77「黙ってないでよ」
彼女との面会の許可は驚くほど簡単に出た。藁にも縋る思いだったのだろうか、指揮官は「迂闊なことだけはするなよ」と口にして僕を地下牢へと案内した。
彼は扉の前にいる衛士に言葉を交わし、視線を向けてくる。
「お前の言っているやつは奥の方にいるそうだ。阻害魔法の使い手だからか、階級が上でな。他のと違い、独房に入れてある」
「分かりました」
「私はやることがある。もし何か有益な情報があったら呼びつけてくれ。転移術士のディアルタ様は……要塞の中にはいるはずだ。自由な方だから居場所を把握しきれなくてすまない」
「昨日会ったので大体分かります」
ディータが居住地区に赴いていたことは既に耳に入っているのだろう、指揮官は渋面のまま去って行った。
僕は一度深呼吸し、牢の鉄扉を開ける。
覚悟していた血や吐瀉物、排泄物の臭いはなかった。苦悶の声もない。
左右に並ぶ鉄格子の中で捕虜たちは俯き、押し黙っていた。僕を新しい拷問人だと誤解している可能性もある。苦痛を味わう役目から逃れるために目立たないようにしていると考えれば彼らの態度は自然だった。
牢の中を進んでいく。突き当たりを右に曲がると「一~十番独房」と書かれている扉があった。
その先、左手には黒い鉄扉が等間隔に並んでいる。覗き窓から中を確認すると奥にも鉄格子が見えた。脱走を懸念してなのか、二重構造になっていた。一番から九番までは使われていないらしく、暗闇だけが澱んでいる。本当に人がいるのだろうか、不安になりながら一番奥、十番独房の覗き窓に顔を近づけると、女性の姿を発見した。
二人と並べないような狭い空間、鉄格子の奥で彼女は顔を膝に埋めている。探していた女性であるか、確認はできなかったが、他に誰もいないのであれば間違いはないはずだ。僕は扉を軽くノックする。
返事はなかった。
続けてもどうにもなる気がせず、ドアノブを回し、引く。蝶番が悲鳴を上げるかのように軋み、独房の中に光が差し込み、そこで、彼女はようやく顔を上げた。
「ああ、お迎えが来たのね……珍しい髪の色。拷問人さん、あなた海の向こうから来たのかしら。さぞ、えげつない知識があるんでしょう……」
彼女はこちらに視線を寄越していたものの、濃霧のような放心の中に精神をたゆたわせていた。
目に光がない。
身体には目立った外傷がないため拷問を受けていないことは分かったが、それだけだ。活力という活力が独房の冷たい壁に吸い取られてしまっているかのように、声も重力に負けて落ちていた。
「……お久しぶりです、ってのも変ですかね。僕のこと、分かりますか?」
「あなたのことなんて……」
顎が上がった瞬間、彼女の目に光が宿った。ひっ、と短い悲鳴が漏れる。僕を見据える眼球が激しく運動していた。
「い、いや! いやぁ!」
彼女は呼吸の方法を忘れたかのように短く息を吸い続ける。胸を押さえたまま、上半身を前に倒していた。
ここまで拒絶されるとは思っていなかった。僕は頭を掻きながらその場に屈む。
「ここは戦場じゃない、僕はあなたを絶対に傷つけません。落ち着いてください」
「い、いや、死にたくない」
「大丈夫です。僕はなにもしません。まずは深呼吸をしてください」
彼女は呼吸をすべきなのか、悲鳴を上げるべきか、それすらも判断できないようだった。
蹲ったまま、苦しそうにしている。話しかけることで彼女の精神が正か負か、どちらに動くのか分からなかったが、放置することもできず、何もしないことと息を吐くことを意識するように言い聞かせ続けた。
牢の中は時間の感覚が掴みにくい。十分も経っただろうか、もしかしたらもっと長い時間が経過していたかもしれない。彼女はそこでようやく正気を取り戻した。だが、顔には諦観が貼りついていて、僕を見る視線は暗く淀んでいた。
