『見えない交渉・橘 唯の見たモノ』

 私は昔、とある24時間営業の喫茶店でアルバイトをしていた事がある。

しかも二十歳になって初めてのアバイト。


が、そこは余りにも変わった喫茶店で、私はそこで数多くの不思議で危ない体験をしてきた。


今から話す事は、そのほんの一部です。


正月気分も過去のものとなった1月半ばの事。

私は早朝から喫茶店のアルバイトへと来ていた。


朝は出勤途中のお客様が多く、持ち帰りのお客様でカウンター前には列ができるほど。


そんな中、窓辺のテーブルに座る一人のサラリーマン風の男性が一人、何も頼むわけでもなくただじっと、テーブルに視線を落としていた。


「あの人、オーダーはいいんですか?」


私がウェイターの関本さんにそう聞くと、関本さんは注文された珈琲とサンドイッチを紙袋に詰めながら、窓辺の男性に目をやった。


関本さんはこの店の大先輩で、日勤帯の主任でもあり、黒縁眼鏡が良く似合うバツ一子持ちのパパさんだ。


「ああ、あの客ね。さっき辻ちゃんがオーダーとりに行ったらしいけど、」


「何なに?呼んだ?」


そう言ってレジを打ち込んでいた辻さんが、私と関本さんの間に入ってきた。


辻さんは私の先輩で、この店に勤めて一年になる。

都内の大学に通う男の子で、歳は私より一個下の十九歳。

あまり先輩らしくない所が親しみのある良い先輩だ。


「あの客だよ」


関本さんが目配せすると、辻さんは窓辺の方に目を向け、


「ああ、あれね」


と言って、腰に手を当て怪訝そうな顔をした。


「どうしたんですか?」


「いや、注文取りに行ったらさ、訳わかんないこと言ってたんだよね」


「分からないこと?」


「うん。白い服の女がどうとか、ナイフを……とか」


「えっ?ナイフって、それってやばくないですか?」


「だろ~やばいよねやっぱ。どうする?ふんじばってうちの倉庫にでも隔離しとくか?」


辻さんはそう言って右腕を勢い良くまくって見せた。


やっぱり先輩というイメージとはちょっと違う、子供っぽい。


「馬鹿言ってないで、ほらお客さん、メニュー決まったみたいだよ?」


関本さんが顎で辻さんをレジに促すと、私たちはいそいそと元の持ち場へと戻った。


しばらくして、店の混雑も落ち着きを取り戻し始めた頃、


「お~い唯ちゃん、ちょっといいかな?」


店長だ。

朝が弱い店長はまだ眠いのか、腫れぼったい目をこすりながら、眠たそうな声で私を呼んだ。


「はい?」


「これ、代わりに郵便局に持って行ってもらえないかな?僕、お客さんが来るから店外せなくてね」


「郵便局……駅前のですか?」


「そうそう、いつものとこ、必要なものはバックに全部入ってるから、頼んだよ、ふわぁぁ」


「あ、はい、分かりました……」


私が頷くと、店長は大きく背伸びしながら、事務室の中へと戻っていく。


「あ~あ、ありゃ二度寝する気まんまんだな」


関本さんが、着ていたエプロンを器用にたたみながら言った。


「あははは……やっぱり、ですよね」


店長、良い人なんだけど……と心の内でぼやきつつも、私は関本さんに後の事をお願いして、駅前の郵便局へと向かった。


早朝だというのに人でごった返す郵便局、私は何とか用事を済ませると、そのまま駅前のバス亭へと移動した。


「人多いなあ……」


そう言って腕時計に目をやる。


「少しくらいなら、いいよね」


学生やサラリーマンで一杯のバスに乗り込むのは中々の至難の技で、私は一本バスを遅らせようと、近くにあったコンビニへと立ち寄る事にした。


店に入ると気になる雑誌を手に取り、今日の占いは何だろうと、適当にページを探していたその時、


「あれ、今朝の人……」


ふと、窓の外に見覚えのある姿を見かけた。

目をやると、そこには今朝うちの喫茶店で、窓辺の席に座っていたあの、怪しい男性客が立っていた。


男性は何かぶつぶつと何か呟いている。

口端からは小さな泡がいくつも吹き出し、顔は青ざめ、目は赤く充血している。


どこから見てもその様子はおかしい。

いや、今朝見た時よりも更におかしいと私は感じた。


そうやって私が目を細め気味悪がっていた時、

その男性が不意にポケットから何かを取り出した。


スマホか何かかなと思ったそれは、朝日を浴びて銀色に鈍く光っていた。


包丁だ。


私は思わず叫びそうになり、手に持っていた本を衝動的に床に落とした、その時だった。


男性の後を追うように、後ろから一人の女性がスゥーッと現れた。


白いワンピースを着た女性は男の耳元に顔を近づけると、何かを囁いている。


そしてその直後、男性はその女性に押されるようにして走り出し、発車待ちをしていたバスに、鬼気迫る勢いで乗り込んだ。


何?何が起こったの!?


