12月 年末狂詩曲(5)

 田実は他人のプライベートにさほど興味がなかった。

 詮索好きな人間がいるというのは理解しているが、それを煩わしいと思うこともなく、プライベートを必要以上に覆い隠そうとする人間がいるというのも知っているけれども、人それぞれだと思うに留まる。

 もちろん、田実自身他人に知られたくないことがないわけではない。

 たとえば、呆れるほどの運動オンチで実は逆上がりができないとか、大学時代サボっていたわけでもないのに留年しかけたとか、家で力一杯妻の尻にしかれているとか、男の沽券というものに係わる下半身の悩みとか、ささいなことではあるが万が一、人から指摘されたらそれなりに不機嫌になるだろうこれらの事柄。しかし、それらは紛うことなく事実であって、隠したところでバレる時にはどうやってもバレてしまう、と、ほとんど諦めていた。

 自分は自分、他人は他人――詮索しなければこちらも詮索されないなどという希望的観測すらない。

 だから、忘年会の時に山木が言っていた「仕事をする上で一番大切なこと」というのも、まあ確かに公私は分けるべきだろうな、というごく当たり前の感想を抱いただけで、そのまますぐに忘れた。

 何事もなければ埋没しただろうその記憶。思い出したのは、忘年会後の休日の夕刻、隣町の商店街の路上で道行く人々の中に山木の横顔を見つけた時だった。

 もっとも、すぐに思い出したわけではなかった。

 高校の同窓会に出席する妻を会場まで送り届け、さて終わるまでどうやって時間を潰そうかと賑やかな師走の街を歩くうち、少し前を歩くのが見慣れた事務担当の見慣れない私服姿だと気付いた時には、あれ山木さんだよなあ、と、そのややほっそりとした首の辺りをぼんやり眺めただけだった。

 私服であっても職場とまったく同じ隙のない後姿。声は掛けづらい。

 職場の同僚としてはありがたい人だけど、そうでなければ近寄りたいとは思わないタイプの典型だよなと、失礼なことをうっすら思ったその瞬間、山木の横顔が露わになった。

 瞠目する。

 笑顔だった。

 めったなことでは笑わない、いや、笑わないどころか感情の起伏そのものをどこかに仕舞い込んでいるような山木が、それでも時々ちらりと見せる感情に富んだ笑み。しかし、今、山木の横顔に浮かんでいるのは、遠目から見てもはっきり笑みだとわかるにもかかわらず、どこか不自然なものだった。

 無理して笑っているか、必死になって笑顔を作ろうとしている――常に余裕のある仕事振りで、感情の起伏以上に懸命なところを見せたことのない事務担当の懸命な笑顔に田実は眉根を寄せた。

 もしかしなくても厄介な場面に居合わせてしまったのではないか――好奇心よりも先に覚えたのはいやな予感。

 そっと視線を外し、ずらすように左側の建物の方へ。

 万が一、後ろを歩いていたことがバレても、すみません、気付きませんでした、妻へのクリスマスプレゼントを選ぶためにショーウインドを見ていましたと言おう、と言い訳の内容まで考えながら。

 自然な感じになるようにとあえてゆっくりとずらした視線、その視界の端にふと映り込んだのは淡い水色。妙に目を引いたその色が、小学生くらいの女の子のコートの色だと気付いたのが先だったか、それとも、彼女の右手の先に気付く方が早かったか。

