第三章 第一節
64「そばに来ないで」
五千対六千。
それが現状の彼我の戦力差である。ラ・ウォルホル駐屯軍並びに近隣領地から派遣された軍、私兵、傭兵を掻き集めても、七日という短い期間では五千が限界だった。
敵は東に隣接する国、ボーカンチの、俗に解放軍と呼ばれる集団だ。魔法研究の進んでいるボーカンチは近年、協調外交の路線をとりつつあったのだが、その方針を軟弱であるとし、よしとしなかった者たちがいた。それがボーカンチ解放軍、というわけだ。前の戦争から先はぱったりと鳴りを潜めていたが、最近になってまた活動が活発化しているらしい。
エニツィアがラニア領まで押し込まれた理由は二つある。
一つは慢心だ。八年前の第一次ラ・ウォルホル戦役では圧倒的な勝利を収めていただけにボーカンチ解放軍がそれだけの戦力を集められるとは予想だにしなかったのだ。まずい、と気付いたときには遅かった。街道が発展しているとはいえ、エニツィアの広大な国土では各地から兵を招集するのに時間がかかる。数千、数万の人間を移動させる転移魔法は現実的ではない。
そして、もう一つが阻害魔法だった。ボーカンチ解放軍が八年かけて育て上げた阻害魔法の術士たちはエニツィアの軍勢を完全に封じ込めたのだ。
僕が配置されたのはその阻害魔法の術士を無力化するための別働隊だった。速度が重要視されるその隊には軽装の歩兵や騎兵が集められている。そのほとんどが傭兵だ。敵も阻害魔法の重要性は承知しているだろうから、きっと捨て駒程度にしか考えられていない。三百人に満たない別働隊にはヨムギや頭領を含め、見知った顔が何人もいた。
開戦の朝、僕たち別働隊は広場に集められた。突撃前の、最後の決起集会だった。今にも雨が降り出しそうな重苦しい黒い雲の下、地面を踏む音が積み重なり、雷の音のようにも聞こえた。
「諸君!」三段に重ねられた木箱の壇上で指揮官が叫ぶ。「あと五日もあれば、さらに一万のエニツィア軍が援護に来る。彼らの仕事を奪おうではないか! 戦果を挙げた者には相応の褒美をもって応える! 諸君らの力を見せてみろ!」
地鳴りのような喚声が轟き、痺れるような振動が皮膚に走る。隣を見るとヨムギも高い声を上げていた。彼女は僕の冷めた視線に気付いたのか、攻撃的な笑顔で肩を叩いてきた。
「おい、レプリカ、どっちが多くの戦果を挙げるか、競争だな」
「どうでもいいよ、そんなの」
「つまらないな、お前は」
睨んでくるヨムギを無視して、指揮官を眺め続ける。作戦を説明しているその男は士気を高めようと身振り手振りを駆使している。
けれど、僕はその作戦に従う気はなかった。敵の本隊を迂回して、阻害魔法隊に対して全員が同時に突撃する。敵の張る罠を人で探知して切り込む作戦はあまりに犠牲が多いし、人の中に埋もれていたら僕の力を発揮できない。
「誰か!」と指揮官が声を張り上げる。「誰か、我こそは一番槍、という勇敢な者はいないか!」
多くの傭兵たちが雄叫びとともに手を張り上げた。彼らの興奮と反比例して心が沈んでいった。――茶番だ。
僕は嘆息し、人の森を掻き分けて進んでいく。後ろから狼狽したヨムギの声が、前からは屈強な男の忌々しげな舌打ちが聞こえた。壇上で演説している指揮官の前まで進み出ると雄叫びがざわめきへと変わる。左に控えていた正規軍の所属らしき兵が槍を掲げ、「何だ、お前は」と距離を詰めてくる。
ちょうどいい。
僕は左腕を掲げ、見えない〈腕〉を伸ばして二人の兵を捕まえた。身動きが取れなくなった彼らは当惑した顔で身を捩り、苦しそうな呻き声を上げた。聴衆にとってはくだらないパントマイムに映ったのか、嘲笑が広がる。二人の兵は屈辱と狼狽で顔を赤くして、さらに強く身体を動かした。