私は必死に声を出そうとしたが、恐怖のせいかうまく喉が開かない。

そうこうしているうちに、他にいた人たちが異変に気がつき、口々に叫び声を上げ始めた。


「あいつ包丁持ってるぞ!?」


「キャー!!」


「警察!警察!!」


逃げまとう人々に釣られるようにして、私も店を出て逃げようとした時、不意に、さっきのワンピースの女性が目に飛び込んだ。


女性は逃げまとう人達とは逆行するかのようにして立っていた。


しかもこんな異常事態だというのに、この女性は……笑っている。


バスの中で暴れまわる男性を見ながら、口を開け狂ったように笑っていたのだ。


「あはは、こ、殺せ……殺せ!きゃははははっ!!」


狂気に満ちた声が、私の脳を麻痺させていく。


私は全身の毛が逆立つような寒気を感じ、その場で身震いした。


狂っている。

明らかにこの女性も異常だ。


呼吸が荒くなり息苦しい、でも逃げなきゃ。


そう思い私は直ぐにその場から逃げ去ろうとした。が、しかし何か引っかかるものを感じ、私の足は直ぐに止まった。


何だろうこの違和感は。


そう感じ何を思ったか、私は震える足を押さえ込み、女の方へ必死に振り返った。


「な、何で!?」


違和感の正体は直ぐに分かった。


女は裸足だったのだ。


しかも、その足元には、あるはずのものがなかった。


影だ。この女性には影がない。


ありえない、こんな事、絶対に。


もう一度女性に目をやった。


女性は口が裂けんばかりに大きく開き、


「やれ、もっとやれ!後ろの奴らも逃すな!」


と、気が狂ったかのように喚き散らかしていた。


すると、バスに乗っていたあの男性が、まるでその言葉に従うようにして、後続のバスに乗り移ったのだ。


何これ……もしかしてこの女性が!?


