65「怖いの?」

 遠くで歓喜の声が聞こえる。また、「友達になろう」だ。あちこちから金属の杯をぶつけ合う音が響いていた。

 今日の戦いはエニツィア軍のほぼ完全な勝利だった。阻害魔法という支援さえ崩れれば、練度の高いエニツィア軍が優勢となるのは当然で、斥候からの報告によると本隊が瓦解したボーカンチ解放軍はラニア領から引き上げ、ラ・ウォルホルの砦へと敗走していったらしい。

 後はエニツィア各地から送られてくる軍と合流し、物量作戦でラ・ウォルホルを奪還するだけだ。阻害魔法がある以上、術士の居場所が限定される籠城作戦はその時点でほとんど攻略したものと同義である。


 フェンの言葉を思い出す。お前の力が均衡を崩しうる――確かにそのとおりだった。阻害魔法を前提とした戦い方は僕の前では意味がない。軍人たちは勝利に貢献した僕を探していたけれど、僕は彼らから逃げるように広場から遠く離れた馬小屋の中で一人蹲っていた。

 戦っている間はとても気分がいい。自分の力が誰かのためになっている実感がある。褒められるのは嬉しいし、何もできずに倒れていく敵兵の姿は万能感を与えてくれる。なすがままに死んでいく敵兵の姿はまるで肯定だ。その瞬間だけは僕を理解してもらえるような気がした。


 けれど、いったん戦場から離れてしまうと、それら一切の興奮もまた潮が引くように遠ざかった。脳がノルアドレナリンやセロトニンの受容を拒絶し、活力という活力が消え去っていく感覚があった。そういった心に作用する薬はこの世界にはない。

 暗闇の中で、鎌首をもたげる罪悪感や憂鬱に触れないように、せめて世界に触れる面積が少なくなるように、膝を抱える。誰かが責めてくれれば楽なのに、僕に殺された人たちはそれすらも恐れているのか、目の前には現れない。顔のない亡霊たちが出てきてくれはしないかと虚空を睨むが、あるのは暗闇だけだ。


 でも、僕がこうしていると決まって慰めてくれる人が、一人だけいる。

 ほら。

 震える僕の肩に暖かな感触が伝わった。彼女は僕を抱擁し、耳元で優しい言葉をかけてくれる。


 ねえ、大丈夫?

「大丈夫だよ――アシュタヤ。少し、怖くなっただけだ」


 隣に腰を下ろしたアシュタヤはそっと僕の左手を握った。彼女の冷たい指が絡まり、心の底に安堵感がじんわりと滲んだ。


「……今日もいっぱい、殺したんだ」

 そう、すごいのね。やっぱり頼りになるわ。

「敵なんて大したことないんだ、全然強くない。僕が向かっていけばみんなすぐに逃げ出す」

 なのに、怖いの?


 アシュタヤはくすくすと笑い、僕の頭を撫でた。それがくすぐったくて、「子ども扱いしないでくれよ」と身を捩る。


「……今日、久々に、傷をつけられたんだ」

 えっ、と彼女は狼狽する。大丈夫なの?

「うん、すぐに直した。それを見てみんなびっくりしてたよ」

 それはそうよ。

「……アシュタヤ、僕はきみの『盾』になれてるかな」

 当たり前じゃない。どうしたの、いきなり?

「……怖いんだ。魔獣を殺すのは慣れた。彼らの言葉は翻訳装置でも訳せないから。でも人間は違う。まあ、今日戦った人たちは同じ言葉を使ってたから翻訳装置の出番はなし、初めて出会う言葉でもさほど変わりないんだけどさ」

 どうして?

「僕の翻訳装置はすごいだろ? 初めて聞いた命乞いの言葉も、すぐに覚えるんだ。みんな僕を見て、同じ言葉を叫ぶから、理解できちゃうんだよ。今ならいろんな国の命乞いを真似できるよ。初めて覚えたのが助けを求める声、なんて珍しくもなくなっちゃったんだ」

 そうなんだ。

「アシュタヤ、僕は分かるんだ。心がばらばらになってるのが、分かるんだよ。戦わせてくれ、アシュタヤ。戦ってれば余計なことを考えずに済む……こんな余白の時間が僕を壊すんだ」

 大丈夫、私が隣にいるじゃない。


 アシュタヤはもう一度、僕を抱擁する。

 でも、彼女は僕の名前を一度も呼ばない。何度お願いしても、彼女は不思議そうに首を傾げるだけで、決して「ニール」と呼んではくれないのだ。

 眠ればこの気持ちもすぐに消える。一刻も早く意識を遮断しなければ、と考えるが、この暗闇でのアシュタヤとの逢瀬が僕には楽しみで楽しみでしょうがなくて、眠ろうにも眠れない。