「……結局、私はあなたに殺されるのね」
「だから、僕は何もしませんって。話をしに来たんです」
「信じられるわけないじゃない!」
開け放たれた扉から差してくる光が彼女のまなじりにある涙を輝かせる。それに少しだけ安心した。彼女は涙を流せるだけの揺らぎを持っている。
僕は刺激しないようゆっくりと腰を上げた。
たったそれだけの動作に彼女は再び悲鳴を漏らしたが、しかし、その悲鳴もすぐに止んだ。女は困惑を露わにし、身じろぎする。
「ちょっと、何のつもり? ……何してるの?」
僕は深々と頭を下げていた。
あのとき――雨の中、彼女を地面に押さえつけたとき、僕は彼女を殺すことができなかった。黒く長い髪がアシュタヤを彷彿とさせたのもあるが、もっと大きな理由がある。
何人も何人も殺してきた中で、彼女が初めての存在だったからだ。
「黙ってないでよ!」
記憶の中の彼女と、目の前にいる女の声が重なった。
彼女は戦場で、物言わぬ僕に対して――理解できない力を振るっている僕に対してそう言った。しかも、目を逸らさずに、だ。
今までもああいった状況は何度もあった。追い詰められ、逃げられないことを悟ってもなお、すべての人が僕から逃げようとした。いざ〈腕〉で捕まえると錯乱し、命乞いの言葉を喚いた。貴族などがいい例だ。彼らは目を見開いてこそいたが、僕の中身など見ようとしていなかった。
しかし、逃れられない死の恐怖に直面しても、彼女は僕と対話を試みてくれた。彼女の吐き出した言葉が「助けて」だけだったとしたら迷うことはなかっただろう。
あのとき、彼女だけは僕のことを言葉の通じない化け物ではなく、会話のできる人間として見ていたのだ。
たとえそれが勝手な解釈だったとしても、彼女の態度で僕が止まることができたのは間違いがない。
「――ありがとうございました」
「……え?」
「あなたのおかげで僕は踏みとどまることができました。敵であるあなたに言うのもおかしいかもしれないけど……僕はあなたに救われた」
「なに……どういうこと?」
彼女の問いに答えるつもりはなかった。これはただの自己満足だ。
それに、説明したところで理解はしてくれないだろう。その義理もない。
「ええと、すみません、名前を教えていただけますか?」
彼女は困惑と躊躇でしばらく黙っていたが、やがて口を開いた。「……エルヴィネ」
「エルヴィネさん、ですか。覚えておきます」
「覚えておいてどうなるっていうのよ。どうせここで死ぬのに」
「ああ、そこで提案なんですけど、ここから出たくはありませんか?」
「……は?」
エルヴィネの目に一瞬だけ希望の輝きが満ち、すぐに消えた。彼女は眉を顰め、苛立たしげに批難してくる。
「出られるわけないじゃない! 適当なこと言わないでくれる? その格好、軍人でも何でもないんでしょ」
「まあ、そうですけど」
「だったら!」
「可能性の話です。本当はあなたを連れて脱獄するのがいちばん早いんですけど、それやっちゃうと今後、僕も大変だし」
脱獄、という単語が出たからだろうか、エルヴィネは固まった。彼女は僕の力をもっとも強く味わった人間だ。あながち不可能でもないと考えたのだろう、細く長い溜息を吐き出した。
「でも、どうせ、あんたもあいつらと同じこと言うんでしょ? 何と引き替えに、とか、何を条件に、とか」
「そりゃ、そうですよ。ただで敵を外に出してくれる国なんて滅ぶじゃないですか」
「ならいいわ。誇りは売れないもの」
「じゃあ、出る出ないとは関係なく一つだけ教えて欲しいんですけど」
「ちょっ」とエルヴィネは口ごもる。「あんた、調子良すぎない? 人の話聞いてる?」
「聞いてますよ。だからそれとは関係なく、って言ってるじゃないですか」
