50 強さの代償

 馬が雪を踏む音で目を覚ました。

 鈴のような音色と地を叩く低音が規則正しく揺れている。硬い床板では熟睡までいかなかったせいか、頭の奥に痺れにも似た重みが残っていた。だが、一度気にすると、音は鼓膜に貼りついたように消えない。再び目を瞑る気にはなれなかった。

「おはよう」と言ったのはベルメイアだった。厚い布でできた幌が日の光を遮っているため馬車の中は薄暗かったが、彼女の手元にある魔法石が燐光を発している。どうやらベルメイアはその灯りで本を読んでいたらしい。「おはようございます」と返すと彼女はそばに置かれていた水袋を手渡してきた。受け取り、礼を言って、一口飲み込む。冷たさが身体に浸透し、幾分か眠気が紛れた。


「今、どのくらいですか?」

「もう昼時近いわよ。もうすぐ小休止だって」

「そうですか」と言って、僕はベルメイアの手元を見る。本は彼女の拳ほど分厚いものだった。「ベルメイアさまは勤勉ですね」

「なによ、起きてすぐお世辞?」

「そういうわけではないんですが」

「あたしだって魔法の練習したいわよ。でも、できないし、本を読むくらいしか暇を潰せないじゃない」

「何かお話でもしましょうか。娯楽小説も僕の頭の中に入ってますけど」

「嫌よ」と彼女は歯を剥き出しにして拒んだ。「これまでニールの喋った物語、全部よくわからないし、大体途中で終わっちゃうじゃない」


 ああ、そうだった。少しずつ頭が回り始める。今まで、僕は何度も記憶ストレージに入っている物語を読み聞かせたことがあったが、その大体が例の文字化けで完結前に終わってしまっていたのだった。

 内容もこの世界に文化に沿ったものなどない。なまじ勤勉で頭がいいものだから、ファンタジー小説を読んだところで鋭い指摘が帰ってくる始末だった。


「寝ぼけてるなら外に行けば? 風に当たってしゃきっとしなさいよ」

「そうします」


 答えながら周囲を見回す。ベルメイア、フェン、若い護衛の姿しかない。ということはアシュタヤとヤクバが御者台にいるのか。あまり見ない組み合わせだな、と思いながら僕は立ち上がった。

 ゆっくりと幌の前方を開ける。

 その瞬間、呻き声を上げそうになった。差し込んできた陽光は強烈で、雪の照り返しも相まって目が眩み、よろける。手で庇を作り、目が慣れるのを待っているとヤクバとアシュタヤの、音量の違う笑い声が聞こえた。


「まだ馬車に慣れていないな、ニール」

「おはよう、ニール」

「ああ、おはよう」

「眠れた?」

「思ったよりは」


 僕はヤクバがいるせいで狭い御者台に腰を下ろし、空を見上げる。雲一つない、快晴の空。太陽が高い位置にあった。

 空気は冷たいが、陽光の暖かさが身体に染みていく。身体の中の氷が溶かされていくような感触が滲んだ。身体中に満ちていた眠気が光の当たっていない背中側に集まっていくようで、発散すべく、大きく伸びをする。


「振動、あまり感じないね」


 メイトリン以北の街道は整備が万全ではなく、馬の負担も大きいと聞いていたため、安堵とわずかな拍子抜けを感じていた。例年にないという積雪が地面を平らにしているのだろう。メイトリンで足止めを食ったときはやきもきしたものだが、良い影響もあったものだ。続いている晴れのおかげで足を取られるほど深くもない。


「おかげで馬も鼻歌を歌えるくらい楽だ」


 ああ、馬がラクダ、馬がラクダhorse can melodize。笑えない駄洒落に僕は一人で息をつく。様子を変に思ったのか、アシュタヤが訝しげに見つめてきていた。


「そういえば、ニール」とヤクバが前を見据えたまま、言う。「お前、魔法使えるようになったんだって?」

「え」アシュタヤが目を丸くする。「本当に?」

「あれを使えたと言えるなら、子どもも一流の料理人と呼べるかな」

「ひねくれ者め。素直に喜べばかわいいのに」

「ヤクバにかわいがられてもしょうがないよ」

「ね、ねえ、ニールどういうこと?」


 アシュタヤは僕との間にヤクバがいるのがもどかしそうに身を乗り出す。危ないですよ、とヤクバに宥められて、姿勢を戻したが、そわそわとしているのは誰の目から見ても明らかだった。