男性は手に持っていた包丁を構え、またもそれをバスの車内で振り回し始めた。


入り口付近にいた女子学生が腕を切られたのか、切られた箇所を押さえ泣き叫ぶのが見えた。


悲痛な断末魔、その声を耳にした時、私の体は自分の想像を遥かに上回るような行動を取っていた。


私はあの白いワンピースの女性の元に駆けつけると、衝動的にその腕を掴んでいたのだ。


そして自分でも信じられないくらいの怒気を込めた声で言った。


「や、やめて!もう……やめで!!」


私は泣きながら言った。

目からボロボロと大粒の涙を流し、女性の腕を掴みながら子供のように泣きじゃくる声で、必死に訴えていた。


殺される。

その瞬間本当にそう思った。


が、次の瞬間、白いワンピースの女は、私の方を振り向くと、信じられないといった驚愕した顔で私のほうを見た。

まるで、何で私が見えているんだ、何で触れられるのかと言わんばかりに、私の顔と腕を交互に見ながら。


「今だ取り押さえろ!」


突然バスの方から聞こえた声に釣られ、私が振り返ると、バスで暴れていた男性が周りにいた男性客達に取り押さえられていた。


女性の方に振り返るのと同時に、掴んでいた私の手の力がふっと軽くなった。


いや、掴んでいた腕が消えていた。女性の姿と共に……


虚空を掴むかのような自分の手をじっと見る。


手の平にポタポタと大粒の涙が零れた。

私は堰を切ったかのように嗚咽のような泣き声を上げ、その場に座り込んでしまった。


それからの事はあまりよく覚えていない。


私の帰りが遅いのを心配して、店長が電話してきたのを期に、駅前まで私を迎えに来てくれた。


店長が念のためと言う事もあって病院にも行ったが、気がつくと私は家族に連れられ家に戻っていた。


そしてその日は呆然としたまま、朝を迎えた。


次の日、その次の日と、私はアルバイトを休む事になり、ようやく一週間ぶりの出勤となった。


「唯ちゃん、大丈夫?」


お昼のランチタイムも落ち着きを見せた頃、関本さんが心配そうな顔で声を掛けてくれた。


辻さんも関本さんも、今日はいつも以上に気を使ってくれている。


ありがたいと思うのと同時に、何だか申し訳ない気持ちになる。


「はい……大丈夫です。いつまでも落ち込んでられないし」


そう言って無理に笑顔を作って返事をするも、関本さんに苦笑いされてしまった。


「とりあえず休憩行っておいで。こっちはもういいから」


関本さんはにっこり笑ってそう言うと、テーブルに残ったお皿を手に持ち、厨房へと行ってしまった。


優しいな関本さん。


しっかりしなきゃ……気を取り直し、私は着ていたエプロンを外して休憩室に向かおうとした、その時だ。


店の窓側に座る一人の女性。

ストローハットを目深く被った、全身黒づくめの女性が、私の目に留まった。


その瞬間、何故かは分からないが得体の知れないゾワゾワとした感覚が、私の全身を駆け抜けた。


何だろう、あの女の人どこかで会ったような……


瞬間、私の脳裏に三日前のあの悪夢の惨劇がフラッシュバックした。


両の手が微かに震えている。

その震えが全身に行き渡ろうとするのを、私は必死に押さえ込んだ。


あの女の人……もしかして……。


確かめなきゃ。


なぜそう思ったのかは分からない。


正義感からではないし、興味からでもない。


ただ、あまりにもあの理不尽な惨劇が許せなかった。


死者はでなかったものの、心の傷は一生癒えないだろう。


いつもと変わらない何気ない日常、その全てを壊してしまうような、あの理不尽な惨劇を、私は心の底から憎んでいたんだと今更ながらに思う。


意を決し、窓辺の女性に近づく。


距離が縮まるのを確認しながら、私は女性の足元を見た。


影は……


ある。

生きてる女性だ。

ならあの時の白いワンピースの女性とは違う?

分からない、けれど、どうしても気になる。


確認する方法は……


「あの、」


女性の座るテーブルの横に立ち、声を掛けるよりも早く女性が私に気づき、こちらに振り向いた。


面影はある、ただあの時の白いワンピースの女性に比べ、顔には生気が宿っていた。


「何……?」


女性は分厚い口紅で塗られた口を開け、煩わしそうな声で言った。


「あ、いえ、その……」


威圧的な目、その目に萎縮してしまい私がまともに返事を返せずにいると、女性は伝票を手に取り立ち上がり、私の肩にぶつかりながら強引にレジへと向かった。


思わずよろけてその場で躓きそうになった。


その瞬間、あの時バスの中で腕を切られた女子高生の泣き叫ぶ顔が、私の脳裏を過ぎった。


一生消せない傷……


床に足を踏ん張らせると、私は後ろからその女性に一気に近づき、


腕を掴んだ。


「なっ!?」


私のほうを振り向き驚いた顔を見せる女性。


掴んだ女性の手首の袖がめくり上がり、女性の手首の素肌が露になる。


そこには……女性の手首には、強く掴まれたような黒ずんだような手の跡が残っていた。


「これ、どうされたんですか?」


「はあっ?知るわけないでしょ!何なのよあんた!?」


凄い剣幕で怒鳴り散らす女性、いつもの私ならここで直ぐに引き下がっていた。

けれど今は、今だけは引き下がるわけにはいかない。


「あの時、いましたよね?大勢の人たちが傷ついたあの場所に、貴女はそれを見て笑っていましたよね!?」


「なっ!?何よいきなり!あ、頭おかしいんじゃないのあんた!!私が何したって言うのよ!?」


「皆が泣き叫んで逃げている時に、あ、貴女だけは笑ってた……まるで、まるで楽しんでいるかのように!」


「全然意味わかんない!!いいから手を離しなさいよ!誰かきて!助けて!!」


女性が喚き散らすと、店の奥から関本さんと辻さんが厨房から慌てて飛び出してきた。


「唯ちゃん!?」


駆けつける二人に、私の腕は簡単に振りほどかれてしまった。


「離してください!この人は放っておいたら駄目なんです!!」


「ふ、ふざけんじゃないわよ!!私が何したって言うのよ!?やったのはあの男でしょ!?」


あの男……


「何で男の人がやったって言えるんですか!?私まだ、事件の事なんて何も話してないのに!!」


私がそう言った瞬間、あれだけ顔を真っ赤にして怒りに燃えていた女の形相が、見る間に青ざめていった。


歯はガチガチと噛み合い音を立て、両の肩が小刻みに震えている。


「わわ、私はな、何も……」


女性の声が明らかに勢いを失っている。


関本さん達も状況の変わりようにうろたえているようだ。


私は二人に掴まれた腕を振りほどくと、女性の顔に、私の鼻先が当たりそうになるぐらい近づけ言った。


「貴女の顔、覚えましたから……二度と忘れません」


明らかに怯えている女性、そして私は更にこう付け加えた。


「私には……どちらの貴女も、いつでも視えてますから!」


そう言うと、女性はその場に愕然とした姿で座り込んだ。


関本さんが女性に手を貸そうとすると、女性はそれを力なく振り払い、よろよろとした姿で店を出て行った。


「ゆ、唯ちゃん……?」


辻さんが私に声を掛けてきた。


「へっ……?」


返事を返す。


「な、涙……」


辻さんに言われて初めて気がついた。


私は泣いていた。

そして一気に溢れ出す涙は止まらなかった。


咄嗟に止めようときつく目を閉じると、湛えていた大粒の涙が更に勢いを増して、頬を伝って流れ出す。


子供のように顔を歪めて泣き出す私を、二人はどうする事もできず、ただただ困った顔で、私が泣き止むまで見守っていてくれた。


これが……私がこの店で初めて体験した話です。

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