エルヴィネは焦れったそうに繋がった両手で頭を掻きむしった。長い髪がほつれ、鼻先へとかかる。彼女はそれを気にした様子もなく、座り直した。畳んでいた膝を伸ばし、壁に背中を預ける形になる。
「……あんたと話してるとここが牢屋の中ってこと、忘れるわ。調子狂う。本当にあのときのやつと同一人物?」
「褒め言葉として受け取っておきます」
「で、何? 答えるかどうかは別にして、聞くだけ聞いてあげるわよ。どうせ何を訊くかなんて分かりきってるけど」
「別に『太陽』とか他の仲間の居場所とか、聞くつもりはありませんよ」
「え?」
「ボーカンチ解放軍に不利益はたぶんないです」
確信があったわけではない。
しかし、うっすらとした予感めいたものが胸の内に渦巻いていた。
なぜ、ボーカンチ解放軍が「太陽」を使えたのか。八年間も行動を起こさなかったにもかかわらず、どうして今になってエニツィアへと挑んできたのか。それを繋げる一つの予感。
戸惑う彼女へと僕はその疑念をぶつけた。
「エニツィアに攻めてくる前、いえ、それよりもっと以前でもいいです。――全身に魔法陣を刻み込んだ男を見たことはありませんか?」
エルヴィネの表情が硬直する。
「どう、して」
それだけで僕には十分な答えとなった。
やはり、この戦争にもギルデンスが関わっている。
二年半前、僕は滅びた村で日記を読んだ。憎しみが人を介して増幅していく過程、あの泥臭く地味な方法で、彼は今なお人々を戦争へと向かわせている。
ボーカンチ解放軍が合い言葉のように口にしていた言葉を思い出す。「エニツィアに奪われたものを取り戻せ」。彼らは復讐心だけでこちらに挑んできていた。本来あるべき政治への不満などなくして、だ。
ギルデンスは一体、何を目的に人々を戦争に向かわせているのだろうか。
戦うことを目的に? しかし、今回、彼は戦場に出ていない。まったく別の、もっと大きな目的があるように感じた。
「ねえ、ちょっと!」と甲高い声が僕の思考を破る。顔を上げるとエルヴィネが鉄格子を掴み、こちらに顔を寄せていた。
「あいつがどうしたっていうのよ。なんであんたがそれを知ってるの?」
「いえ、別に大した意味はないんです。もしかしたら、って思っただけで」
「教えてよ!」彼女は声を震わせる。「みんな気にしてなかったけど、私、分からなかったの……あいつは一体何なの?」
躊躇する。
僕が至った結論はあくまで推測に過ぎない。それをまるで真実のように語るのはギルデンスのやり口と何ら変わりない、唾棄すべき行為である。事実をねじ曲げ、人の感情をコントロールするのは僕がもっとも嫌うものだった。
ごまかしてしまおうか。
そう考えたのも束の間、エルヴィネの瞳を見て僕は嘘を吐くのをやめた。真実を求める目は真偽判別よりもずっと強い力を持っている。
「……エルヴィネさん、これは推測の域を出ないし、もし真実だとしても、僕はあなたから大事なものを奪ってしまいます」
「それでもいい!」と彼女はじっと僕の目を見つめた。「あいつが来てからみんなが少しずつ変わっていった。……私、この数日間、この要塞に連れてこられる前から一人だったからずっと考えてたの。エニツィアは憎い。だからこの戦いは間違ってなかったって思ってる。でも、何か、自分でも分からないけど、何かおかしいところがある……そんな気がするの」
僕は一度ゆっくり息を吸い、吐いた。エルヴィネが唾を飲み込む音が聞こえる。
これはどんな拷問よりも残酷な言葉かもしれない。
そう思いつつも、静かに伝えた。
「エルヴィネさん、あなたの抱いているその憎しみさえ、その男――ギルデンスに植え付けられたものかもしれない」
「……なに、言ってるの」