「もしかして魔力に目覚めた」と言ったアシュタヤの言葉をヤクバが継いだ。「っていうわけじゃないな。相変わらず空っぽだ」

「なら、どうして」

「うーん……説明は難しいけど、魔力を使わなくても陣を用いれば魔法を使えるんだよ」


 ぴくり、とヤクバの眉が動いた。彼は「ふうん」と興味深そうに唸り、横目で僕のことを舐めるように見つめてきた。アシュタヤは禅問答を出されたかのように険しい顔をしている。

 彼女に理解できるだろうか。

 アシュタヤに超能力を教えてきたのは僕だ。けれど、その僕ですらジオールの説明を聞いて完全に理解できたわけではない。下地になる知識も僕と彼女ではかなりの差がある。

 アシュタヤは期待を充満させた瞳を僕へと向けた。魔法を使えないことで何度も憂き目に遭っているからだろうか。男女の別なく絶大な力を発揮できる魔法は彼女が求める力の一つかもしれない。

 どこから話せばいいか迷っていると、ヤクバが催促するように手綱を振るった。


「ニール、俺も聞きたい」

「いいけど」と僕は返すが、あまり気乗りはしなかった。「ヤクバ、理解できないかもしれないよ?」


 魔法、とはいえ、この裏技は超能力の理論に則ったものだ。僕が正規の魔法を使う感触を知らないように、ヤクバは超能力の感触を知らない。

 躊躇っているとヤクバはわざとらしく険しい顔を作り、僕を威嚇した。


「なんだ? 俺を馬鹿にしてるのか?」

「馬鹿にしてるわけじゃないけど、ほら、だって、幾分残念じゃないか、外も中も」

「よし、ニール降りろ。稽古をつけてやる」

 僕とヤクバのやりとりにアシュタヤがくすりと笑う。「ねえ、ニール、ヤクバさんは賢い人よ」

「さすがアシュタヤちゃん、分かってらっしゃる」

「皮肉だよ」

「皮肉じゃないわ」

「え?」聞き間違いかと思い、僕はアシュタヤを見つめた。真っ直ぐな瞳には嘘を吐いているような気配はなく、狼狽する。「どういうこと?」

「どういう、って言ったとおりよ。もしヤクバさんが真面目に勉強したら官吏にだってなれるとウェンビアノさんも言っていたのよ?」

 褒められた張本人のヤクバが馬鹿みたいに口を開けて笑った。「真面目じゃないからなれやしないんですがね」


 僕も、ぽかんと口を開ける。

 ヤクバが? この、あの、ヤクバが?

 一向に信じられず、僕はヤクバを睨む。文字を習おうとして、読み書きができる娼婦を探すような人間だ。とてもじゃないが、知性は感じられない。が、いつもの落ち着き払った態度が脳裏に浮かび、次第にそれが凡人には理解できない知性を元にした行動なのではないか、という疑念へと変わりかける。

 いやいや、そんなはずはない。

 僕は頭を振って、もう一度ヤクバを見る。やはり、禿げた好色の、厳つい男だ。知性などいつかの船旅で落としたか、飲んだ酒とともに尿として排出されたに決まっている。

 そう断じてみるものの、アシュタヤの「ねえ、聞かせて」という声に負け、ヤクバにも分かるように基本的な超能力の知識から説明を始めることにした。


     〇


 休憩を取り、腹を満たし、馬を休ませた後、二台の馬車は再び出発した。フェンが御者を請け負おうとヤクバに声をかけたが、ヤクバは拒否したため、御者の変更はなかった。「珍しい」を通り越して不審だったのか、フェンは訝ったが、アシュタヤが間をとりなしたことでそれ以上の追及をやめた。


「別に馬車の中で話せばよくない?」

「いや、あまり他には」


 ヤクバは幌を一瞥し、苦い顔を作った。


「何か問題でもあるの?」

「……フェンさんが聞いたら馬車を止めて会議が始まる。ベルメイアちゃんが聞いたら話の腰が折れる」それからヤクバは若い護衛の男の名――キーンとロディのロディの方だ――を挙げ、「あいつが聞いたら明日の晩には隣の国まで知れ渡っている」と顔を顰めた。

「ロディさん、そんなに口が軽いの?」

「一緒に酒を飲んでみろ、抱いた女の数すらばらされる」

「それは正直に教えたヤクバが悪いんじゃない?」

 ヤクバは豪快に笑ったあと、「まあ」と顔を引き締めた。「魔力なしに魔法を使う、ってのはお前が思っているより大問題なんだよ。横槍の入らないところでじっくりと聞きたい。フェンさんには今夜にでも伝えておけばいい」