 田実は息を呑み、足を止めた。

 手を繋ぐ女の子。その相手は山木。

 小さな白い横顔は、山木にとてもよく似ていた。とても。

 わずかにまなじりの吊った涼しげな切れ長の目。低くもなく高くもなく小振りな鼻、薄い唇、細めの顎のライン、細い首のその形。

 だが、それだけのこと。たったそれだけのことなのに、特に気にすることでもないと平然とその場にいることができず、田実は踵を返した。


 仕事をする上で一番大切なことは公私の区別をきちんとつけること――山木は独身だ。


 半ば駆け出すように足を踏み出す。けれども、ほんの二、三歩踏み出したところで肩に何か当たった。

 そのまま押され、押し留められて、焦る気持ちをそのままに顔を上げた。

「す、すみません……」

 とりあえず口にした謝罪の言葉。

 相手はよく見知った顔だった、

「やあ、田実君。こんなとこで君に会うとは思わなかったなあ」

「小寺……さん」

 引きつり掠れた声でそう口にする。と、精算担当の小寺は浮かべた笑みを深くして頷いた。

「どうしてこんなところ歩いてたのか知らないけど、何だったら奢るよ。おいで、田実君」

 いつも通りの優男のやさしい声。でも、拒否することを許してくれるほどやさしくないように聴こえたのは気のせいか、それとも。

「どうしたの?」

 不幸なことに時間はあった。

 上手に嘘をつけそうにもなく、今後のことを考えたら黙って逃げ出す気も起きなかった。

 ぎこちない笑みを浮かべた山木と、その隣を手を繋いで歩いていた山木によく似た女の子と、そして、絶妙としかいえないタイミングで現れた自称「山木の親友」の小寺。職場において立場の弱い田実に選択の余地などないに等しい。

「い、いや、何も……」

 もごもごと答えると、

「そう? じゃあ付いてきてね」

 小寺はくるりとこちらに背を向けて歩き出した。

 急いているのだろうか。こちらを振り返ることなく、擦れ違う人間の視線を釘付けにしながら颯爽と商店街の一角にあったファミレスに入っていく。ウエイトレスの案内を待たずして喫煙席の最奥のソファに腰を下ろしたところで、

「おーい、ここだよ、田実君」

 と手を振ってきた。

 その時の田実はというとまだ入口。

 出てきたウエイトレスに、連れが先に入っていまして……、と頭を下げて奥へと進む。

 公務員にしておくのはもったいない容姿の小寺は、この店内でも十二分に人目を引き、連れということで、じろじろという擬音が聴こえてきそうなほどの視線を浴びながらテーブルにたどり着き、向かいの椅子に腰を下ろした。

「すみません……歩くの遅くって……」

 ぼくが謝る方ではないような気がするけど、と思いはしたものの結局はそう謝ってちらちらと左右に視線を動かす。

 人通りの多い商店街のなかにあるファミレスらしく、席は適度に埋まってはいたが、接している二つのテーブルは空席だった。

 小寺の方をうかがう人間はまだいる様子だったが、顔は見えても声は聞こえないだろう。

「ごめんね、付き合わせて」

「あ、いえ……」

 視線を戻して首を振り、はい、これ、と差し出されたメニュー表を受け取る。

 きっと浮かない顔になっているだろうなと思ったが、かといって愛想笑いを貼り付ける気力もなかった。

 あのタイミングで出くわして、こうして連れてこられて、単に奢られて終わるとは思えない。

「ホント、ツケとかじゃなくて奢るから、何でも頼んでいいよ」

 時間的には夕食前だが、さほど空腹でもなく、

「その代わりちょっとだけ話を聴いてね」

 などと言われたら空く腹も空かない。

 結局、ドリンク付きのケーキセットを頼み、メニュー表を所定の位置に戻して小寺の方に向き直った。

「話って、山木さんのことですか」

 小寺は、うん、と屈託ない笑顔で頷いた。

「見たんでしょ? 山木――祐一と、その隣」

「……見ました」

 ほんの少しだけ迷ったものの、素直に認める。

 小寺は浮かべた笑みを苦笑いに変えて、やっぱりねえ、と言った。

「君がとことん厄介事を嫌うっていうのは知ってたし……、独身のはずの同僚が瓜二つの子どもと手を繋いで歩いてるの見たら逃げるだろうなあ、と」

 確かに田実は厄介事が嫌いだ。好奇心よりは保身が働く。

 だが、忘年会の時に山木と話していなければ、あからさまに逃げ出したりはしなかっただろう。

「……仕事をする上で一番大切なことは公私の区別をつけることだと山木さんは言ってました」

 小寺が頼んだ中ジョッキとともに運ばれてきたチョコレートケーキに視線を落としながら田実はぽつりと切り出した。

「聞いた時は別に何とも思わなかったんですけどね。当たり前のことだよな、くらいで。でも――」

「祐一のいう公私の区別は、仕事に私情を挟むなという意味ではなかったんじゃないか、と、そう思ったとか? 祐一と、祐一にそっくりなあの子を見て」

「……はい。仕事に影響を及ぼさないように私事を切り離すということなのかなって……思ったのは今なんですけれども。さっきは何だかひどく、こう……衝撃を受けたというか、ありえないほどいやな予感を覚えたというか、怖くなったというか」

