66「あなたの名前は」

 女性はシャンネラと名乗った。シャンネラ・ラニア、予想に違わず領主夫人であるらしい。彼女は僕に座るように促したあと、ローテーブルに置かれたティーポットを手にとった。

 白い陶器のカップに彼女はオレンジ色の茶を注いでいく。橙の水面に射し込んだ照明と陽光は柔らかく攪拌され、光沢をもって僕の記憶を甦らせた。愛飲、には到達しないものの、アシュタヤもよく茶を飲んでいた。シャンネラの、あるいはハルイスカの風土が影響しているのだろうか。


「どうぞ」


 記憶に酩酊しているうちに、シャンネラはカップを差し出してくる。湯気の立つ茶を口に含める。ハーブティだ、花の香りと清涼感が鼻の奥へと抜けていった。

 僕はカップを受け皿に戻し、言葉を待ったが、シャンネラは穏やかな笑みを浮かべるばかりで口を開こうとはしなかった。慣れた所作で彼女はハーブティの入ったカップを口元に運び、受け皿に戻し、それを何度か繰り返した。屋敷の中からも外からも静寂だけが響いてきている。

 どれだけの時間が過ぎたのか、焦れったくなり、僕は訊ねた。


「あの、領主様は……今日は軍への勧誘と伺っていたのですが」

「表向きは」

「表向き?」

「あなたの噂は知っていますから。元より軍に入るつもりなどないのでしょう?」


 即座に肯定するのも憚られ、返答を逡巡した。軍への勧誘を断り続けていたのは事実だ。それが軍や貴族の間で何らかの噂になっていてもおかしくはない。

 間を開けて僕が頷くと、シャンネラは小さく息を吐いた。


「では、今日は暇なおばさんとお喋りでもしましょうか」

「……すぐそばで戦争が起こっているのに悠長ではありませんか?」

「それほどの使命感があるなら軍に入るのをお勧めしようかしらね」


 怒らせようと叩いた憎まれ口を、余裕を持った口ぶりで返され、僕は何も言えなくなってしまう。確かに今日、戦闘の予定はない。数十分程度の会話をしたところで何ら支障はなく、シャンネラもそれをよく理解しているようだった。

 もちろん、わざわざ付き合う必要もない。

 貴族や軍の指揮官の面子など知ったことか、と立ち上がり、有無を言わせず部屋を去ることもできただろう。


 だが――これははっきりとした確証があるわけではないのだけれど、ほとんど確信に近いものとして――僕が背を向けた瞬間、彼女はアシュタヤに関する事柄を告げる気がした。そのとき、僕が持つ選択肢は二つしかない。無視してそのまま立ち去るか、足を止めて話を聞くか、だ。

 特に前者は僕の感情と事実をより雄弁に語る。

 シャンネラがすべてを知っていて、自分の娘に対して平均的愛情を持っているなら、彼女にはその態度が非合理的行動に映るはずだ。きっと愛娘を穢した狼藉者を帰そうとはしないだろう。


 だから、選択肢はあれど、僕の持つ選択の綱は抗いがたい磁力に手繰り寄せられ、シャンネラへと伸びてしまっていた。離席しようものならその綱に引っ張られ雁字搦めにされるのではないか、と妄想にも似た予感が脳内で翻る。

 こうなればもう、会話を受け入れるほか、ない。

 僕はカップを手に取ることで了承の意を示した。シャンネラもその意図を汲み取ったのか、「では」と莞爾たる笑みを作った。


 もし――アシュタヤが話題に上ったら、どうするか。

 悩むまでもない。

 僕は毅然とした態度でアシュタヤとの関連性を否定するつもりでいた。それがもっとも楽な逃避手段だ。一切の感情の動揺を表出させず、素知らぬ演技を継続すればきっとシャンネラも深く追求することはできないだろう。僕が「ニール・オブライエン」である証拠など存在しない。