 そんなやりとりを終えて、御者台の上、だ。絶え間なく続く蹄のリズムに揺られながら、僕は超能力の基本的な理論から始め、ジオールから聞いた魔法理論の話まで一息に説明した。アシュタヤは頭から湯気が出るほどに考え込んでいたが、ヤクバは興味深そうに唸っているだけだ。途中で居眠りをするのでは、と心配していただけに、彼の表情に驚嘆しそうにもなった。


「その、『平面葡萄』っていうのは、比喩、でいいんですよね?」


 アシュタヤは身体が傾くほどに首を傾げている。彼女がそれほど悩む姿も珍しく、僕は思わず噴き出す。すると、彼女は不満そうに頬を膨らませた。


「ごめんごめん、……でも、そこ当たりは僕も概念的にしか理解してないから別に気にしなくてもいいよ。余計な説明だったかもしれない」

「アシュタヤちゃん、こういうのはすべてを無理に理解しようと悩まない方がいい。分かることだけ噛み砕いていけば楽だぞ」

「そういうヤクバは分かってるの?」

「概略はな。要は、超能力が魔法を引き起こす鍵になるってことだろう?」

「まあ、そうだね」と認める。平たく言えば、そういうことだ。

「で、そこには詠唱を持ち込めないから、魔法陣で対応する、と。それだけで十分だ。つまるところ、鍵の材料がなければ鍵は作れない、ってことだな」

「私には無理、ということでしょうか」


 心なしかアシュタヤの声のトーンが落ちているが、僕には答えられない。この理論は僕が苦悩して編み出したものではないからだ。ジオールがいれば的確なアドバイスも与えられるのだろうが、期待できるはずもない。

 気落ちするな、と言うのもどこか上から目線の言葉に思え、僕は話題を変えた。


「でも、ヤクバはどうしてこんな話、聞きたがったの?」


 魔法を使えるヤクバには関係ない――とそこまで考えて、僕はセイクのことを思い出した。

 彼は魔法を使えない。今でこそ悩んでいるような印象はないが、かつては強い劣等感を覚えていたとしてもおかしくはなかった。ヤクバがセイクのために魔法を使う術を知りたがるのは自然でもある。

 そう考えたのが伝わったのか、ヤクバは静かに首を振った。


「興味本位だ。セイクのため、じゃないぞ」

「照れ?」

「まさか。むしろ、俺はあいつは魔法を使うべきじゃない、と思っている」

「なんで?」あれだけ強いのだ、もし魔法を使えたらフェンに及ぶ可能性もある。「使えるないより、使えた方がいいんじゃないの?」


 僕の問いに、ヤクバはもう一度、首を横に振った。迷いなどない、強い信条を感じさせる否定だった。


「いや、あいつは魔法を使えない方が強い。魔法は万能の兵器じゃないからな」

「でも」と食い下がるが、アシュタヤに遮られる。

「阻害魔法、ですか?」

「まあ、それも一つですね。今後もっと阻害魔法が発達したとき、頼りになるのは体術に優れた人間でしょうから。ただ……あいつの強さはそこじゃない。剣と身体だけしかないのを自覚して研鑽する向上心と、魔法を恐れない勇気、ですよ」

「向上心と勇気」とアシュタヤは噛みしめるように繰り返す。

「だから、アシュタヤちゃんも、ニールも、肝に銘じた方がいい。この世界には一朝一夕で手に入れられるような強さなんてない。もし、そんなものがあったら……何かを失う」


 いつものヤクバらしくない、神妙な雰囲気に僕は言葉を発せないでいた。彼はひたすらに前を見澄ましている。その顔が、段々と歪み、おや、と思った瞬間、ヤクバは噴き出し、豪快に笑った。


「なんて、偉そうにしたけど、簡単に強くなれるならそれに越したことはないわな」

「いえ、箴言でした」とアシュタヤが微笑む。「魔法が使えるかどうかわかりませんが、努力したいと思います。ね、ニール、後でもっと詳しく教えてくれる?」

「う、うん」


 答えながら、僕は悩む。

 強さが時間をかけなければ手に入れられないものであるならば、それまで僕はどうしたらいいのだろう。満足できる力を得るまで他人に守ってもらうしかないのだろうか。

 敵は待ってくれないことを知っている。ただ、ヤクバの言うとおり、代償なしに強さを手に入れられる術はない。僕にできることは、せめて努力は足し算ではなく、かけ算であることを祈り、鍛錬に励むことくらいだった。