 言葉を切ってうかがう。目が合うと小寺は困ったように笑んた。

「とりあえず答え合わせをしておくと、あの子は祐一の子どもで間違いないよ。もうすぐ十歳になる。祐一が二十二の時の子どもだから」

 田実は小寺の端整な顔を黙って見つめる。

 わかっていたが、こうして実際に言葉として聞くと予想以上に重い。

「ちなみに祐一がバツイチだってことを知ってる人は多いよ。就職直前にバツイチになったってのもあって余計にね。でも、子どもがいるのを知ってる人は少ない。あえて隠してるからさ。だから、局で知ってるのは、オレと係長とボスと、そして、佃さん」

 いったいどうして就職直前に離婚なんてしたんだろう、という疑問は、子どものことを知っている人間が少ないという言葉に飛んだ。

 隠せるものなのかと驚きつつ、小寺、村沢係長、出納の北島係長、と子どものことを知っているという面々を思い浮かべ、四人目の名前で引っ掛かった。

「佃さん、ですか」

「うん、最近知られたというかバレたというか……ていうかオレが悪かったんだけど」

 小寺はそう言ってやや大仰な溜息をついた。

「二週間くらい前かなあ……、あの子が祐一にクリスマスプレゼントをナイショで贈りたいっていうから一緒に買物に出かけたんだ」

 どうやら小寺は山木の娘と一緒に買物に行く程度には親しいらしい。

 少々ぎょっとしたものの、どういう経緯があるのかは訊かなかった。

 面倒事のなかでも、最もいやなのは人間関係のシガラミ。

 小寺は、何を問わなくても自分の語りたいこと、語ると決めていることだけはすっかり話してしまうたちだと知っている。なのに言わないのだ。そこに首を突っ込めば、間違いなくいやなシガラミに絡め取られる。まだまだ稼がなければならないのに職場に行きたくなくなるなんてことにもなりかねない

 黙ったままの田実に、君に話をするのってホント楽で助かるよ、と小寺は目を細めた。

「で、わかってるとは思うけど祐一ってすんごい気難しいヤツでさ。子どもの存在をどうしても知られたくないんだって。だからいつも――といっても離れて暮らしてるからそうそうあることじゃないけど、あの子と出歩く時は見知った顔がいそうにない場所を選んでて、まあオレもこれでも親友だから、あの子と一緒に出かける時は気を配ってたんだけどさ。でもなあ、佃さんの実家があんなとこにあるとは思わなかった」

 溜息をつき、ジョッキを傾け、また溜息。

「不運って言うのはこういうことを言うのだろうねえ。遠いから大丈夫だよなって連れて行った店で佃さんにバッタリ。あのオジさん、目付き同様勘も鋭いし自分よりも弱い人間にはとことん遠慮も容赦もないから開口一番、お前の娘にしちゃあ山木に似過ぎているな、って、ニヤリ」

 小寺の綺麗な顔で佃の口振りや表情を真似てもちっとも似ないが、その雰囲気はしっかりと伝わってきた。

 おまけに今月の停水期間中何回となく当の佃の横でそれを見る破目になっていたので、たぶん、小寺がていねいに真似をしてくれなくても勝手に浮かんできていただろう。

「相手がおやっさんとかガリーとか、良心っぽいものを持ち合わせてる人ならよかったんだけど、佃さんは正直タチが悪い」

「悪い、ですか」

 確かに悪そうな顔はしているが。

「あのオジさん、自分よければすべてよしな人なんだよ。で、相手はバツイチであることは特に隠していないのに子どもがいるなんて一言も言ったことがない事務担当。これは使えるんじゃないかと思ったらしくてね。その翌日、早速祐一にこう言ってきたそうだ――お前の娘、かわいいじゃあないか。どうして隠しているんだよ、って」