 そのとき、僕の顔に光が当てられた。突如として光を浴びせられたことで、驚いた虫が逃げるように、幸福感が遠くへと走り去った。


「レプリカ、お前、こんなところで一人で何してるんだ」


 ヨムギの声が聞こえた瞬間、僕の隣に座っていたアシュタヤの姿が消える。ヨムギの持つカンテラの灯りは僕と誰もいない空間を照らしていた。

 ちょっと、待ってくれ。

 まだ、足りない。空っぽになった僕の心はまだ充足していないのに。


「アシュタヤ、どこだ?」

「アシュタヤ?」ヨムギは顔を顰めながらカンテラを振る。「ここにいるのはお前だけだ」

「違う、アシュタヤが隣にいたんだ」


 僕は立ち上がり、馬小屋の中を必死に探すが、アシュタヤはどこにもいなかった。いつもの幻覚であると次第に認識し始めるが、それを認めるのが嫌で僕は必死になって藁の絨毯をひっくり返した。

 いつまで経っても彼女は見つからず、怒りがふつふつと湧いてくる。僕はヨムギを強く睨んだ。


「ヨムギ、きみが来なければ」

「お前が何を言っているか、おれには分からないけど、あの指揮官が呼んでたぞ。そのせいでおれたちは宴の最中だってのに駆り出された」

「なんで僕が呼び出されなきゃいけないんだ。今日だって十分に戦ったじゃないか。叱られることなんてない!」

「叱られる……? 指揮官は上機嫌で礼を言っていた」

「……行かない。一人にしてくれ」


 ヨムギは大きく舌打ちをして、馬小屋から出て行った。再び訪れた静寂に、僕は腰を下ろす。目を瞑り、膝を抱える。でも、アシュタヤは急に現れたヨムギに驚いてしまったのか、出てきてくれなかった。


     〇


 翌朝、僕は指揮官に連れられて街へ向かった。馬小屋で一夜を明かしたせいか、僕の身体には獣の臭いが染みついていたようで、彼は顔を顰めて小瓶に入った香水を投げ渡した。


「ハルイスカで作られてる香水だ。少しは体臭を紛らわせられる」


 ラニア領ハルイスカ。領主の住むその街は『花の街』とか『香水の街』とか、そう呼ばれている。その二つ、花や香水が名産で、街そのものに柔らかな香りが漂っているほどだ。

 野営地から街までは馬で三十分もかからずに到着する。雨雲は去ったが、頭上には未だ分厚い雲が広がっていて、夏の明るさはなかった。

 なぜ、僕が指揮官に帯同しているのか、その理由はなんとなく分かっていた。今までも何度か経験したからだ。多大な戦果を挙げた傭兵はそれなりの地位を餌に軍へ勧誘されることが多い。軍が力のある者を胸の内に抱えておきたいのは当然だ。


 とは言っても、経歴がはっきりしない傭兵が軍に入り、一足飛びに昇進するには一定の手続きが必要になる。手続きとは貴族による身元の保証と推薦である。

 つまり、今向かっているのはラニア領の領主の館だった。わざわざ体臭を消すように命じられたのがその証拠とも言える。そして、その予想は的中しており、出発からほどなくして、指揮官は僕にそのことを告げた。

 気乗りはしなかったが、拒否したとしても意味がない。「俺の顔を潰すな」とか「貴族様の顔に泥を塗る気か」などと恫喝されるのが常だ。だから、僕は大人しく彼に同行した。


 ただ、これまで何度も軍からの勧誘を受けていたとはいえ、今回ばかりは普段よりずっと憂鬱な気分が強い。

 今回謁見する貴族とは僕にとってただの貴族ではなかったからだ。

 ラニア領の領主はアシュタヤの父親だ。

 もし――こんな妄想はありえないし、あってはいけないけれど――もし、アシュタヤが僕のことを探してくれているならば、ここの領主にも話が伝わっている可能性がある。彼女もきっと僕が傭兵稼業をしていることくらいはもう認知している頃だろう。親伝いに何らかのアクションをしてくる可能性は否定できない。


 僕の心配事はたった一つだった。

 アシュタヤの話をされたときに感情を押し殺し、表情に出さないようにできるか。

「ニール・オブライエン」など知らないかのように振る舞わなければならない。その心配をしていることそのものが無自覚的に彼女や仲間たちとの再会を願う弱い心の証左と知りながら、僕は心の準備を固める。

 ここにいるのは「レプリカ」という名の傭兵だ。他の誰でもない。

 何度も自身にそう言い聞かせる間、表情に何らかの変化が出てしまっていたようだ。指揮官は怪訝な顔をして馬上の僕を見つめてきていた。


「どうした、その顔は」

「……いえ、その、少し緊張して」

「『化け物』レプリカといえど貴族相手には縮こまるか」


 指揮官の口ぶりはそう合点して、というより、様子の変化はそれが原因なのだと信じるためのものに聞こえた。僕が飼い慣らせない「化け物」ではなく、従順で制御可能な人間であると安心するために、だ。

 そこまで不安に思わなくても、と苦笑を漏らす。すると、やはりその所作も人間味に溢れていたらしく、指揮官は鷹揚に頷いた。僕も一応は人間のつもりなんだけどな、と心の中だけで自嘲気味に呟きながら彼の言葉を聞き流した。


