81「約束しろ」
その夜、ヨムギは宿屋に帰ってこなかった。
僕に考える時間を与えたのか、それとも顔も見たくなかったのか、どちらにせよ朝まで待っても彼女は姿を見せなかった。
おそらくディータの宿に泊まったのだろう。きっと――彼女にとっては理不尽な――怒りをぶつけられ、ディータはしょげ返っていたはずだ。魔法を使うのに精神状態が影響するならば護衛たちは彼女を放置できない。そこでヨムギに白羽の矢が立てられるのは一つの流れとしては可能性があった。昨日の彼女は武器も持っていなかったし、僕からディータを守るような行動もしている。それだけで彼女を信用に足る人物と決めつけるのは早計ではあったけれど、真偽判別などを用いれば害意がないことはすぐに分かる。
そして、それが僕にはとてもありがたかった。きっとヨムギは顔を合わせた瞬間、満面を朱に染めて汚い罵倒を浴びせかけてきたに違いないからだ。あるいはそれが彼女なりの優しさだったのかもしれないが、とにかく、僕に与えられた時間は考えをまとめるには十分すぎるほどだった。
アノゴヨでは朝、図書館の鐘楼が鳴らされる。開館の時間を知らせる音を耳にして集合場所へと向かうと、ほどなくして傭兵たちが三々五々と集まってきた。その中にはディータとヨムギの姿もある。彼女たちは僕を認めるとそれぞれ別の表情をした。
怯えの混ざった迷いと、怒りの練り込まれた不審――僕は一度目を瞑り、大きく息を吸って、彼女たちへと歩み寄る。護衛たちが警戒心を露わにしたが、無視して手を伸ばせば触れられるほどの距離まで近づく。
先に声を発したのはヨムギだった。
「頭は冷えたのか」
無駄な言葉を吐いて勢いを削がれるのを厭い、僕は首肯だけをヨムギに返した。それから視線を動かす。「ディータ」
「な、なに……?」
「――昨日はごめん。きみの思いを考慮できていなかった。謝るよ」
両親を亡くし、貴族の管理下で育ってきたディータは友人に謝られた経験などないのだろう、「えっと」と言葉をなくした。
僕は深々と頭を下げ、続ける。
「きみの真実を汚すつもりはなかったんだ」
かつてどこかであった戦いで、ディータはギルデンスに救われた。
それだけは否定しようがない彼女の真実だ。そこにギルデンスの目論見など含めるべきではない。たとえ結果的に、という枕詞が着いたとしても、ディータはアシュタヤと同じようにギルデンスに命を救われた。
単純化、だ。
エルヴィネのときとは訳が違う。
エルヴィネは意図的に真実をねじ曲げられ、死に向かわされた。本来、戦う必要のなかった人たちが戦わされ、命を散らすのはあってはならない。だから、彼女の真実を否定するのは間違いではない、と思う。
自分勝手な考えではあるけれど。
だが、ディータは生かされ、生きる方法を与えられた。
彼女の真実を否定するのは、彼女の生を否定することに繋がる。それはきっと、ギルデンスのしていることと変わりがない。僕の心ないあの一言が彼女の自尊心を削ぎ、歩く道をねじ曲げてしまうのなら、たとえギルデンスのしたことであっても肯定しなければならないのだ。
そのジレンマは如何ともしがたく、歯がゆいものではある。
「ただ――」
その一言で安堵していたディータの表情が再び曇った。
「きみにとって真実があるように、僕にも変えがたい真実がある。その一点のみできみと対立しなければいけないかもしれない。……もし、そのときが訪れたら、覚悟だけはしてほしい」
「……覚悟、って」護衛の耳に届かないよう、彼女は声を潜める。「殺す、の?」
ディータは主語も目的語も明らかにしなかった。
うまく答えられそうになく、僕は押し黙る。
どれだけ仲が良くても主義や主張は相容れないこともある。そして、それはときに関係性の遮断を招く場合もあるだろう。