離すわけもない。
ざわめきは次第に嘲笑から困惑へと変わっていく。
壇上で不審げにその様子を見下ろしていた指揮官が僕へと視線を移した。彼は「何をしているのだ」と聞きたげではあったが、それを訊いた瞬間、優位性が失われると考えたのか、別の言葉を口にした。
「……どうした? 何か言いたいことでもあるのか?」
「……僕が一番槍を努めます」
「ほう」と指揮官は顎を撫でた。血気盛んな若者だと考えているのだろうか、侮るような、挑むような目つきをしている。「勇敢だな。名は何と申す?」
「レプリカ」
僕の一言に、広場が静まりかえった。指揮官さえ顔を強張らせている。静寂が三百人に浸透した後、堰を切ったように喧噪が強くなった。
「おい、レプリカって、あの?」「金の髪と隻腕だ」「『化け物』レプリカ、か?」「フーラァタを殺したっていう奴か」「馬鹿野郎、ただの噂だろ」
傭兵であるならば誰もが知っている人間が、三人いる。
「呼び水」ギルデンス、「雷獣」フーラァタ、そして、僕だ。
その中の一人、フーラァタが何者かに殺害されたという話は二年かけて傭兵たちの間に広まり、そして、大陸の西側から流れたその噂は中央部で別の噂と合致した。北の国との合同で行われた魔獣駆除の話だ。
魔獣が放つ魔法は一度発動したら首を落としただけでは止まらない。そのため、僕は心臓を貫くことに専念していた。その手口か痕跡かがフーラァタ殺しと重なったのだろう、僕がその犯人であるとされるには十分な状況証拠があるらしかった。
「お前が、あの?」
「信じられませんか? なら、証拠を見せてもいいですが」
捕まえている二人を一瞥すると彼らは「ひっ」と短い悲鳴を上げた。〈腕〉に彼らのもがく動きが強く伝わる。「やめろ」と指揮官が鋭い声を上げた。繕った冷静さが失われるのを見て拘束を解くと彼らは崩れ落ち、その場に尻餅をついた。
怯えが満ちた視線に、自己嫌悪が顔に出ないように努める。
ああ、なんて偽悪的な振る舞いだろう。
一介の傭兵である僕の言葉には価値がない。だから、行動で示す以外に方法を知らない。そして、今取った行動は力を認めさせるだけの理由が満足にあるようだった。軍の指揮官ともなれば魔力の流れくらいは視認できるのだろう、僕が魔法ではないおかしな力を持っていると信じたらしい。彼は苦々しい表情で「分かった、任せよう」と頷いた。反対する人間は誰もいなかった。
「それと、一つ、お願いがあるのですが」
「……なんだ?」
「敵が見えたら、僕のそばに来ないでください。半径十五エクタ」半径十メートルが僕の攻撃範囲だ。「その中に入ったら殺してしまうかもしれません」
多くの命を奪ってきたけれど、できれば仲間を殺したくはない。まだ僕の〈腕〉にはパルタの胸を突き刺した感触が残っている。
指揮官は笑みを引き攣らせて小さく顎を引いた。
〇
雨が降っていた。
細かい水の粒子は肌の上で身を寄せ合い、大きな水滴となって顎を伝う。
僕と指揮官を先頭に騎兵、歩兵と続く行進がボーカンチ解放軍の有する阻害魔法隊との交戦範囲に入るまではそれなりの時間がかかった。雨の中の行進は必然的に速度が落ちる。敵の姿を発見したのは草原の中央で本隊がぶつかり始めてから十五分程度送れてのことだった。
「本当に一人で行くのか?」
「言ったでしょう、邪魔です」
僕は馬上から飛び降り、雨除けのローブを脱ぎ去る。鎧は最低限の、革でできたものだ。武器は腰につけた小さなナイフ。傍目から見たら自殺行為にしか見えないだろう。
