがいても何らおかしいことはない。

「知り合いか……まあ、知り合いだなあ」

 富士川はやっぱり困ったように笑う。

 だが、

「もしかして井上さんが保護課の時の、ですか?」

 そう訊くと、その笑みはすっと消えた。

 笑っているとやさしげに見えるが、面立ち自体は決して柔和というわけではなく、笑みを失くした表情はことのほか鋭い。

「保護課の話は、その、真人から聞いたのか?」

「いいえ、ちょっと色々ありまして……、事務担当から聞きました」

 とはいえ、井上の話は単に引き合いに出されただけで、井上になにか問題があって聞くことになったわけではない。

 それを言っておいた方がいいのかどうか考えるうちに、そうか……、と富士川は呟くように言って、視線を落とした。

「……悪い奴じゃないんだがな、真人も」

「あ、はい」

 井上が悪い人間ではないというのはわかっている。それどころかこれで仕事上のミスが今よりずっと減り、その上で親切の押し売りなどがなければ、間違いなく収納係で一番まともな“いい人”だろう。もっとも、ミスがなくて妙な正義感と親切心を撒き散らさない井上は井上ではないが。

 それにしても富士川さん、えらく井上さんのこと気に留めてるみたいだけれども――そんな疑問が表情に出ていたのか、視線を戻した富士川は、……いや、すまんな、と苦笑した。

「先月あいつから披露宴の案内が届いて、今どうしてるのか気になってな」

 ふと思う。

 井上が本庁を出たのは、関わっていた生活困窮者がよくないかたちで亡くなったのが原因だ。ひょっとすると富士川はその時保護課にいて、井上を送り出したのかもしれない。

 井上と保護課で一緒だった面々は、生活困窮者の一人に尽くし、奔走する井上を見て、どう思っていたのだろうか――

 まあ、考えたってキリがないよな、と思考を切り替えて訊く。

「披露宴、出られるんですか?」

「ああ、一応出席に丸付けて返信した」

「んじゃ、ぼくも出ますんで、また会えますね」

 そう言って笑んで見せると、富士川はわずかに目を瞠った。

 しかし、気のせいかな、と早々にそう思い直すくらい、ほんの一瞬のこと。

「……そうだな。次の日曜日。またな、たじっちゃん」

 くるりと踵を返してひらひらと手を振り立ち去った。

「ええ、次の日曜日に」

 と、声を掛けてしばらく黙ってその背を見送り、田実も駐車場へ向かって歩き出す。

 前の同僚まで声を掛けているということは結構規模の大きい披露宴なのかなと思いつつ、それにしても披露宴に着ていく礼服どうしようと刹那的に悩み、金がないから仕方ないかとすぐに諦めて車に乗り込んだ。

 車を駐車場から出した頃には、先ほど下水道課に渡してきた月次集計の下水道使用料に関する資料のことを思い出し、早いとこ下水道課が水道局に入ってしまえば楽なのに、と内心で悪態をついていて、水道局に着く頃には井上の披露宴もそれに出席するというかつての同僚のことも意識の外になっていた。

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