返答を躊躇しているうちに僕とディータの間に刺々しい静寂が降りてきていた。沈黙は雄弁だ、答えない、という行為が僕の意志を端的に表してもいた。
「――なあ」
ヨムギの声に静寂が、溶ける。
沈黙を貫いていたヨムギは僕の左手首を掴み、引っ張った。握力はそれほど強くなかったが、痛みを感じた。
「おれには難しい話はよくわからん。けど、レプリカ、そのギルデンスとかいうやつは置いといて、ディータを傷つける意味はないだろ? こいつは悪いやつじゃないんだから」
「それは」
悪意のなく悪に荷担する人も世の中には存在する。だから僕は簡単には頷けない。
「お前も」とヨムギはディータの方へと視線を移す。「レプリカは自分のことを話さないからおれも分からないけど、こいつにも事情があるみたいだ。受け入れろなんて言わないけど、びーびー泣くな」
「泣いてなんか」
「昨日泣いてただろ。今だって泣きそうだ」
ヨムギは左手でがしがしとディータの頭を撫でる。頭領を思い起こさせるがさつな撫で方に空気が和らぐ感触がした。
「レプリカ」と彼女は僕の方に向き直る。「難しいことは抜きにして一つだけ約束しろ」
「まだ、難しく考えてるかな」
「利口ぶるのはお前の悪いくせだ」
「……まあ、認めるよ。で、約束って?」
「何があってもディータを傷つけるな。他のことは知らん。おれも昨日一晩考えたけど、要はお前がオヤジを殺そうとしているようなものだろ? そうなったら、おれはどうすればいいのか、分からなかった。きっとお前にもオヤジを殺す理由があるんだろうし、でもオヤジも大切だ。頭がこんがらがって、眠くなって寝た」
「寝たんだ」
それは一晩とは言えないんじゃないか、と思いつつも、心が軽くなっていることに気がついた。僕が小さく笑うと、ディータも頬を緩めて俯く。それだけでディータとの間にあるどうしようもない断絶が埋められたような気分になり、僕はヨムギに深い感謝をした。
「……ヨムギ、きみは結構大人なんだね」
「今さら、だ。で、約束できるか? ディータを傷つけないって」
「……分かった。約束する」
「よし、ディータ、今はそれでいいか?」
ディータが納得するはずもない。彼女が危惧していたのは自分の身が危険に晒されることではなく、恩人が殺されることだ。
これ以上、意見が平行線を辿るならば彼女から離れ、一人でバンザッタへと向かうことにしよう。時間はかかってしまうが、そちらの方がお互いのためだ。
そう考えながらディータを見つめていると、彼女は意を決したように顔を上げた。無理して作った痛々しい笑みがこちらへと向けられている。
「本当は」とディータは蚊の鳴くような声で呟いた。「本当は分かってたの。……あの人はよく誰かと戦って、命のやりとりをしてた。ずっと見てたわけじゃないから詳しくは知らないけど、いっつも無傷で帰ってきてて……でもそうやって勝ち続けてるときっと誰かの恨みを買うこともあるんだろうな、って分かってたの」
視線を下げないようにするので精一杯なのかもしれない、ディータはぎゅっと拳を硬く握り、全身に力を込めていた。
「あの人は強いから心配してなかったし、その誰かがレプリカになってしまったのはとても残念だけど、でも、それを否定はできないものね。あの人は……『呼び水』だもの」
ディータは勢いよく息を吸う。僕の目にはその所作が涙を堪える所作に映った。
「わたしじゃギルデンスさんもレプリカも止められないだろうし、精々願うことにする。どっちも死なないように、って」
「よし」とヨムギが頷いた。
……二人はきっと僕よりもずっと大人だ。他人の立場を尊重する、という一点で僕よりも優れている。自分より若い女の子二人を思い煩わせたことに恥ずかしさと申し訳なさを感じた。
「じゃあ」ディータは目元を拭って、息を吐く。「行きましょ、バンザッタへ」
