40 ニール・オブライエン(2)

 僕の長い話が終わると部屋の中に沈黙が満ちた。

 無理もない。この世界で生まれた彼らが科学技術を簡単に理解できる方がおかしい。一度、アシュタヤにクローンの話をしたことがあった。収穫祭のときだ。僕自身の話として、ではなく、そういう技術があるのだ、という話ではあったが、やはりそのときも彼女は眉に唾をつけて聞いていた。


「人の複製、か」ウェンビアノがぽつりと呟く。「何という途方もない話だ」

「魔力がないのももしかしたらそのあたりが関係しているのかもしれませんね」


 僕は殊更に明るく振る舞う。

 かつて、ヤクバは言った。「ちゃんと神の祝福を受けてきたのか?」と。

 人が神の生み出した造形物であるならば、僕は人ではない。人が生み出した、まがい物だ。

 クローン禁止法――、それは宗教的価値観の元に作られた法律だった。人間が生命を造ってはならない、という価値観。

 それを破った罪人たちが生み出した人のレプリカ。

 神が僕に対して祝福を授ける理由などあるはずがなかった。


「でも」とアシュタヤが立ち上がる。「それに何の関係があるの? ニールはニールじゃない! そうでしょう?」

「……そうだね」


 僕は頷く。何の躊躇いもなくそう言いきる彼女の優しさがありがたかった。


「きみたちにとってはそうかもしれない。そして、ジオールにとっても……。ジオールはたぶん、僕のことを未だに自分自身だと思っている。だから、僕の状況に納得していなかったんだ。ジオールが重要な仕事についてからはあまり交流がなくなってしまったけど、彼はずっと僕のことを心配していたよ。愛していた、と言っても過言ではない」


 そんな彼のことが――本当に嫌いだった。

 浅はかな劣等感なのかもしれない。

 けれど、弱い僕には耐えることができなかったのだ。同じ遺伝子情報を持っているというのに、彼は成長し、僕は停滞した。彼から優しい言葉をかけられるたびに僕の中に渦巻くどす黒い塊が揺れた。


「だから、きっとジオールは僕を無理矢理にでも連れて帰るつもりなんだと、思う。彼はこの世で最高の超能力者だ。抵抗しない方がいいのかも、しれない……」


 一度だけ、彼が超能力、サイキックを扱ったのを見たことがある。

 眉一つ動かすことなく発火能力や氷結能力を行使した彼に、僕はある種の恐怖を覚えた。同じ人間とは思えなかった。きっとみんなもその姿を目の当たりにしたら同じように感じるだろう。超能力には詠唱がいらない。そのくせ、彼の力は規格外だ。魔法よりもよっぽど魔法のようでもある。


「……ニールはそれでいいの?」

「……っ」


 アシュタヤの言葉に心臓が跳ねる。

 良いわけがない。

 だが、どうしろというのだ? ジオールにとって今の僕の意志など関係がない。僕の固い決心を一時的な気の迷いと切り捨てることなど彼には造作もないはずだ。

 それに、と僕は俯く。

 ジオールは僕一人を連れて帰るためだけに、この場にいる全員を容赦なく傷つけるだろう。彼はそういう人間だった。目的を達成するためならば、関係のない人間がどうなろうと知ったことではない。今まで僕たちを蔑ろにしてきた周囲の態度が彼をそうねじ曲げてしまった。

 他人の気持ちなど思いやらなくてもいい、結果さえ獲得してしまえばそれでいいのだ、と。


「僕は……僕は! ……ここにいたい、けど」


 そうすることでみんなを傷つけるなら――。

 そう言おうとした瞬間、フェンが僕の言葉を遮った。


「お前がそう思うなら、それが正解だ」彼はじっと僕を見つめたまま、続ける。「俺とお前が出会った翌日のことを覚えているか?」


 忘れられるはずがない。

 フェンとウラグに連れられてバンザッタに足を踏み入れた僕は、ウェンビアノの職業斡旋所で超能力の存在とその力を明かした。懐に置いておくだけの価値がある、そう考えてもらうために、だ。

 その後、フェンはお返しのように魔法を披露してくれた。乗馬の訓練をしていた農場で、彼は僕にもぎりぎり理解できる平易な言葉でこう言った。

 記憶の中と目の前にいるフェンが同時に口を開く。


「『どうなっても良いように協力しよう』……と、俺はそう言った。そして、お前は今、ここにいたい、と答えた。かつての世界の人間が訪れてもなお、だ。……きっとお前は今までずっと多くの忍耐を強いられてきたのだろう。自分の心を押し殺し、生きてきた。そのお前がこうして心に従った言葉を発しているんだ。俺たちがそれを見捨てられるわけがないだろう」