「うーわー……」

 黙って冷静に聞いておくつもりだった田実だったが、思わず間抜けな声で反応した。

「それって……ほとんど脅迫ですよね」

「ほとんど脅迫というか紛うことなく脅迫だろうねえ」

 おどけたような口調でそう言って、小寺はテーブルに肘をつき、小首を傾げるようにして頬を掌に乗せる。

「さっきも言ったけど、祐一は子どもの存在を知られたくないんだ。で、力一杯隠しているつもり」

 田実は神妙にこくりと頷いた。

 先ほど水道局で知っている人間の名前を挙げていたが、そこには実は山木と結構仲のいいらしい宮本の名前が入っていなかった。

 小寺と、今話題になっている佃を除いた二人のうち片方は上司で、もう片方は子分のことは何でも知ってそうな親分肌の人間であることを考えれば、かなり徹底して隠しているのだろうというのは想像に難くない。

「何も知らずに普通に出勤してきたところに佃さんがやってきて顔を覗き込むようにして囁いてきたもんだから、さすがの祐一ちゃんも驚き慌てたみたいで」

「え、ちょっと待ってください!――何も知らずに、って、今、言いませんでしたか?」

 田実の引きつった声とは対照的に、答える小寺の声はいたって滑らかだった。

「言ったね」

「言ったね、って……そんなあっさり……」

 その前日の段階で小寺は山木の子どもの存在が佃にバレたと知っている。その日のうちにそれを山木に告げたのではないのか。

「口止めされていたんだよ、祐一の子どもに。クリスマスプレゼント買ったこと、渡すまで知られたくないって。まさか父親が職場の人間に自分の存在を知られないようにしているなんて思ってもないし、そんなこと知ったら環境が環境だし父親の性格もアレだしで捻くれそうだし。で、祐一ちゃん、きっと明日びっくりする上にとんでもない目に遭うかもしれないなあ、とは思ったけど、子どもの健やかな成長のために黙ってた」

「あの……、それ、山木さん気絶してた可能性ありますよ」

 佃が自分の顔を覗き込んできて、自分の秘密を口にしたら――

「少なくともぼくは泡吹いて倒れる自信があります」

「そんな自信はどうかと思うけど」

 でもホント怖いよな、あのオジさん……、と自分が山木を大変な目に遭わせるきっかけを作った自覚があるのかないのか、遠くを見るようなまなざしで呟いた小寺は、

「ま、とにもかくにもいつになく焦った祐一は、こっちに便宜図ってくれたら見なかったことにしてやってもいいっていう佃さんの口車に乗っちゃったんだよねー」

 と顔をしかめた。

 乗るでしょうよそれは……、と思いつつ、ふと数日前の忘年会のことを思い出す。

「もしかして、今月ぼくと佃さんが組んだ理由って、それですか」

 ――仕事をする上で一番大切なことは公私の区別をつけること。

「ご名答」

 結局、仕事と私事を切り離せなかったせいで、今月の停水の割り振りはめちゃくちゃになった。

「ま、今月の停水の組み合わせの件以外にも押し付けられたことはいくつかあるんだけどね」

「他にも……?」

「うん、付け入る隙なんて滅多に与えない事務担当の弱み握っちゃったもんだから、そりゃあもうここぞとばかりに」

 表情ばかりは爽やかに、しかし、どう聞いても投げ遣りな口調で小寺は言った。

 その様子から、小寺も巻き込まれたことを察し、同時に、当然だろうなと思う。

 佃は山木だけをターゲットにしたのだろうが、山木が小寺を許すとは思えない。普段の山木の小寺に対する、他の人間よりも近しい雰囲気でありながら明らかに厳しい態度からしても。

