11月 人生最大のピンチ(1)

 十一月は穏やかに始まった。

 もっとも、月の頭は月次集計が主な仕事なので、波乱から始まる方がおかしいのだが。

 それにしても、いつになく穏やかだと感じられたのはどうしてか。

 誰もかもどこかゆるんでいて、何となくそれが許されるような雰囲気が場に横たわっているのは確かで、ここまで穏やかだと逆に薄ら寒い――けどまあいいか、と、のんびり仕事をしていた田実が、そんな緊張感のない空気の正体を知ったのは、結局いつになくギリギリで担当分の月次を終わらせた日の夕方だった。

「十一月ですね」

 退勤時間を一時間ほど過ぎているのに、いまだ机に噛り付いている宮本と井上に、山木が冷ややかに言った。

「残業でもないのに時間外に張り切って居残りされても迷惑なだけなのですが」

「誰が張り切っているように見えンだ、言ってみろこンの変態眼鏡が!」

 宮本がそう凄んだものの、切羽詰まっているのか視線は机上に釘付けで威力は半減。

 しかし、本当に余裕がないのは宮本ではなく井上だろう。

 要領がよいとは言えないのを、普段は“バ”の付く真面目さで補っている井上だが、そんな彼も係内にはびこる妙な陽気に脳髄を撃ち抜かれたのか、この数日間、よく喋り、よくうたた寝をしていた。

 今朝方、弱音を吐いていた時点では、今日中に片付けるのは難しいのではないかと他人事ながら心配になるくらいの状況だったので、今から全力で片付けても八時上がりだろう。井上の横顔は暗い、というより青い。

「……手伝いましょうか?」

 仕事は終われど今日は残業日ということで強制的に居残りをさせられている田実は、同じく残業日の山木をちらりと見てから訊く。

 と、

「おう、手伝えボーヤ!」

「必要ありません」

 ほぼ同時に異なる答えが返ってきた。宮本と、山木から。

 二人はどちらからともなくお互いを見たが、先に口を開いたのは、睨め付けるように相手を見ていた宮本の方だった。

「何だ山木、テメェ今日オレを家に帰さねえつもりか、オイ」

 その悪鬼のような形相を間近にしても、山木の表情は動かない。

「帰れないというほど残っていないと思うのですが。その残量ならば一時間で片付けられるでしょう」

「ンなことたぁわかってンだよ! けど! ああ何つーか面倒くせえ!」

 そう喚いて宮本は机に伏せる。上体だけでも十分に重厚な巨躯がどうと伏せられた勢いで風を巻き起こし、周囲のメモ書きやら書類を吹き散らかしていく。

 かすかに眉をひそめた山木だったが、それ以上宮本に何か声を掛けるでもなく、こちらに顔を向けた。

「田実君、気にせず自分の仕事をしてください。貴方まで回らなくなったら困りますので」

 抑揚のない声は、ただでさえ突き放すような言葉をさらに厳しいニュアンスにして耳に届ける。

 もしかしたら情けは無用といういましめではなく、本当に回らなくなっては困るという飾らない本音だったのかもしれない。

「十一月は収納係にとって、いや、おそらく営業課にとって鬼門の月です」

 山木はそう言って眼鏡のブリッジに左手の中指をつつ、と沿わせた。

 くだらないことなのですが、と、さらに付け加えたその顔は、相も変わらず無表情だったが、ただただ詰まらなそうにも見えた。

「年末にはまだ早いですし、何より今くらいから未確認生物の動きが鈍くなるせいか気がゆるんで、それが課全体へと波及していくのですよ」

 山木にしては大味な説明だった。が、

「え、未確認生物の動きが鈍る?」

 思わぬ話に田実は目を瞬かせた。

「……ええ」

 少し間を空けて、訝しげに頷いた山木に、いや、その……、と、しどろもどろに言う。

「行く先々どこでもかしこでもピンピンしているので、あれらの動きが鈍るなんて……、でも、確かに鈍れば仕事も楽になるので、気がゆるむというのもわかるような気がします――」

 何の力もない田実にとって、未確認生物は難攻不落の要塞のようなものであり、また、そこに存在して行く手を阻む大きな渦のようなものだった。

「――でも、何か不思議です。未確認生物は寒さに弱いってことですよね。あれだけへんてこなのに、まるで冬眠する変温動物みたいなんですね」

「生き物ではないですか」

「え?」

 冷静に差し挟まれた山木の言葉に目を瞠る。と、

「未確認生物はれっきとした生き物ですよ」

 いつもと同じく淡々と山木は言った。

「彼らのほとんどは生物の定義を満たしています。自己増殖能力も代謝能力もありますし、死なない限り一個の生物として恒常性を保つこともできます。どうして未確認生物などという名を付けて放置しているのか無学な私にはわかりませんが、彼らが人為的に作られた存在であること、ものによっては超自然的な能力を有していること、社会的に不必要なこと、この辺りが関わっているのかもしれません」

 ――それは途轍もなく鮮やかな話だった。

 田実の頭のなかで“未確認生物”という言葉によって一括りにされ形骸化されていたものたちが血と肉をまとっていく。

 市川が焼き切る核は、浦崎が氷漬けにする核は、宮本が握り潰す核は、あれは真に心臓だったに違いない。

「何か気持ち悪くなってきました」

 田実は自然としかめられる顔をそのままに素直に感想を口にした。

「気にしないことです」

 山木はにべもなく応えた。

「気にしたって仕事はなくなりません。むしろ増えるばかりですから――そうでしょう、宮本さん」

 話を振られた宮本は、どうやら机に伏せったまま寝かけていたらしい。

 むくりと身体を起こし、

「……ああ? 何の話だ?」

 と覚束ないまなざしを山木に向けた。

 山木は黙って宮本から目をそらし、代わりを求めるように井上の方に目を向け――低い声音で言った。

「十一月は実に面倒な月です」

 サボったツケとはいえ一日でこなすには到底無理な仕事量を前に力尽きたのだろう。

 いつからなのかはわからないが両腕を枕に幸せそうな寝顔を晒していた井上は、にゃ、と言葉になってない寝言を漏らし、ふにゃりと笑った。

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