 ……当然、その方法が間違いであることは知っていた。

 より良い術があることも、だ。

 彼女やカンパルツォとの関係を認めた上で、すべてを否定すればよい。自らの喉の肉を抉るような、唾棄すべき罵詈雑言を並べて、アシュタヤや仲間たちを貶める。もう一切の接点もなく、僕の線が彼女たちの線と交わるのは相応しくないと思わせられれば「今後」などなくなる。

 たとえ相手が権謀術数渦巻く貴族社会に生きる人間で、僕の拙い嘘を見抜いたとしても、娘を愚弄されたらきっと関係性を断ってくれるはずだ。

 けれど、その方法を選択できるほど、僕は強くも、頭が良くもなかった。


「あなたは」とシャンネラ・ラニアは手にしていたカップを置く。「あなたはなぜ傭兵に身を窶しているのですか?」

「……決まっています、戦う力があって、この国ではそれが金になる。それ以外に理由がありますか?」

「いえ、それなら軍に所属してもいいのでは、と思って」


 何度もやり尽くされた問答に、僕も軍の勧誘を断るために使い続けてきた言葉を手に取る。わざとらしく溜息を吐き、肩を竦めた。


「軍には自由がありませんから。気楽、なんですよ、こっちの方が」

「そうでしょうか。拠り所のない傭兵よりもずっと気楽かもしれませんよ」

「……まあ、いずれはその選択をするかもしれませんね」

「そのいずれが『今』ではないのは若さが理由ですか?」

「そう、ですね」


 その返答にシャンネラは眉を下げる。その表情から漂ったのは上品さというよりも母性のような、柔らかさだった。背筋に予感のようなものが走り、身体に強張りを感じた。

 僕は親指の爪を人差し指に押し当てながら、彼女の次の句を待つ。


「私にも」と彼女は口ずさむかのように言った。「あなたと同じくらいの娘がいるんですよ」

 来た――。「そう、なんですか」

「とてもお転婆でしてね、そのせいで軍に入ったのですが」

 初めて聞いたように装え。「武芸に秀でていたんですか」

「いえいえ、素人目から見ても武芸の才はありませんでした。魔法も同じです」

「それにしても貴族の子女が軍ですか」

「女子では珍しいですが、男子ではままあることですよ。ほとんどが形式上ですけどね」


 僕の嘘は露見しているのか?

 シャンネラの表情には何らかの作為は見当たらなかった。だが、それが本当に知らないのか、気付かないほどの巧妙さで隠蔽されているのかは、判然としない。

 いつ本題を叩きつけられるかと半ば怯えながら慎重に言葉を返していったが、彼女は意外にもすぐに話題を変えた。これまでの戦果であったり、あるいは花に関する話であったり、だ。中には僕の来歴に関することもあったけれど、それに関してはごまかすことになんの苦労もなかった。


 三十分ほどは話しただろうか。シャンネラ・ラニアはアシュタヤの母親だけあり、親しみやすい人柄だった。堅苦しさは微塵もなく、最初の緊張を忘れて笑顔が出てしまったほどだ。

 シャンネラはちらりと部屋の隅に置かれた水時計に視線を忍ばせ、「そろそろ夫を呼んできましょうか。きちんとした手続きをしないといけませんものね」と腰を上げた。軍の所属如何に問わず、僕には褒賞が出ることになっていて、彼女ではその手続きはできないらしい。

 ようやくかと思いつつ、僕は一礼する。


「久々に穏やかな時間を過ごさせていただきました。楽しかったです」

「いえ、こちらも。ああ、そうだわ、手続きに関することなんですが……不躾な質問になってしまいますが、字を読むことはできますか?」

「ええ、一通り習っています」

「そうですか、それなら良かった。ではこちらに目を通していただけますか」


 彼女が僕に手渡したのは白い書簡だった。蝋を剥がし、中にある折りたたまれた紙を取り出す。日に焼けているのか、それとも元々そういう紙を使っているのか、くすんだ色をしていた。この世界の紙には真っ白なものなどないため、別段不審には思わなかったが、表面にある皺が目につく。いくら経費を節減したとしても、これは公式的な書類としていかがなものだろうか。