 自業自得だと思いますよ、と、きっと目が口ほどにものを言っていたのだろう。

 小寺は爽やかな表情から一転、柳眉をハの字にして口を尖らせた。

「わかってるんだよ、全部。だから今もオレは奉仕活動中」

「奉仕活動中……?」

 一体どんな奉仕活動なのかと小寺の前に置かれた空のジョッキに目を向ける。

 と、

「これは気にしないで。これくらいだったらこのあとまだあの親子追えるし、帰りの手段も大丈夫、電車だからね」

 田実とジョッキの間を遮るように掌を入れて二、三度振り、また元のように肘をついてその掌に頬を乗せ、おどけたように言った。

「あの親子がのんびりできるように、知った顔見かけたら引き離しておいてあげようかなって。その知った顔が薄々でも事情を察した様子だったらこうやって事情話して、口止め」

「……だからもっと食べろ、と?」

 田実はいまだ手をつけてないケーキを指差す。

 これは口止め料。最初からそうなのだろうとは思っていたけれど。

 苦笑いで頷いた小寺は、ふと姿勢を正し、ごめんね、と、こくりと頭を下げた。

「まあそういうわけで食べてやって?」

「別にこんなことしなくても絶対喋りませんでしたけど……」

「うん、そうだろうなって今思ってる。全然食べてないのにおなかいっぱいって顔、してるもんね」

 見たのは独身のハズの同僚がぎこちない笑みを浮かべて、よく似た女の子と手を繋いで歩いている姿。ただそれだけ。

 小寺に捕まることなく逃げていたら、たとえば妻を待つ間くらいはぼんやりと二人の関係を憶測したかもしれないが、それからは忘れるように努めただろう。

「おなかいっぱいです」

 山木は同僚だが、友達ではない。

「基本的に友達相手でもそういう話は聞かないようにしているんです――苦手なんですよ」

 雄弁に自分の身の上を語ってきた友達もいた。もちろん、同情してくれと持ちかけられたことはない。けれども気を遣ってしまう。それに疲れて壁を作ったら冷たい奴だと言われ、結局、田実は最初から壁を作るようになった。友達相手でも。

「不器用なんで」

「羨ましいなあ……」

 小寺は笑った。心底そう思っているとわかる、混ざり気のない微笑。

「オレ、大して器用でもないのにどうしても首突っ込んじゃうんだよね。特にアイツは放っておけなくて。面倒見がいいって言えば聞こえはいいけど、大概不器用だから一々その面倒見るのに捨て身だったりして。でも、やっぱり放っておけないんだよなあ」

 そうして少しばかり照れたように言う。

「今も独り焦っちゃったみたいだ。どう考えたって佃さんみたいなのが珍しいのにねえ……。それにこうして君と話している間にまた誰かと出会さないとも限らないのに」

 よほど大切なのだろうと田実は思った。

 小寺と山木の付き合いが決して短くないということは小耳に挟んだことがある。たぶん、その間に色々とあったんだろうなと。

 もっとも、それ以上、想像を張り巡らせるつもりはなかった。

 小寺は同僚だが、友達ではない。

「まあ、そういうわけで、あの親子に関しては今後不問ということでよろしくね。言われなくとも……かもしれないけど」

「ええ」

 しばらくの間は山木の顔を見る度に、ぎこちない笑顔と水色のコートの女の子を思い出してしまう気がしたが、そのうちに忘れてしまうだろう。

 むしろさっさと忘れたい、と、そう思った。

「連れてきておいて申し訳ないのだけど、そろそろオレ行くね」

「あ、はい」

「会計は済ませておくから」

 伝票を取ってそのままレジの方に向かいかけた小寺は、ああ、そうそう……、と途中で戻ってきた。

「これあげる」

 と小寺が財布から取り出したのは、

「……演奏会、のチケットですか?」

 紙のチケット二枚。

「うん、ガリー君と係長が合唱で出るヤツ。ノルマ云々があるらしくて押し付けられちゃってさ。御代はいいから奥さんとどうぞ」

「いいんですか?」

「もちろん」

 顔立ちと同様にきれいな手を添え、小寺はそれをそっとこちらに押しやってきた。

「口止めじゃなくて、友達だからということで」

 いったいいつの間に友達に、などと思いつつ田実はそれを受け取った。

「ありがとうございます」

 こうしてシガラミってできていくんだよなと内心で溜息をつきながら、まあ今回は仕方ないか……、と気持ちを切り替える。

 そうして、来た時と同じように周囲の視線を集めながら歩いていく同僚の後姿を見送った。

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