「ラニアさまにお目にかかるからと言ってそう緊張することはない。あの方たちは貴族の中でも穏やかで、民とのふれあいも頻繁に行っておられる。少しくらいの無礼なら許していただけるだろう」


 もちろん、しないに越したことはないが、と付け足して、指揮官は馬の速度を上げた。上空にある雲は西側に流されていて、頭上には絶えず同じ雲があるような気がした。



 ハルイスカの入り口には花のアーチがあった。

 様々な種類の花は赤が多く、夏らしさを感じさせる。警戒に当たっている民兵に挨拶をした後、領主の館へとさらに馬を走らせた。

 戦いがあったせいか、往来には数える程度の人間しかいない。避難を拒んだ住民だろうか、彼らにはどこか殊更に日常を装っているような気配があった。昨日の戦いでは勝利したもののまだ敵の残党はラ・ウォルホルの砦に籠城していて、未だ恐怖は取り去られていないのだろう。残った住民の表情にはわずかな強張りが貼りついていた。

 領主の館にはよい香りのする花園が隣接していた。華美というよりも優雅な花の装飾に迎え入れられ、僕と指揮官は館の中へと入っていく。


「お待ちしておりました」


 僕たちの前に現れたのは総白髪で、細身の老人だった。顔には濃い疲れがこびりついている。アシュタヤの親族ではなさそうだ。執事か何かだろうか。老人が恭しく頭を下げると指揮官は恐縮した敬礼を返した。


「ラニア様の命により参上いたしました」指揮官は自分の名と地位、それから僕の名を告げて、続ける。「お待たせいたしました」

「承っております。ラニア様は応接室にいらっしゃいますが……、その前に一つ、よろしいですか?」

「なんでしょう」

 老執事は「ご足労いただいて申し訳ありませんが」と前置きし、慇懃に礼をする。

「今回、お会いになるのはそちらの『レプリカ』さまだけにしたいとラニアさまがおっしゃっておりまして」


 ぴくり、と指揮官の眉が動いた。もしかしたら僕も同様かもしれない。

 貴族が軍の人間を伴わずに傭兵と面会する、というのは一般的ではなかった。本来的に傭兵は信用できるものではない。力があってなお軍に所属しないのは何らかのやましい理由があると判断されても不自然ではないからだ。


「それは」と指揮官が訊ねる。「それはなぜでしょうか」

「伺っておりませんので、私には答えられかねます。ですが、かなり強い要望だったことは申し上げておきましょう」


 ああ。

 僕は納得し、顔を伏せた。

 やはり、アシュタヤから何らかの話をされているに違いない。彼女は僕が傭兵として戦ううちにこの近辺にも訪れる、と予想したのだろう。

 その事実に奥歯を噛みしめる。喜びと罪悪感が喉の肉に絡みつき、油断すると声が漏れそうになった。

 だからこそ――だからこそ、彼女の期待に応えてはいけないのだ。僕は彼女を裏切り続けることでなんとか罪と向き合う猶予を与えられている。もしこのまま彼女と会ってしまったら、きっと僕は堪えられない。

 指揮官は不服そうな顔をしていたものの老執事の熱心な説得により、折れた。万が一領主になにかあったら責任問題に発展すると考えているのか、戒めるように僕を睨み、それから、玄関ホールにあるソファへ腰を下ろした。


「では、こちらです」


 老執事に促され、僕は歩き始める。木張りの廊下の壁には交互に魔法石のランプと花のオーナメントが下げられていた。彼は本当に何も知らないのか、それとも知っていて何も言わないのか、僕に対して二言三言、「失礼がないように」と注意しただけで、その他にはなんの情報も与えてくれなかった。

 それが返って僕の緊張を加速させる。急に喉の渇きを感じ、唾を飲もうとしたがうまくいかない。

 気付くと応接室の前まで辿りついていた。老執事がノックし、ややあって扉が開く。

 その瞬間、息を呑んだ。

 部屋の中にいたのはアシュタヤの面影がある美しい女性だった。彼女と同じ黒い髪と灰色の瞳をしている。その女性も僕の髪と瞳を見て、柔らかく微笑んだ。

「ようこそ」と部屋の中に迎え入れる彼女に反応できない。


「奥様、領主様は」

「少し外してもらいました。彼と」そこで彼女の視線が再び僕へと向いた。優しさの中に心の中を覗き込むような色合いがあり、背筋が伸びた。「お話をしようと思いまして」

「左様ですか。では私も」

「ええ、ありがとう」


 老執事は一礼し、そっと扉を閉める。アシュタヤの母親と思しき女性は「こちらへ」とだけ言って向かい合うように置かれたソファへと進んでいった。

 広い部屋の中、僕はなんだか取り残された気持ちになる。

 奥の壁はほとんどが窓ガラスで、曇天に濁された光が入ってきている。外にある花園は丁寧に手入れされており、光を濾過するように咲き誇っていたが、その甲斐もなく淀んでいるように感じられた。

 いや――淀んでいるのは僕の方かもしれない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る