「でも、フェン、……僕はみんなを危険に晒したくないんだ」

「ニール」ウェンビアノが苦笑交じりに言う。「あれだけ図々しく、自分を守ってくれ、と言ったお前はどこへ行ったんだ?」

 カンパルツォが腕を組む。「おれもお前と約束をしたしな。守る、とバンザッタで言っただろう?」

「あたしはニールが何言ってるか、ちんぷんかんぷんだけど」ベルメイアは顔を顰め、気味が悪そうに吐き捨てた。「そうやって束縛するのが愛、ってちょっと嫌だわ」


 不意に室内に笑い声が満ちた。

 まだ大人ではないベルメイアが愛についての所感を述べたからだろうか。彼女は「なんでみんな笑ってるのよ!」と顔を赤らめ、ふん、とそっぽを向いた。

 きっと全員、的外れな物言いを嘲っているのではないのだ。

 それが一つの真実だから、笑わずにはいられないのだろう。

 ベルメイアにもわかっているのに、お前はわからないのか、ニール、と。


「ニール」


 笑い声の最中、アシュタヤが僕に語りかける。


「あなたが思うなら――ここがあなたの世界よ。……あなたがそう信じる限り、この世界ではあなたが唯一のニールなの」


 言葉を失う。

 僕が今まで何よりも欲していたもの――それは「自分」だ。何にも関連づけられることのない、独立したニールとしての存在。

 ここには、それがある。

 心を決めろ。

 僕の世界でもっとも重要なのは僕自身だ。

 そっと目を瞑り、十七年間と二ヶ月半を天秤にかける。どちらに傾くかなど考えるまでもなかった。


「僕は――ジオールたちとは一緒に帰らない」


 ここが、僕の世界だ。


     〇


「それが、お前の答えか」


 翌日、僕の答えを聞いたジオールは寂しそうに笑った。一瞬、視界が白に満ちる。色のない、強烈な光。ジオールが幽界に接続した証拠だった。

 海を臨む往来の多い道。忙しそうに歩く人々は道の中央で立ち止まった僕たちを訝しげに睨んでいる。船着き場では屈強な男たちが船から荷を運び出していて、沈黙とはほど遠い状況にあった。

 僕の後ろには十一人の仲間がいる。武器を手にした彼らは僕の意志の表れに他ならない。


「お前、正気かよ。こんな文明の遅れた場所に」バルトの声色は、理解できない、とでも言いたげに揺れている。「ジオールさんがわざわざ来てくださったんだぞ」

「バルト、きみには関係ない。黙っててくれ」

「……あ?」


 バルトの眉間がぴくりと動く。今まで何一つ抵抗したことがない僕が口答えしたのがよほど勘に障ったのだろう、怒気を隠そうともしていなかった。


「きみはずっと僕を蔑んでいた。僕はずっと耐えていた。それはきみが怖かったからじゃない」


 強がりでも何でもない。

 僕が抵抗しなかったのはそう教えられてきたからで、また、刑罰装置と能力拘束具によって力を抑えつけられてきたからだ。今ではある程度の暴行で刑罰装置が作動しないことを分かっているし、人並み程度にはサイコキネシスを操ることができる。バルトがいかに器用にサイコキネシスを使えようが、僕の力の強大さの前には何の役にも立たない。

 ましてや、僕はこの世界に来てから、彼のちっぽけな自尊心を満たすための暴力とは比較にならないほどの暴力を経験していた。

 敵は僕を殺そうと刃物を振り上げた。魔法を詠唱した。ギルデンスと比べたらバルトなどいかに矮小な存在だろうか。


「バルト、きみには何の決定権もない。そうだろう? 僕はジオールと話しているんだ。……もし不服なら――前みたいにかかって来いよ。ジオールが許してくれるんならね」


 意味のない挑発ではなかった。

 これは決別の儀式だ。惨めなニール=レプリカとの決別。あの頃の僕ではない、とジオールに誇示し、自分自身にもそう言い聞かせるための一歩だった。

 僕はちらりとジオールを見る。それとほぼ同時にバルトもまたジオールの顔色を窺った。


「……テレパスは苦手だから言葉にして欲しいんだけどな」とジオールは頭を掻く。「まあ、いいや。ニールの成長も見たいし、バルトくん、きみがとっちめたいならやってもいいよ。結果は見えてるけどね」

