11月 人生最大のピンチ(2)
――笑っていた。
少しもおかしいところなどないのに、“彼”は笑っていた。
いや、本当に? 笑っているか?――ふと不安に襲われたが、確かめようにも、ひどく視野が狭い。
見えるのは弧を描く口もとだけだと気付いた瞬間、それが誰のものなのかもわからなくなった。
さっきまで間違いなく“彼”だとわかっていた。なのに急にわからなくなるなんて……、と思ったが、すぐにその理由に思い当たる。
風邪を引いているからだ。
その証拠に何もかもが熱に浮かされている時のようにふわふわとしていて覚束ない。目も、耳も――そう、“彼”の口もとは弧を描いているだけではなく、言葉を刻むかのように動いているのに、何も聞こえてこない。
不意に視野が広がる。
“彼”の口もとが遠ざかり、“彼”の姿を大きく捕らえる。
山木さんだ、と誰かがそう教えてくれた。
しかし、そうなのだろうか?――山木さんはあんな風には笑わない、それに特殊型のキーなんて使わない。
でも、もしかしたら使うのかもしれない。いや、そんなことはどうでもいい。
“彼”は何をしようとしている?
キーを手にし、似つかわしくない笑みまで浮かべて、“彼”はあれで何をする?
訊こうとした。だが、声が出ない。いや、違う。声は出ている。
――だめです! 斬っちゃだめだ!
“彼”が何をするかなんて訊いていない。なのに、制止の言葉を叫んでいる。
たぶん知っているのだ、本当は。だから――止めなければならない。
妙に晴れやかに笑んだあと、“彼”はこちらに横顔を向けた。
“彼”の握るキーの先は“彼”の見据える先に。
――だめですって! やめてください! だってそれは――
必死になって叫ぶ。だが、届かない。
――生きているんです!
生きている? 何が?
“彼”の視線の先を見ようとした。でも、身体が重くて動かない。風邪は重篤のようだった。
だが、口は回る。声なんて届かないのに。
――やめてください! 殺しちゃだめだ! 野口さん!
野口さん? 山木さんではなく?
改めて“彼”を見る。
そうだ、“彼”は山木さんではない。そんなことは最初からわかっていた。
キーで風を生み、ものを斬ることができるのは野口さんだ。
でも、野口さんはその力を失った。失ったはずだ。
それなのに、斬る? いったい何を?
急に震えがきた。怖くなった。
キーが何に向けられているか、知っているからだ。
――生きているんです!
今一度、口が動くままに声を張り上げる。
今更ながらに身体が動いた。あれだけ重かったのに。見たくなどないのに。
ちょうど野口さんの持つキーの切っ先から陽炎のように揺らぐ空気が二筋、生まれるところだった。
その先にいるのは淡い緑色をまとった何か。
よく見えない。未確認生物だろうか。ならばいい――本当にいいのか?
あれは生き物なんだと山木さんは言っていた。
それらと人間と何が違う? もちろん違うに決まってる。
未確認生物は消しても法には触れない。でも、人間相手だったら法に触れる。罰せられる。
罰せられる? 本当に? ならばどうして野口さんはここにいる?
野口さんは人を斬った。それで戒告処分を受けたという。でも、それならば器物破損の場合と大差ない。
力を失ってしまったと言っていたけれども、もし、万が一、斬ってしまったことを後悔しなければ、ひょっとすると失なわれなかったのではないか。
――野口さんっ!
未確認生物も人間も等しく命を持つものだとすれば、そして、その命の重みの差を、ささいな感情の動きで見失ってしまったら――自分も人間を斬るのだろうか?
夢だ! これは夢なんだ!
淡い緑をまとったものの正体は、それが倒れた瞬間にわかった。
でも、認めなかった。
淡い緑が真紅に取って変わられても。真紅の影が足もとに伸びてきても。
なぜならキーを握っていた“彼”が再びこちらに振り返った時、野口さんの顔ではなく、自分の顔で嗤ったからだ。
夢なら醒めてくれ!
何て陳腐な科白なんだろう。
でも、そんな月並みな言葉で“自分”は――ぼくは世界を打ち消そうとした。
この世界は夢。鮮血で覆い尽くされた世界は、素直なまでにそれに応えて揺れた。
そして、歪む、歪む。
――気が付くと、収納係の自分の机の前だった。
どうやらぼくは居眠りをしていたらしい。
ここには一点の赤もない。あるはずがない。
あるのは、白。白い花。
そう、真っ白な花が辺り一面に敷き詰められていて、その中央には淡い緑をまとったあの人が横たわり――
*** *** ***
全力で搾り出された声。狂気すら帯びたかのような悲鳴――それが自分の口から吐き出されたものだと気付いた瞬間、田実は目を開けた。
視界は暗く薄ぼんやりとしていて、聴こえるのは早鐘を打つ鼓動ばかり。我が身に何が起こったのか把握できないまま、浅く荒い呼吸を繰り返す。
その呼吸が大方落ち着いた頃、ようやく傍らに手を伸ばし、そこに寝ていた妻の肩に触れ、安堵した。
そのまま抱き込み、柔らかな胸部に両の手を当てて首筋に顔を埋める。と、
「……怖い夢でも見た? 随分うなされてたよ」
顔の半分を田実に向けるようにして妻が小さく囁いた。
石鹸の匂いのするうなじから顔を離さざるを得なくなった田実は、わからない、とだけ曖昧な発音で言ったあと、唇を沿わすようにしてうなじを探し当て、鼻を突きつけた。
「心配してやってんだから聞きなさいよ」
そういう妻の声もどこか眠気を帯びていて、言葉のわりには円やかに耳に届く。
田実は淡く笑んだ。
「だって本当に覚えてないし……、何だかいやな感じだったってことくらいしか」
ふと黒いものが脳裏に澱み、そして、目蓋の裏で色が弾ける――赤と、白。
不意に言いようもない恐怖を覚え、身体を震わせた。
夢のせいだろうと見当はついたものの、振り払っても振り払っても、それは失せることなく、身体を芯から冷やしていく。
こわい、と言う代わりに妻を抱え込んだまま身体を丸めた。
妻の身体はあたたかかったが、それでも手足はぬくもらない。特に右の手はいつまでも冷えていた。
よほどいやな夢を見たんだろうな、とあえて他人事のように思いつつ、一層強く妻を抱き締める。
「ったく……、抱き枕じゃあないんだからね……」
溜息混じりの妻の声音は、それでもことのほかやさしかった。
妻のうなじに額を擦り付け、意識を深層へと沈めていく。
また見てしまうのではないか――そうおびえる傍らで、いったい何を見たのか知りたがる好奇心が嘲うように蠢いていた。
だが、もう夢は見なかった。
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