雨に貼りついた前髪を掻き上げて、脱いだローブを馬の背中に掛けた。寂しげに頭を垂れた馬を撫で、一歩前に出る。
「僕が道を開けます。敵陣が十分崩れたと思ったら来てください」
心の準備はとうにできている。ゆっくりと息を吸ってから、〈腕〉を平たく伸ばし、身体を包み込んだ。
地面を蹴る。風と雨が顔面にぶつかる。加速がついた僕の直進は馬の走りよりも速く、敵との距離はみるみるうちに縮まった。
前方で敵兵が大声で叫んでいる。ボーカンチとエニツィアは隣接しているだけあって、言語にほとんど違いはない。「来るぞ、構えろ」という鋭い声が僕の元にまで届いた。
構えたってどうにもならないのに、と僕は笑う。
この二年間で僕のサイコキネシスには様々な変化が生まれていた。良いことも、悪いことも、そのどちらでもないことも。
良いことは言うまでもない、操作性の向上と出力の強化だ。
きっちりと肉体に入り込んだ幽界認識器官は僕の意志に従って形を変えるようになった。槍となり、剣となり、巨大な腕となる。前よりもずっと強い力で敵をなぎ倒せるようになっていたし、身体に纏うことで人間にはおおよそ不可能な動きも可能になった。異なるベクトルの同時操作は未だ苦手だったが、工夫次第で補うことができる。
悪いことは融通が利かなくなったことだった。
フーラァタを殺したあのとき、僕の〈腕〉はどこまでも遠く伸びた。少なくともそう感じていた。けれど、今では十メートルが限界になっている。以前のように操作性を犠牲にして限界の先へと〈腕〉を伸ばすことはできない。おおよそ十メートル、それより先には一ミリたりとも前に進まないのだ。また、物質を透過することもできなくなっていた。
そして、良いとも悪いとも言えないこと――
切断された僕の右肩から伸びる〈腕〉は、輝かしい、朝露に濡れる若草の色合いではなくなっていた。染みこんだ血液が凝固したかのような、黒い色。僕はその色を見るたびに自分が『化け物』であることを自覚する。
その黒い〈腕〉を身体から引きはがして、地面へと叩きつける。振動が足の裏をくすぐり、水飛沫が飛び散る。接触式の魔法陣が発動する気配はない。雨で地面がぬかるんでいるからだろう、罠の魔法陣は刻まれていないことも考えられる。
だが、油断は禁物だ。
ボーカンチ解放軍は単騎で突撃する僕へと火球や矢を放ってきている。風を切る音と細かい蒸発音の連鎖。五十メートルほどまで近づいたと同時に〈腕〉を前方に展開する。それだけで攻撃は僕へと到達することがなかった。
雨霰と飛んでくる攻撃は、しかし、明らかな牽制に思えた。ボーカンチ解放軍は――弓はまだしも――魔法の研究が進んでいる集団だ。にも関わらず、僕へと向かってくる攻撃が明らかに少ない。五メートルも左を火球が通り過ぎ、四メートルも右の空間を矢が貫いていった。剣や槍で迎撃してくる兵もいない。
つまり――この雨に濡れた地面にどう仕込んでいるかは分からないが、僕と敵を結ぶ直線上に罠がある、ということになる。
僕は突き進んでくる矢を弾き飛ばし、もう一度地面を叩いた。水の粒子が輪となって跳ね、衝撃が揺れる。そこにわずかな違和感を覚えた。〈腕〉に伝わる感覚が間延びしている。
なるほど。
頭の中で二つ、取るべき行動が浮かんだ。迂回と直進、だ。
今襲ってくる程度の弾幕であれば迂回は容易だ。バランスを取りづらいとはいえ、サイコキネシスで身体を包めば姿勢制御は難なくできる。
だが、迂回するつもりは毛頭なかった。
戦争でもっとも有効な攻撃は恐怖を与えることだ。恐怖は粘性のある液体のように人の身体を絡め取り、鋭利な刃物のように連携を断ち切る。
では人間は何に恐怖を感じる?