「許可が出たぞ、どうするんだ?」

「……後悔するなよ」ジオールの前だからか、バルトは怒りを押し殺すような声を出した。「いつもみたいに無様に這いつくばらせて、そのまま連れて帰ってやるよ」


 何が連れて帰ってやる、だ。

 バルト、きみの考えを当ててやろうか。

 きみの目的は僕を連れて帰ることそのものではない。僕を連れて帰ったことで得られる功績だとか、そんなちんけなものだ。

 なら――残念だったな。がきみ得られるのは不名誉だけだ。

 僕は一歩前に出て、仲間を下がらせる。「いつもみたいにやってみろよ」と強く言い放った。


     〇


 勝負は一撃で決まった。

 直立不動のまま、僕を睨みつけるバルトの脇腹から赤色の光が漏れる。その光は四つに分かれ、僕の足下へと滑り込んだ。

 ああ、と喉から声が漏れる。

 なんて、遅い。

 彼はサイコキネシスをちゃちな暴力にしか使ってこなかった。僕は違う。僕が今まで敵に対して行ったのは暴力ではない。

 攻撃だ。

 いたぶるための余裕ぶった力と、守るための必死な力ではまるで素早さが違う。

 僕は彼の赤い〈腕〉が届く瞬間、右に跳ねる。それまで僕がいた空間でバルトの細く小さな〈腕〉が揺れる。


 それくらいは予想していたのだろうか。バルトの〈腕〉が跳んでいる僕めがけてそろそろと這ってきた。小ずるい盗賊のようなふてぶてしさと姑息さを感じさせる速度だった。

 見くびるな――。

 僕は跳び上がったその姿勢のまま、〈糸〉を幽界へと繋げ、右腕を強く振るう。光の強烈さにぽかんと口を開けたバルトは、猛烈な勢いで突き進む僕の〈腕〉にあっけなく弾き飛ばされた。

「がっ」と、狼狽と苦悶が半々の濁った息が彼の口から漏れる。僕が着地する瞬間には赤い〈腕〉は雲散霧消していた。

 バルトの身体が二度、地面を跳ね、止まる。


「で、でめえ」


 鳩尾に叩き込んだせいか、彼の声は滑稽なほどに歪んでいた。


「バルト、わかったでしょ?」強い屈辱を放ってくるバルトを見下ろし、近づく。「きみが知っている僕はいない。それとも油断していた、って言い訳する?」

「レ、プ、リカあああぁあ!」


 バルトの形相が歪む。もはや取り繕う余裕もないようだった。

 彼の〈腕〉が直線的に向かってくる。だが、怖くはなかった。躱し、捕まえ、投げ飛ばしさえすればそれで済む。

 僕の〈腕〉がバルトを捕まえようとした――その刹那、彼の身体は宙高く浮き上がった。


「なっ」

「ニール」眉尻を下げたジオールが肩を竦める。「この辺にしておこう」

「……ジオール」


〈腕〉を畳み、彼を睨む。だが、ジオールはその視線を受け流し、優しく微笑んだ。


「やっぱりお前は順調に僕と同じ道を通っているみたいだ。少し遅れがあるみたいだけど、それもご愛敬、ってとこかな」

「……ジオール、僕はきみとは違う」

「いいや、同じさ。だから、考えも手に取るようにわかる」

「じゃあ! ……じゃあ、僕が本気かどうかもわかるだろ!」

「わかるよ。今、お前が抱いているそれは、情に絆された気の迷いだ」

「違う!」


 きっかけはそうかもしれない。だが、得てしてきっかけなんて大したものではないではないか。

 今、僕がアシュタヤたちと一緒にいたい、という気持ちに嘘はなかった。


「僕はあの世界にいたくないからここに残りたいんじゃない! ここにいたいから残るんだ!」

「お前は虐げられ続けた世界から逃げ出しているだけだよ」


 ジオールは冷たく言い放ち、宙に浮かせたバルトをみやる。余程強く握りしめているのか、バルトは苦しそうにもがいていた。


「……帰ったら、お前が何一つ苦しむことのない環境を提供しようと思っている。僕はね、ニール、それを言葉ではなく、態度で理解してもらうためにバルトくんの同行を受け入れたんだ」


 何を言っている――そう訊ねようと口を開いた瞬間、地上三メートルほどの高さに浮いているバルトの悲鳴が轟いた。

 その声量に思わず身構え、僕は彼へと視線を移す。


「あぁあああッ! ジっ、ジオールさん、何を」


 ぎりぎりとジオールの光がバルトを締めつける。聞こえるはずもないのに、肉が潰れ、骨が軋む音が聞こえた、気がした。


「何を、って、きみは馬鹿だなあ。決まってるだろう?」


 ひゅるり、と僕の喉から奇妙な息が漏れる。背筋に冷たい汗が這う。

 ジオールがバルトへと向けた視線は冷たい憎しみでどろりと淀んでいた。


「ニール、僕はきみが憎むすべての人間を排除する。彼はその手始めだよ。お前もバルトくんが嫌いだろう? ここでなら事故で済ませられる……殺してあげるから、一緒に帰ろう?」