     〇


「何かこそこそと話し合いをしてたようだが、何だったんだ?」


 若い護衛の男、ロディと交代して御者台を降りた僕たちにフェンは穿つような視線を送ってきた。後ろめたいことなど話していなかったとは言え、背が竦みそうになる。ヤクバは本気なのかおどけているのか、身体を小さくして、僕の後ろに隠れようとした。が、隠れるわけもなく、フェンは視線はより鋭いものになる。

 おそらく、酒に関する悪巧みだと思われているのだろう。メイトリンで断りもなく客邸を抜け出した僕たちはこっぴどく叱られていたからだ。アシュタヤですら、だ。あの一件がある以上、フェンがこそこそしている僕たちを見て黙っているはずはなかった。


「で、何を話してた?」

「あの、フェンさん、決して怒られるようなことでは」

「アシュタヤさま、では何を話していたのか、聞かせてもらえますか」


 隠す気など毛頭なかったが、こうも迫られると萎縮してしまう。それはアシュタヤも同じだったらしく、彼女は隣にいる僕ですらうっすらとしか聞こえないような音量で「……魔法です」と呟いた。案の定、フェンには届かなかったらしく、彼は「もう一度お願いします」と語気を強めた。


「魔法のお話、です!」


 アシュタヤのやけっぱちな声に驚いたのか、隅で丸まり、寝息を立てていたベルメイアが眠りで濁った呻きを上げた。びくり、とヤクバが大袈裟な反応をする。だが、ベルメイアが起きる気配はなかった。

 ヤクバが盛大な溜息を漏らす。それを見たフェンが目つきを変えた。


「ヤクバ、陣の話だったのか?」

「まあ、概ね」

「すまん」フェンは溜息とともに謝る。「悪かった。アシュタヤさまも申し訳ありません」


 僕はアシュタヤと目を合わせ、無言で「何か知っているか」を問い合う。だが、やはり、彼女が何かを知っている様子はなく、彼女も僕の態度から同じ印象を受け取っていたようだった。


「フェン、魔法陣の話がどうかしたの?」

「ああ」フェンはベルメイアを一瞥し、嘆息する。「俺が魔法陣を彫ったせいでベルメイアさまが興味を持ったようでな」

「魔法陣に、ですか?」

「ええ。このくらいの年の子どもにはよくあることなんです。詠唱を省略して魔法を使えることが手っ取り早く映るんでしょうね。代償の大きさも分からず」


 フェンの袖の端から、入れ墨が覗いている。バンザッタを出発する前に彼自身が彫った魔法陣だ。彼はその痛みを思い出したかのように腕を撫で、顔を伏せた。

 魔法陣は彫る際に耐えきれないほどの激痛が伴う。実際、痛みに屈し、施術を途中で終了するものも少ないという。そうなったとき、残るのはただの傷だ。また、実際に魔法を使う際も痛みが迸る、とフェンは語った。

 見ただろう? と問いかけられる。魔法陣を使ったときの発光を、と。

 僕の頭に真っ先に浮かんだのは初めて魔法陣をこの目で見た「水渡り」での「真偽判別」だった。赤く発光する魔法陣。魔力を持たない僕にも、何かが巡っているのを感じた。

 そして、ギルデンスやフーラァタの身体に刻まれた魔法陣。ギルデンスの皮膚は何度も線をなぞったように抉れ、フーラァタの腕はケロイド状になるまでに焼け焦げていた。


 そういえば、魔法陣を彫ってからのフェンの腕を見たことがない。僕がフェンの腕に視線を送ると、彼は静かに息を吐いて、袖を数センチメートルだけ、捲った。

 そこにあったのは浅黒い、日に焼けた彼の肌ではなかった。黒ずみ、歪に硬化した、岩のような皮膚。

 唾を飲み込む音が聞こえた。遅れて、その音が、自分の喉から発せられたものだと気付く。


「だから、彼女には魔法陣の話を聞かせたくなかった。ましてや、魔法陣が人の獣性を高める、という噂もある」

「獣性?」

「魔獣がそうでない獣と比べて獰猛なのはその副作用、という話だ。確証はないがな。当然、そうならなかった人間もいる。……それを踏まえて、ニール、話してみろ。今夜、でいいか?」


 フェンもまた、強さを求めて代償を払った人間の一人だった。それを知った僕はなんとか頷く。頷くことしか、できない。

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