理解できないもの、だ。落差が大きければ大きいほど、感情はより色濃くなっていく。
敵までおよそ二十メートルの地点に到達したとき、不自然な空白が生まれた。続いていた攻撃が一瞬、止まる。雨に霞んで見えにくいが、敵の先頭にいる弓兵の口角が歪んでいるような気がした。
どうやら予測は当たっているらしい。矢や魔力を節約するために攻撃の手を緩めたのだ。
その笑みを――引き攣らせてやる。
僕は思い切り〈腕〉を大きく広げた。幅四メートルほどになった手のひらを五メートルほど手前にある地面へと打ち付ける。
その瞬間、ぼこ、と何かが外れるような音がした。
目の前にある地面が、横長の長方形にくりぬかれたかのように沈んでいく。
落とし穴――などというものではない。それだけであるならば警戒する必要はないからだ。魔法などという超常の力で作るものが落とし穴程度のわけがない。
まばたきの間に地面の沈下が止まる、その一瞬、土と土の隙間から真っ赤な光が漏れた。罠が発動したのだ。地面の隆起が始まる。何もなかった空間に横幅二十メートルを超える巨大な土の壁が生まれた。
簡単な仕組みだ。
雨に魔法陣が消されるのならば、水が影響しにくい地中に陣を彫ればいい。土の魔法があるならばその面積の分だけ地面を掘り返すのは造作もない。
そして、わずかな空洞を作り、一定以上の加重が加わったとき沈み込むように地面を作り直せば罠の有無の判断は難しくなる。ただでさえ雨で視界が悪くなっている状況だ、一瞥しただけで看破できる者はほとんどいないだろう。
単純とは言え効果は高い。
分厚い壁があれば攻撃してくる経路も限定され、後ろからの援護もなくなる。もし、今も阻害魔法がエニツィアの部隊にかけられているのならばこれでほぼ勝負は決していたはずだ。
僕がいなければ、の話だけれど。
壁が出現してもなお、直進を続ける。壁の横や上を矢が通り過ぎていったが、もちろん、そんな場所を通るわけもなかった。僕は〈腕〉に思い切り力を込めて、壁に向かって突き出した。円錐状になったサイコキネシスの槍の前では土の壁などないものと同じだった。
ケーキのスポンジを抉るような柔らかな感触が伝わる。土飛沫が弾け、僕が通れる程度の穴が開く。
敵兵の困惑に満ちた声がふわりと浮き、雨に濡れて地面に落ちた。
「え?」
鋭く尖らせたサイコキネシスの剣は先頭に並んでいた弓兵、およそ十人の首を一斉に落とす。血液を噴き出しながら、首のない胴体が、めいめいばらばらに崩れ落ちる。悲鳴があたりをつんざく。その中に小さな声が混じっていた。
「……化け物」
ああ、そうだ、僕は「化け物」レプリカ。僕と関わった人は不幸になるんだ。
逃げ惑う敵兵の姿、言語的な意味を喪失した叫声。
頭の中に開放感と多幸感が渦巻く。脳内麻薬の分泌が激しい。心音が耳元で聞こえる。
混乱する敵部隊をまとめて切り裂く。槍へと変えて三人の胸を一気に突き刺して、横薙ぎに振るう。飛んでくる火球を掴み、投げ返したところで腹の底から笑いが漏れていることに気がついた。
「魔術師を守れ!」と敵の群れの奥で声がした。「エニツィアにこれ以上奪わせてたまるか」と。僕の目標はそっちだ。向かってくる敵兵たちを薙ぎ払いながら前進する。
そのとき、ずぶり、と脇腹に異物感が生じ、痛みと吐き気の混合物が喉元にせり上がった。身体が前に進まなくなり、転びそうになるのをなんとか堪える。視線を下にやると、槍が背中から脇腹を突き破っているのが見えた。
「あ――」
「やったぞ、たたみかけろ!」
振り向くと、僕と同じ歳くらいだろうか、槍を握っている男が手を突き出している。勇敢な顔つきだ。興奮で呼吸が荒くなっている。
「痛いだろ?」
その批難に、男は血走った目を丸く見開いて「え」と間の抜けた声を上げた。
〈腕〉を伸ばして彼を捕まえる。独りでに宙に浮く彼も、それを目にした敵兵たちも、いちように狼狽と呆然を露わにした。
彼の身体を前方に向けて投げ飛ばす。彼は敵の構えていた槍に突き刺さり、動かなくなる。衝撃と重さで槍を向けていた小隊が将棋倒しに後ろへと崩れた。
「……『化け物』だろうとさ、痛いものは痛いんだよ」
〈腕〉に刻み込まれた治癒魔法陣に力を送り込み、脇腹に当てる。