 ひっ、と頭の上から悲鳴が降ってきた。

 同時に僕も気がつく。

 ジオールは本気だ。

 僕と違って、彼は政府の中枢たる立場にある。理性的な人間の象徴――、だからこそ、彼には刑罰装置がつけられていない。そして、本来人間が持つべき倫理的なブレーキは既に失われている。

 彼の言葉に偽りがないのは火を見るより明らかだった。


「ジオール!」情けない声で叫ぶ。「僕はそんなこと望んでない! やめろ!」

「ジオールさん! やめ、助け、がっ、あああああ!」

「それに、僕は忠告したと思うんだ。……『レプリカと呼ぶな』って」


 ぼきり、と乾いた音が聞こえた。

 バルトが喉の肉を削りとるような悲鳴を上げる。

 奇妙な方向に曲がるバルトの腕――、いつの間にか僕たちを囲んでいた野次馬たちがざわつき始めていた。


「ジオール、やめろ!」

「ニール、あいつらが作り上げたくだらない倫理観に縛られるのはもうやめろ。僕たちはあいつらとは違う生き物なんだ」

「ジオール!」


 バルトに同情したわけではない。だが、僕の身体は勝手に動いていた。

 畳んでいた〈腕〉をジオールへと伸ばす。

 若草色の〈腕〉は空気を断ち、ジオールをなぎ倒そうとする。

 しかし、すんでの所でぴたり、と動きを止めた。

 ジオールの左肩から伸びた白い光ががっちりと僕の〈腕〉を掴んでいる。引こうとしたが、びくともしなかった。

 ばきっ、と再び骨が折れる音。それに覆い被さる苦悶の声。


「ジオール!」


 超能力がだめなら腕ずくで――そう思ったが、今度は身体が動かない。気付かぬうちに僕の身体にもジオールの白い光が絡みついていた。

 誰か、ジオールを止めてくれ――。

 そう思った時、鞘走りの音がするりと耳元に忍び込んだ。

 視界の端で、疾走する影が見える。野獣のような速度。あっ、と声を上げる間にフェンはジオールへと肉薄し、曲刀を喉元に突きつけていた。


「フェン!」

「これはニールがお前たちと決別する儀式だと考えて黙っていたが、もう我慢ならない。……その〈腕〉を引っ込めろ」

「……フェンさん、って言ったかな。随分と強いみたいだ」


 ジオールは切っ先をちらりと見て、表情を緩めた。少し動けば喉の肉を切り裂くような距離に曲刀があるというのにいささかも動揺していない。


「でも、だめですよ、邪魔しちゃあ。なあ、ニール、お前もこの人に言ってくれよ」

「ジオール、僕はさっきから言っているじゃないか! バルトを離せ!」

「うーん……話がまとまらないな……面倒になってきた」


 ぞくり、と背筋を嫌な汗が伝った。

 それはフェンも同様だったのかもしれない、彼は咄嗟に飛び退き、同時に短く詠唱を始めた。

 ぐらり、とジオールの身体が揺れる。


「お、お、すごいな、これが魔法か」


 ジオールの足首が地面へと飲み込まれていく。彼は目を丸くして、足下をじっと見つめた。足に力を入れているようだったが、脛のあたりまで埋まっているせいか、土はびくともしない。


「ああ、ちょっと、これは興味が湧いてきたな……」


 彼がそう言った途端、僕を縛り付けている力が消え去った。どさり、とバルトが地面へと落ちる。ぐっ、と短い呻き声を漏らして、バルトは力なく横たわった。


「よし、ニール。今回はお前の意見に従おう。まあ、どうせバルトくんが今後僕たちに盾突くとは思えないしね」


 安堵とわずかな疑問が胸の奥底に去来する。突き刺さるような視線でバルトが僕を見ていたが、そんなことはどうでもよかった。

 ジオールがこうも簡単に自分の意見をねじ曲げるなんて――。

 僕の不安をよそに、彼は続ける。


「ねえ、フェンさん。代わりと言ってはなんだけど、僕にその魔法とやらを教えてくれないかな?」

 フェンは曲刀を構えたまま、返す。「……何を言っている?」

「だからさ、バルトくんとあなたたちを殺さないかわりに、その技術を教えてくれって話だよ。その人数と戦ったら僕も無事で済む自信がないしさ……」

「ジオール、何のつもりだ? この人数相手に勝てると本気で思ってるのか」

「勝てるとは思ってるよ。超能力の原動力は信じる力だ、知ってるだろ?」

「それは……」と言い淀む。


 僕は否定することも肯定することもできなかった。

 ジオールの力と躊躇いのなさは僕がいちばん知っている。生半な強さでは彼に敵うものなどいないだろう。きっと魔法があるこの世界においてもそれは同じだ。

 しかし、とも思う。ここにいる人間たちはおそらくこの国でもトップクラスの戦闘力を持っている。今まで何度も彼らの戦いを目にしてきたが、それでも彼らの底は見えていない。しかも、この人数差だ。一般的な常識で考えれば結果は明白でもある。