〇
転移魔法陣管理施設は石の壁と多くの兵で守られている堅牢な施設だ。日常的に使用されるものではなく、緊急性のある場合にしか利用が許可されていない。
あくまで形式上、の話だけれど。
ディータの話を聞くと、一部の貴族は観光や密会のために頻繁に用いているそうだ。その場を守る兵たちも監視のために勤務しているわけではないし、自分や家族の生活を省みずに糾弾する勇気はないのだろう、ほとんど黙認されているらしい。
彼女の魔法によって飛んだのはバンザッタの北にある転移魔法陣管理施設だった。広さはおおよそ二十メートル四方だろうか。重量や体積で消費する魔力が微妙に変化するため、厳密にはそれよりも少なくなるが、つまり、その広さがディータが一度に運べる量というわけだ。
一面に魔法陣が描かれた部屋を出るとディータは疲れた表情で立ち止まった。
「じゃあ、ヨムギ、レプリカ、ここで一旦お別れね」
「え」と僕たちは声を揃える。「なんで?」
「魔法陣に魔力を込め直さないといけないの。一日がかりだから、バンザッタに行けるのは明後日かな。仕事が入らなければ、だけど……アノゴヨにも戻らなきゃいけないし」
彼女は鉄製の扉を忌々しげに撫でて苦笑する。そこで転移魔法を発動させるには準備が必要であるということを思い出した。
ハルイスカでディータが語った話だ。
転移魔法は膨大な魔力を必要とする。それを詠唱だけで賄うには大きな負担となるらしい。そのため、転移術士は出発地点と到着地点に魔法陣を刻まなければならない。目印と補助、の役割だそうだ。
僕は後ろを振り向き、もう一つディータの名前が刻まれた扉があることを確認する。このフロアはディータのための部屋しかないようだ。
転移術士はその性質上、いつ仕事が入るか分からない。運ばなければ行けない場所も人の量も不明だ。手紙や荷物程度なら詠唱のみで送られるそうだが、生き物となるとそうはいかない。いつでも利用できるよう準備を万全にする義務がある。行きと帰りの魔法陣の、少なくとも一つは常に魔力を込めた状態にしなければならないのだ。
ヨムギは寂しそうにしていたけれど、納得はしていたようだった。「じゃあ、またな」とだけ短く言ってさっさと階段を降りていった。僕とディータは顔を見合わせ、同時に苦笑し、それから別れの言葉を掛け合った。
「じゃあ、さよなら、ディータ」
「うん、さようなら、レプリカ」
〇
バンザッタまでは馬車で一時間もいらずに到着する、という説明を受けた。準備がいいもので施設の外には八台の馬車がずらりと並んでおり、僕たちは五人ずつ分乗して魔法陣管理施設を出発した。
なぜ、それだけの傭兵をわざわざ転移魔法陣で運んだのか、結局それは明らかにされなかったが、察しはつく。
理由は二つ、護衛と宣伝材料だ。
護衛対象はディータではない。おそらくは彼女についていた護衛たちだろう。護衛の護衛、と言うと奇妙かもしれないが、彼らに別の任務があるとしたら別だ。
例えば、ラ・ウォルホル並びにハルイスカの状況の伝達。彼らはディータの護衛だけでなく、そういった役目を担っている可能性もある。手紙だけでは伝えきれない詳細な情報を伝えるための役目、だ。
そして、後者に関してはより簡単である。
軍お得意のプロパカンダ。僕たちはそれに利用されている。
味方には鼓舞として、敵国であるペルドールには牽制として――。
軍だけでなく、腕利きの傭兵を集結させている。その情報に尾ひれをつけて意図的に漏らせばペルドールに足踏みくらいはさせられるかもしれない。ハルイスカからともに来た傭兵たちの中にも、アノゴヨで合流した傭兵たちの中にも、一騎当千と評されるだけの有名人が何人もいた。