「ギルデンスはこれまでも大小様々な戦争を生んできました。彼は人に希望を与えるんです。戦って、勝てば今が変わる、そんなふうに。そのために様々な言葉を吐き出します。エニツィアの非道を大きく語り、正義があなたたちに存在するかのように言ったかもしれない。あるいは、南の国が攻めてくるから東側が手薄になる、だとか」
その言葉にエルヴィネの表情が変わる。思い当たることがあったのかもしれない。顔面を蒼白にして、唇を震わせた。
「……でも、でも、私はこの目で見たの! 前の戦争が終わった後、エニツィア軍の兵士は笑いながら私たちの仲間を殺してた!」
「それは……確かに事実かも知れません。ですが、もしかしたらそこにも彼が関わっている可能性もある。……知っていますか? 八年前の戦争であなたの同胞を殺していたのは他ならぬギルデンスだ」
「え」
糸が切れたのが、目に見えて分かった。
エルヴィネとギルデンスとの繋がりがどれほどのものか、僕には予想もつかない。だが、彼女は彼によって動いていた人々を見ていたのだろう。彼女の中の前提に亀裂が入ってしまったようだった。
「でも」と彼女は繰り返す。「でも、みんな、父さんと母さんも言ってた……」
「感情は人を介して増幅していきます。恨みや憎しみ、恐怖なんていうものは特に」
僕は鉄格子の中に手を伸ばす。地面に着いた彼女の手にそっと触れた。
「エルヴィネさん、僕はあなたが見てきたものを否定するつもりはないんです。あなたがエニツィアを憎く思うのは誰にもとめられない。でも、戦争は終わりました。一度、平坦な目で世界を見てみませんか?」
「……私は、どうすれば」
エルヴィネは自分が戦士であることを忘れてしまったかのように泣きじゃくり始めた。そこにはただのか弱い女性がいて、胸が痛くなる。
彼女にとってはエニツィアへの憎しみが生の柱だったはずだ。それを奪い去った今、まともでいられるはずがない。俯いたまま、彼女は涙をこぼした
「あんたの言うことが正しいなら……私の、私たちの人生は何だったの? ……信じたくない、そんなこと……ひどい、ひどいよ、こんなこと……」
「……エルヴィネさん、もしあなたがここにいる仲間を救いたいなら、あなたの知っていることをすべて伝えてください。その上で、エニツィア軍に協力を申し出るんだ。それなら可能性はある」
「……私に、仲間を裏切れって言うの?」
「そうじゃない。あなたはただ、戦争ではない方向に仲間たちの目を向けるだけです」
「私は……」
エルヴィネは煩悶したまま、頭を抱え込む。
僕はそれを直視していられず、立ち上がった。
「エルヴィネさん、一つだけ伝えておきます。あなたの人生は無駄ではありませんでした。少なくとも僕はあなたに救われたし、あなたが得た力は別の形で役に立つと思います。……今日はありがとうございました。できるなら、良い返事を期待しています」
すすり泣きが響く独房から出て、扉を閉める。
良い気持ちはしなかったが、これでいいのだ、と思った。人を救うのは難しい。僕にできることはそれほど多くはない。
地下牢を出た後、僕は衛士に少しだけ汚いお願いをした。もしかしたらエルヴィネが洗いざらい喋ってくれるかもしれない、だからここにいる誰も殺さないでくれ、と。決定権のない衛士は戸惑っていたが、「そうしてくれなかったら約束を破るかもしれない」と指揮官に伝えるように言うと、ひとまず頷いた。
あの指揮官なら合理的な判断ができるはずだ。わざわざ高い魔法技術を捨ててまで処刑をすることはないだろう。
僕は衛士に頭を下げる。どうか、僕を嘘つきにしないでください、と願った。
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