 思考が沸騰しそうな気配に僕はゆっくりと息を吸い込んだ。

 落ち着け。

 何を考えているんだ、僕は。戦わなくてすむのなら、それでいいじゃないか。

 もし、本気でジオールと僕たちが殺し合ったとしたら、どうなるかなんてわかりきっている。僕たちが彼を退けたとしても、こちらの被害も大きなものになるに決まっている。

 確かに僕はみんなに助けてくれと、守ってくれと願い出た。けれど、そのせいで彼らの道をねじ曲げるのは許されない。

 僕は奥歯を噛みしめながらジオールを睨む。

 読心を使った気配などなかったが、彼は僕の心を読んだように笑っていた。


「まあ、ニールも彼らを傷つけるのは本意じゃないだろ? 彼らはお前のことを本当に思いやっているみたいだし、そうなると僕も心から彼らのことを嫌えない。それにさ、まがりなりにも僕は研究者だからね。魔法ってのがちょっと気になっている」

「もし――」


 背後からアシュタヤの透き通った声が響いた。


「もし、魔法のことを教えて差し上げれば、ニールを連れて帰らない、と約束できますか?」

「それは別の話だ。……まあ、でも、うん、どうやらきみも超能力者みたいだし、僕がそっちを教えることくらいはできるよ」


 ジオールのあっけらかんとした一言にアシュタヤの眉が不快そうに歪む。

 彼女は何か言おうとしていたが、その思いは声にはならないようだった。開きかけた唇を真一文字に結び、僕に視線を向けてくる。

 それはフェンや他のみんなも同じだった。

 魔法は秘匿されている技術ではない。教えることに抵抗はないのだろう。

 無駄な血を流さずにすむのなら――。

 他に有効な選択肢が見つからない。ジオールがどれだけこの世界に留まるつもりなのかわからないけれど、戦うよりだったら時間をかけて説得した方がよほど建設的な気がした。きっと彼は他の誰の言葉も聞かないが、僕の言葉だけは別だろうから。


「……ジオール、それできみの気がすむなら、僕からもお願いする。でも、先に言っておく。何を言われようが、何をされようが、僕はあの世界に戻るつもりはない。僕はここが好きなんだ」

「知ってるよ」


 ジオールはそう言って僕を一瞥する。今までに見たことのない穏やかさに、憎まれ口を返すことすらできなかった。


「じゃあ、とりあえず話もまとまったし、フェンさん、これをどうにかしてくれないかな。さすがにいつまでも拘束されているのは窮屈だ」


 フェンに目で合図を送ると、彼は短い詠唱をした。地面が再び流動する。

 解放されたジオールはフェンに礼を言って、地面に這いつくばっているバルトの元へと向かった。


「さて、バルトくん。命拾いしたね」

「ジ、オール、さん……あんたは」

「もうここからはきみは必要ない」


 ジオールは胸の内ポケットから枠のついたシリンダーを取り出して掲げる。中に入っている液体に見覚えがあった。暗い青の液体。僕がワームホールに飲み込まれた日に見た、あの液体だった。

 白い光が走る。液体が輝き、沸騰を始める。


「ジオールさん!」

「いいか? きみはこの世界のことを何も言うな。一言でも情報を漏らしたらその時点で僕の敵と看做す。……どうなるかはわかっているね」


 有無を言わせぬ冷たい声色にバルトは必死にこくこくと頷く。ジオールは満足げに笑い、シリンダーの蓋を開けた。

 光が奔出する。空気に触れた液体はどんどんと黒ずみ肥大していった。

 漆黒が垂れ、バルトの背中を覆っていく。

 数秒後、彼は黒に飲み込まれ、それが消え去ると同時にぽっかりとした空白ができあがった。

 ジオールはぽいとシリンダーを投げ捨て、サイコキネシスで千々に破壊する。


「さて、邪魔者もいなくなったし、早速教授してもらおうか」


 僕たちは目の前で起きた光景に何を言うこともできず、立ち尽くした。

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