その瞬間、敵の動きが止まった。目の前で起きている光景が理解できないのか、彼らは呆けた表情のまま、僕の脇腹を凝視している。
この世界にいる誰も、僕の〈腕〉を見ることができない。だから、彼らには何が起きているか、分かるはずもない。
じゅくじゅくと再生していく僕の肉体――。
「今さら逃げるなよ。お前たち全員、この国の敵なんだろ?」
からん、と金属の音がした。どこかで誰かが剣を取り落としたのだろう。降りしきる雨の中に響いたその音が染みこみ、余韻が消えた瞬間、恐慌が爆発した。
悲鳴と怒号、誰もが僕に背を向けて逃げていく。捨てられた武器が蹴られ、ぶつかり、不思議なハーモニーが奏でられていた。最後尾にいた男がぬかるみに足を取られ、無様に転倒する。微笑みかけてやると、精神だけは逃走を続けていたのか、白目を剥いて気を失った。
陶酔が身体を支配する。〈腕〉は歓喜に震え、敵の背中を食い破る。
そうだ、これが、僕の「普通」だ。心が昂ぶる。人を殺すのが僕の普通。力を振るうのが僕の普通。何もおかしくはない。僕は間違った道を歩んじゃいない。
〈腕〉に染みこんだ血液がまるでアルコールのようにも感じられる。興奮と混ざり合い、僕の心は酩酊していく。
サイコキネシスを纏い、跳び上がる。
魔力が見えなくとも誰が阻害魔法の術士かは簡単に識別できた。人の壁の中心、動きにくそうな雨除けのローブを着ている奴だ。攪乱か、それとも何人も阻害魔法術士を揃えているのか、同じような格好した一団を見つけた。その中に一人だけ、こちらをじっと見つめている人がいた。
あの人にしよう。
僕は逃げ惑う敵の中央に着地した。絶叫がそこかしこで重なり、鼓膜が破れそうになる。反発する磁石のようにすべての敵兵が一斉に離れていく。忘我していたのか、ずっと僕を見ていた術士目がけて〈腕〉を伸ばし、身体を押さえつけた。
柔らかな感触――女だ。彼女は「嫌、嫌」と首を振り、前方で逃げる仲間へ向けて手を伸ばす。だが、その手を掴む者は誰もいない。もがく拍子に女が被っていたフードが外れた。黒く長い、濡れた髪が露わになる。
「誰か、誰か助けて、死にたくない、死にたくない!」
だが、ボーカンチ解放軍は振り返りもせず、彼女を見捨てた。「ねえ、なんで」と掠れた声が虚しく雨にかき消される。それから、彼女は再び、僕の方に視線を向けた。首を捻ってこちらを見る彼女の目には凝固した恐怖が見て取れた。
「お、お願い、殺さないで」
殺さないで、って言われても、戦場で男も女も関係ないから助ける理由もないだろ。
「やめて、いや、こんな場所で死にたくないの」
でも、お前はその力で人を殺す手助けをしてきた。お前のせいで死んだ人もたくさんいる。お前だけが助かるのは虫が良すぎる。
「ねえ、言葉くらい分かるでしょ、黙ってないでよ! ねえってば!」
「――あなたは」
「レプリカ!」
僕の名前を呼んだのは頭領だった。女を押さえつけたまま、首を回す。息を弾ませた頭領は僕と女を一瞥し、もう一度僕の名を口にした。
「レプリカ、もう終わりだ。大勢は決した」
「頭領さん」
「ほら、こっちに来い。そいつは生け捕りだ」
僕の力を知っている彼はきっちり十メートル離れて呼びかけてくる。それが僕――『化け物』と人との距離だ。今、押さえつけている彼女だけが僕を理解してくれる距離にいる。
「頭領さあん、なんで邪魔するんですかあ。これからじゃないですかあ」
「……これは殲滅戦じゃないんだ」
遠くからぼやけた破裂音が聞こえた。阻害魔法が消えたからだろう、本隊が雄叫びとともに押し返しているのが霞んで見える。
ああ、あそこならまだ敵がいる。あそこでなら僕を理解してもらえる。
この人を殺してそっちに――
「……ねえ、何とか言ってよ……」
恐怖で涙を流した女が消え入りそうな声を漏らす。彼女はずっと僕の目を見つめ続けていて、昂ぶった心が不意に冷やされていった。
「……さっさと殺せばよかった」
こみ上げてくる吐き気に嘔吐する。味蕾が胃酸に軋む。黄色がかった胃の内容物はびちゃびちゃと水浸しの地面に跳ねて靴を汚した。〈腕〉を畳み、その場を離れる。
……ああ、雨が冷たい。
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