 僕は批判を顔に出さないように努めながら紙を開いた。


 その瞬間、全身の汗腺が開いた気がした。

 古ぼけた紙には期待していた褒賞についての説明などどこにも記されていなかったのだ。

 描かれていたのは僕の顔――二年半前、メイトリンへと向かう道中の温泉街で手に入れた人相書きがそこにあった。液体がこぼれたような染みと皺が「僕」の頬の辺りについている。

 穏やかな気持ちなど消え失せていた。

 ジオールの念写によって精密に描かれた僕の顔は僕に対して語りかける。

 シャンネラはすべてを知っている、と。


 一切の反応を隠すつもりだったにもかかわらず、虚を突かれたことでその決心は雲散霧消していた。目を見開いたまま、顔を上げる。立ち上がっていたはずのシャンネラは再び端座し、僕を注視していた。瞳には今までおくびにも出していなかった怒り、いや、怒りに近い何かが宿っている。

 気圧されていることに、気がつく。絞り出した声が震える。


「え、あ、あの、これは」

「これはあなた、ですね」

「ち」なんとか声を絞り出す。「違います、よく、よく似てはいますけど」


 僕はもう一度紙片に目を落とし、そこに書かれた文字を発見した。アシュタヤの筆跡で「ニール・オブライエン」と記されている。


「ほら!」と僕は自分の名前を指さす。「ここに、ニール・オブライエンと書かれているじゃないですか! 僕の名前は『レプリカ』だ! 名字もない、ただのレプリカ」

「……そうですね。今、あなたはそう名乗っている。しかし、私の娘――アシュタヤにはこう名乗っていませんでしたか?」


 シャンネラはそこで言葉を切った。

 僕は、アシュタヤにどう名乗った? 思い出せない。初めて対面したのはあの冷たい鉄格子の中だ。必死に記憶を呼び起こす。

 頭の中央で何かが弾ける。思い出した。そうだ、僕は――。


「ニール=レプリカ・オブライエン。あなたはそう名乗っていたはずです」


 この世界に来てから僕が「ニール=レプリカ・オブライエン」と名乗ったのは二度しかない。

 その最初、今までの世界のくびきから解き放たれた僕はいるはずのない超能力者、アシュタヤを目にして畏怖の念を抱いた。偽物ではない彼女を見て、僕は思わず前の世界で使っていた名前を名乗ってしまっていた。

 仲間たち以外は知らない本当の名前。それを突きつけられて、すでに余裕などなくなっている。この不安定な謁見が終わると安堵していただけにその思いは余計に強固さを増していた。混乱が、切断したはずの右腕に痛覚を送る。

 もはや論理的な否定など持ち合わせているはずがなかった。


「あの、僕は、違います、僕は」

「ニールくん」シャンネラは遮り、平坦とした口調で続ける。「私が聞きたいのは一つだけです。どうしてカンパルツォさまのもとを去ったのですか」


 なぜ――、なぜ僕が彼らのもとを離れたのか。

 考えるまでもない、資格がないと思ったからだ。長年彼に仕えていたパルタを殺した僕は、彼らを恐れた。受ける罰にではない、彼らとの間に生まれる断絶に恐れを覚えたのだ。

 だが、僕の取った行動を傍目から見たら、罰を恐れて逃げた罪人と何ら変わりない。

 口を開くに開けず黙っているとシャンネラは静かに嘆息した。僕の身体はその小さな音にすらびくりと震える。


「答えにくいのならこう言い換えましょう。どうしてアシュタヤを悲しませたのですか? ……今一度、聞きます。あなたの名前はなんですか?」

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