同時にその情報は国内にも影響を及ぼす。名を挙げようと考える傭兵は僕たちよりも戦果を挙げるため、反対に実力に自信がない傭兵は「誰それがいるなら先にそちらが狙われる」と戦争へと参加する決意を固めるだろう。
陽動、という線も捨て置くべきではない。国の南部に戦力を結集させるように見せかけて、他の国々の侵攻を誘う。もし、ペルドールとの戦いが全面戦争ではなく、他に火種を抱えていたとしたら、むしろそちらの方が本命だ。
何にせよ、僕たちが呼び寄せられた意味は確実にある。
おそらくは戦力として、ではなく、政治的な理由として、だ。
ただ、まあ、考えたところで政治のことなど分かるわけもなく、それ以上の熟考はしないことに決めた。今、僕が懊悩すべきはこの馬車が北の商業地区からバンザッタに入るのか否か、ということだけだ。
北側には僕の顔を知っている人が多い。職業斡旋所の所長を務めているウラグもそうだし、イルマもいる。事情を知っている彼らと顔を合わせるのは気が進まなかった。南側の軍部地区であれば何とでもごまかすことができる。
「どうした、浮かない顔して」
眠いふりをして抱えた膝に顔を埋めていたのが徒となったのか、ヨムギは僕の肩を小突いてきた。「ディータのことか」という質問に首を振ると彼女はいっそう不思議そうな顔をした。
「オヤジから聞いたけど、お前、ここの出身なんだろ? 里帰りってのは嬉しいものじゃないのか?」
「嬉しくないわけじゃないけど、ほら、色々あるだろ?」
「色々?」
ヨムギは本気で理解できていなかったようなので説明する。
「あんまり良くないことをしてきたからさ、知り合いに合わせる顔がないんだ」
「なるほど」
アノゴヨで起こった一件以来、僕とディータは口が酸っぱくなるほど「盗みは悪いことだ」という価値観をヨムギに植え付けていた。その成果もあり、彼女は一応の納得をしてみせている。彼女にとっては盗みが生活の一部となっていたため、罪悪感はなさそうではあったが、その納得だけでも今は十分だ。
「ところでさ、きみはどうするの? 軍に入るにしろ街で働くにしろ、職業斡旋所に行くのがいちばんだけど」
「ん、ああ、そうだな……でも、街で働くなんて考えてなかった」
「だろうね、そんな気はした」
「軍か……軍なら魔法を教えてもらえるのは分かるんだけどな、あそこはもうこりごりだ。身体が大人で頭がガキみたいなやつしかいなかったからな」
「そんなこと言って、勉強するのが嫌なだけでしょ」
そうからかうと意外にもヨムギは「まあな」と素直に認めた。毒気が抜かれ、揶揄しようにも相応しい言葉が見つからない。
黙り込んでいるうちに車輪が石に乗り上げたのか、馬車の荷台が大きく揺れる。酒に酔って寝ていた傭兵が幌に向かって不機嫌そうな寝言を叫んだ。
「……自警団ってのもあるけど、まともに魔法を使える人はいなかったしなあ」
「オヤジたちが来てから考えても遅くないよな。戦争が始まるのも今すぐじゃないみたいだし」
「でも、その間、どうするつもり? 宿舎はただ同然で貸してもらえるらしいけどさ」
僕たちは一時的に傭兵という枠を外れ、仮軍属という形で雇われている。何でもそうしなければ転移魔法陣を利用できなかったそうだ。柔軟と言えば柔軟だし、裏道と言えば裏道だ。ただ、そのおかげで宿泊費が抑えられるのは事実で文句をつけるべきところではない。軍にとっても待機している間の給金を空いている宿を貸すだけで済ませられるなら願ったり叶ったりであるはずだ。
「バンザッタには仕事があるんだろ」
「きみに向いた仕事があるかは分からないよ」
ヨムギは僕の軽口を受け流す。「狩人でもしてみるか」
「おお、この世でいちばん向いてないものを選んだね」
「馬鹿言うな、飯屋の給仕の方が向いていないことくらい、分かる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます