幕間
26 無銭飲食狂想曲〈護衛団1〉
一週間もすると収穫祭の余韻はほとんどが消えた。吹き下ろしてくる木枯らしに流されていくように綺麗さっぱりと。寿命を迎えて光を失った魔法石が思い出されたかのようにときおり見つかる、その程度だ。
街を歩く人の上着も厚くなり、冬の到来を予感させる。明るい内から吐いた息は白くなり、下に超能力養成課程の制服を着てはいたもののあの事件のせいで所々に穴が空いてしまったため、温度調整機能の効果も半減してしまっている。僕は市民たちと同様、コートに身を包み街を歩いていた。
「もう自宅で過ごしてもいいですよ」と看護師のマイラに言われたのはつい先ほどのことだ。自宅、と言ってもウェンビアノの職業斡旋所の宿泊施設を間借りしているだけだから――ああ、もうウェンビアノの手からは離れているのか。
三日前、フェンの叔父であるウラグが正式に所長に就任したという。それも聞いたのは先ほどのことだった。ウェンビアノは会議や折衝で忙しく、もう職業斡旋所の経営に手を回せなくなっているらしい。
当然と言えば当然だ。カンパルツォとウェンビアノはこれから荒唐無稽とも受け取られる計画を実行に移すことになる。バンザッタを出発するまであとひと月、王都に着くまでの時間を加算しても半年に満たないのだ、どれだけ精査しても不足するような気がしてならないのだろう。
職業斡旋所に到着し、中に入ると、人々の歓声が肌を叩いた。ぎゃあぎゃあと喚く者がいれば、係と言い争いをする者もいる。備え付けの小さなバーカウンターで軽食を取っている人も……。
瞬きを繰り返す。
僕は目の前の光景が信じられず、何度も目を擦った。
小さかったはずのバーカウンターの面積が倍にも増えている。配膳されている料理も軽食と言うにはいささか量が多かった。職業斡旋所に併設された休憩所、というより、むしろ食堂が片手間に職業を斡旋しているような趣がある。
呆然としていると頭上からウラグの声が降ってきた。
「おお、ニール、怪我は大丈夫なのか」
恰幅の良さにそぐわない軽快さでウラグは階段を一足飛びに降り、僕の肩を叩いた。それが右肩だったものだから奇妙なうめき声を上げてしまい、周囲の視線を一身に受ける羽目になった。
「痛い、痛いですって」
「すまん、怪我してたの右肩だったか」
「まあ、前よりはましになってますけど……」言いつつ、あたりを見回す。「それにしても、なんですか、これ。職業斡旋所ですよね」
「ああ、そうだ。すごいだろう? この盛況ぶり」
「すごいはすごいですけど、なんというか、逸脱してませんか?」
「そんなことはないぞ。ちゃんと職業斡旋所としても機能しているんだからなあ」
にわかには信じがたく、周囲をもう一度見渡す。職業斡旋をしているカウンターの列よりも椅子に座って料理の提供を待っている人の方が多くて、何と言ってよいのか、すぐには思い浮かばなかった。
納得がいかず、顔を顰めていると、ウラグは鷹揚に笑って僕の、今度は左肩をばしばしと叩いた。あまりに強く叩いたせいで衝撃が肋骨まで伝わり、鈍い痛みが生まれる。それを気にもせず、ウラグは自身の丸い顎を撫でた。
「冬は河川整備も難しいし、仕事がなくなるから雇用創出のちょっとした施策だ。職業体験も兼ねてな」
どうやら考えていたよりも確とした方針があるようだ。てっきり食欲が暴走してこうなったのかと誤解していたものだから、少しだけ感心する。
「それで、効果はあるんですか? 確かに前よりも賑わってますけど」
「職業斡旋所が賑わうのは正直あまりいいことではないんだけどなあ」
「え」僕は訝る。「どうしてですか?」
「どうして、って、それだけ職にあぶれる人間がいるってことじゃないか」
「ああ、そうか」
職にあぶれる、という考えがない僕にとっては新鮮な指摘だった。前の世界では食糧の自動生産が確立し、働かなくても生存すること自体は問題なかったため、忘れがちになる。人は数十年前まで働かなければ生きていけなかったのだ。
ウラグの嘆きは僕の世界で言う医者や警察の嘆きと似たようなものだろう。仕事が増えるほど地域コミュニティの不健全さが露呈する。確かに歓迎すべきことではない。
「まあ、なんにせよ、心配なさそうですね。ウラグさん、前よりもいっそう健康そうだし」
「おお? なんだ、いつからお前がここの心配できるほど偉くなったんだ?」
にやにやしながらウラグは僕を羽交い締めにしてきた。武術の経験があるのか、彼の関節技は見事で、僕の腕は曲げてはいけない方へと力を込められる。
「ごめん、ごめんなさい、ウラグさん、調子に乗りましたっ」
「大体太ったのは外回りが減った、から、だ」
周囲の人々はじゃれている僕たちを見て笑い声を上げている。これから冬の苦しい時期を迎えるというのに彼らの顔を一様に明るく、それだけでもウラグが慕われていることがはっきりとわかった。
ウラグと話し終えたあと、一度自室へ戻り、ベッドに寝転がった。城の部屋を貸してくれるという話があったため、自室のものをまとめようかとも思ったが、よく考えればまとめるほどの荷物があるわけでもない。せいぜいが衣服とかそのくらいで一つの麻袋に収まってしまうほどだった。
このまま、自室で過ごすのも手持ち無沙汰だ。記憶ストレージにある書籍アーカイブも改めて確認してみたが、データ破損しているものが多く、もはや暇つぶしをできる手段もない。それにこの数日間、超能力の訓練をしていなかったため、力が減衰している可能性もある。僕はさっさと荷物を城へと運び、馬で街の外にでも赴こうと決めた。その前にイルマの店に行くのもいい。
随分、活動的になったものだ。かつてはこういうぽっかりと空いた時間は部屋にこもってばかりだったのに。あの頃と比べれば健全だし、健康的と言えるのだろうが、生活が別物に変わってしまっていて薄い困惑みたいなものもあった。
僕は起き上がり、頭を掻く。じっとしているのもできそうになく、外套に身を包んで部屋の外へと出る。
「ニールさん!」
そこで声をかけてきたのはいつも食事処で働いているウェイトレスだった。いつものにこやかな笑顔は片鱗すらなく、彼女は泣きそうな顔で、木の盆を持ったまま走ってくる。
「ああ、よかった。お出かけする前で」
「よかった、って……どうかしたんですか?」
看板娘と評されるくらいに彼女は愛想がよかったはずだ。にもかかわらず必死さを隠そうともしておらず、その勢いに僕は面を食らった。戸惑っていると、彼女は僕の腕を引き、嘆願するように言った。
「あの、ちょっと来てもらえますか? ウラグさんに呼んでこいって言われて」
「僕がですか?」用件を推測することもできない。「一体何があったんです?」
「ええと、その」
彼女は言いづらそうに階下を見つめる。視線の先を追うと、食堂の端のテーブルで騒動が起こっているのがわかった。人だかりの真ん中で困惑顔のウラグと酔っ払った三人の男女――男が二人と女が一人だ――が口論している。
いや、口論、というより、一方的な懇願だろうかか? 怒号などは聞こえないし、ウラグの顔にも怒りの色は欠片もなく、ただただ困り切っているだけにも見えた。
「あれ、ですか?」
「ええ、朝からずっといたんですけど、お金がない、って言って」
「は?」思わず顔を歪めた。「いや、なんで僕が呼ばれるんですか?」
無銭飲食と僕が呼び出されることにどんな関連があるというのだ。明らかな論理の欠如に理解が追いつかない。もう一度下の様子を凝視するが、やはり、欠けた論理のピースは埋まらなかった。どこかで見たことがあるような気もするが、思い出せない。面識がない三人組だ。
もしかして、と僕は頭を捻る。金もないのにたらふく飲み食いしたあの三人組を僕に懲らしめさせよう、という算段だろうか。いや、たとえそうだったとしても僕にやらせる意味などない。ここでは魔獣の駆除も斡旋しているから、腕の立つ者は他にもいるだろう。得体の知れない力で恐怖を味わわせる、というのもあまりに短絡的だ。
無言で説明を求めるとウェイトレスは口をもごもごと動かした。要領を得ない彼女の態度に焦れきって、もう一度訊ねた。
「どうして、僕を?」
「……ええと、あの人たち」彼女はちらりと三人組を一瞥する。「伯爵さまの護衛だって言い張ってるんです」
〇
「ウラグさん、どうしたんですか」
他の護衛と面識がないため僕が行ってもどうなるわけでもなかったけれど、頼みを無視するわけにもいかず、人集りの中に割って入った。ウラグの顔はほとほと困り顔で、ただでさえ垂れ目なのに申し訳なさそうに眉尻を下げているものだから、そのままだと目が縦になっちゃいますよと軽口を叩きそうにもなる。
「事情は聞きましたけど」
「いや、すまんね。で、こいつら知ってるかい?」
ウラグは親指で机に突っ伏した三人組を指さす。テーブルには空になった皿とグラスが所狭しと並んでいて、彼らはそこに器用に突っ伏している。感嘆の声を上げそうになってしまったほどだった。
「すみません、色々あったせいでまだ他の人、紹介されてないんですよ」
「あちゃあ、そうなのか。それはいよいよ困ったな……。フェンを呼んでくるしかないか」
ウラグの呟きに「フェン!?」と涙声が上がった。突っ伏している三人組の真ん中、ほとんど下着なのではないかというくらいに肌を露出した赤毛の女が顔を上げる。
「フェンはやめて! あいつ、すっごい怒る!」
赤毛の女はぶんぶんと首を横に振った。彼女が来ている赤の服は面積が少なく、豊かな乳房がまろびでそうになっていて、僕は目を逸らす。後ろの人集りからは「おぉ……」と間抜けな声が上がっているが、いい気なものだ。実際に矢面に立たされている僕にとってはたまったものではなかった。
「やめて、って言ったってなあ」
「おじさん、お願いだってば、何でも仕事するし、ほら、あんたらも何とか言ってよ」
彼女は両隣の男の背中をばしばしと叩いたが、彼らの返事は明らかに酒気に負けている。彼女の右にいる体格のいいスキンヘッドの男は「うるせえなあ」と彼女の手を振り払い、左の、髪を鶏冠のように逆立てた男は「フェンがなんだってんだ」と語尾をもにょもにょとさせて空のグラスを掲げた。
「あー、もう! ダメ人間!」
ダメ人間の具合でいえばあなたもいい争いですよ、と僕は心の中で呟く。が、彼女にその自覚があるようには思えない。
ウラグも同様のことを考えていたのだろうか、呆れた声色で言った。
「ええと、レクシナさんって言ったね。仕事をするって言っても、この時期、そんなに仕事はないんだ。それに、そんなに酔っ払ってたら仕事どころじゃないだろう?」
「大丈夫だってばあ。魔獣駆除でもしてきて肉でも取ってくるしさあ、お願いぃ」
一際大きな溜息を吐き、ウラグは僕を見つめる。
いや、僕を見られても困る。何を期待しているかわからないけど、僕にできるのは声援を送るくらいじゃないか。
頭を掻き、レクシナと呼ばれた女性を一瞥する。彼女は背もたれに体重を預け、この期に及んで余っていた酒に口をつけていた。呆れを通り越して尊敬しそうになる。この状況に慣れている雰囲気もあり、もはや手に負えるとは思えなかった。
グラスを一気に空にした彼女はほう、と恍惚が混じった息を吐く。酔いに据わった目が僕の視線とぶつかり、彼女は「あれえ」と間延びした声を上げた。「その人ぉ」
「ああ、きみたちが護衛だって言うもんだから本物を連れてきたんだ」
ウラグは僕の背中を押して、一歩前に出させる。その瞬間、レクシナの顔が輝いた。
「ニール!? 噂の!?」
その声に両隣の男たちも反応した。へべれけになった視線はうろうろとあたりを彷徨い、のんびりと僕へと定まる。その瞬間、彼らは顔を輝かせた。
「助け船だ!」と黒髪鶏冠が両手を挙げる。
「神の思し召しだ!」とスキンヘッドが手を叩いて笑い声を上げる。
立ち上がったレクシナは覚束ない足取りで僕に迫り、しなだれかかってきた。肩に思い切り体重を預けられたせいで身体が軋む。
「痛い、ですって」
身を捩って逃げようとしたが、彼女は腕は僕の胴体に蛇のように絡みついて離れようとしない。鼻先が触れ合うほどに顔を近づけられ、狼狽する。だけど、それ以上にアルコールの臭いが鼻につき、顔を逸らさずにはいられなかった。
「へええ、聞いてたよりずっとかわいいなあ、もっと厳つい感じだと思ってたあ」
「落とせ、レクシナ! お前ならできる!」
黒髪鶏冠が喝采を送る。スキンヘッドは笑い声を上げたまま仰け反って椅子からずり落ちそうになっていた。
柔らかな膨らみを押しつけられ、僕は赤面したものか激昂したものかわからず、とにかく離れるべく彼女の肩に手をかけ、押しのけることにした。露出している肩は酔いのせいか熱いほどの体温で、それでいて絹のような質感があり、柔らかくて、ああ! なんだって言うんだ!
「ちょっと、離れてください」
「ええー、助けてよぉ」
「離れたら考えますから!」
「本当にぃ?」
「本当ですってば!」
「言質取った!」
レクシナはぱっと僕から離れ、両手を挙げる。「でかした!」と黒髪鶏冠が机を叩き、スキンヘッドが「ヘーイ!」と雄叫びを上げてレクシナとハイタッチをかました。僕は閉口し、肩を抱き合う三人組を眺める。
なんだ、こいつら、と小さく呟くのが精一杯の抵抗だった。
〇
所長室で僕とウラグ、そして例の三人組が向き合っている。かつて僕が力を証明するためにサイコキネシスで投げ飛ばした机はあちこちに修復が施され、表面の傷を隠すためにカバーが掛けられていた。三人組は目の前に置かれた水を見て、未だに「酒が飲みたい」とぶつくさ言いながら、グラスを傾けている。飲み干すと扉の脇に立っているウェイトレスにおかわりを要求し、その様子に僕とウラグは顔を顰めた。
三人組の名前は、女が先ほど聞いたとおりレクシナ、黒髪鶏冠がセイク、スキンヘッドがヤクバ、というらしい。
僕がどこかで見覚えがある、と思ったのは間違いではなかった。彼らは収穫祭の大道芸にほとんど飛び入りで参加していたらしい。僕が感動したあの舞台だ。レクシナは風を用いた楽器の演奏、ヤクバは水の龍を操作していた記憶がある。ただ、一人だけセイクは何をしていたのか覚えがなかった。
あの技術を考えると護衛だというのもあながち嘘ではないかもしれない。
そう思ったのが間違いだった。そのせいでレクシナたちの懇願に負けることになってしまい、僕は荷物の入った鞄から財布を取り出し、彼らの食事代金を払わされる羽目になった。
「いやあ、助かった。もうニールには頭が上がらんわな」
ヤクバは禿げた頭をなで上げて笑う。申し訳ないという感情は僕には見えなかった。
「言っておきますけど、貸しですからね。僕はひと月くらいでこの街を出て行きますからそれまでには返してください」
「かてえこと言うなって」とセイクがグラスを揺らす。「まーだ信じてねえのか? 俺たちも一緒だっつってんだろうが。ひと月どころか数年単位で時間はあるぜ」
「本当かどうかは城に行ってちゃんと確認することにします。あと、お金はすぐに返してもらいますから」
「ちょっとお、いいじゃない、それくらい。あたしたち仲間なんだから」
「それくらい、っていうなら払ってくださいよ」
「だから、今はお金ないんだってば」
「護衛なら給金が出てるでしょう!」
「あのな、ニール坊」
そこでセイクは机に肘をつけ、自慢げに笑みを作った。
「知ってるか? 金って使ったらなくなるんだぜ」
摩訶不思議! とヤクバが囃し立てる。レクシナも口を押さえ、笑いを押し殺していた。
なんていい加減な人間たちだ、と頭を抱える。僕がこの世界で交流があったのはフェンやウラグ、ウェンビアノ、カンパルツォ、アシュタヤ、ベルメイアでさえも人並み以上の責任感を持っていた。自警団の面々やイルマもだ。彼らと比べたらこの三人組の軽薄さはひどいもので、同じ生物だと信じることができなかった。
「いやあ、この前、給金もらったばっかなんだがな」
「給金、っていうか、完全に前借りだったな、ありゃ」
「まさか、十日経たずに消えるとは思わなかったよねえ」
「祭だなんだって、そら、支出も増えるわな」
「小遣いも飛んじまった」
笑い話とは到底思えなかったが、彼ら三人は腹を抱えて笑っている。まともに話を聞いてくれる気配すらなく、苛立ちが募った。厭味の一つも言いたかったが、彼らの脳に厭味の成分の受容体があるのかも定かではなく、僕は溜息を吐いた。
「あの」
「なあに、ニールちゃん」とレクシナは艶めかしく唇を舐める。
「まさか、全くの無一文なんですか」
大事なことだった。彼らが僕と同じカンパルツォの護衛だというのは信じよう。あれだけの魔法技術を持った人たちだ。戦闘能力も高いに違いない。
だが、それだけに不安で仕方がなかった。金がない彼らは出発までどうやって生活していくのだろうか。冬期、働き口が少なくなるのはウラグの言ったとおりだ。もしこのままなあなあにしてしまったら、ずるずると金の無心をされ続ける可能性が高い。
僕の質問に、レクシナは人差し指を唇につけ、「うーん」と悩んだ後に快活に微笑んだ。
「そうだ、って言っても過言ではないね!」
「レクシナ、自慢げに言ったらニールが怒るぞ」ヤクバがおどける。
「こいつ、小せえフェンって考えた方がいいぜ」セイクが顔を顰める。
「でも事実だからしょうがないよねえ」レクシナはけらけらと笑って万歳をした。「あたしなんてこの服以外売っちゃったから寒くてたまんない」
「……もう、いいです」
「お、チャラにしてくれんのか?」
「違います!」身を乗り出したセイクを一喝する。「もうたくさんだ、ってことですよ! さっさと借用書書いて、城に向かいましょう。返済は出発までですから」
僕はウラグの手元にあった借用書をひったくって自分の名前をサインした。表音文字だったため僕にもサインくらいできるし、簡単な文章は読めるようになっている。視覚拡張装置と接続された文章翻訳機能はそれくらいの成長を見せていた。すべて手書きだから、癖を読み取れるほど精度はまだ完璧ではないけれど。
サインした書類とペンを真ん中に座っていたレクシナに差し出す。だが彼女はしばらく紙を睨んだ後にヤクバの元へと借用書を流した。
「ねえ、ヤクバ、あんた文字勉強するって言ったよね」
「決意を表明しただけだ」
どん、と机が叩かれる。セイクが立ち上がり、ヤクバへと詰め寄っていた。
「あ? おめえ、勉強代っつって金持って行ったろうが!」
「あれくらいで足りるか。読み書きできる娼婦なんてそういないんだ」
「おいおい、てめえ、頭おかしいんじゃねえのか! なんで文字勉強するのにオンナのとこ行かなきゃならねえんだよ!」
「不可抗力だ。大体、セイク、お前も一緒だっただろう。武器を研ぎ師に持っていくって三人の金に手をつけてなかったか?」
「武器を研いでもらったのは確かだろ」
「いや、ちょっと待って、あんたたち何してんの。信じらんない」
「レクシナおめえはまず稼ぐつもりねえじゃねえか! 身体売ってきます、って言ったからこいつマジかって思ったけど、結局商人のハゲ親爺におごらせてただけだろ」
「その日の食費は稼いでるじゃない」
「俺たちに金を回して初めて稼いでるって言うんだ」
借用書そっちのけでぎゃあぎゃあと口喧嘩を始めた彼らに、僕はもう我慢できなかった。思い切り机を叩き、立ち上がる。もう敬語を意識する余裕すら消え失せていた。
「あんたら、本当に大人なのか! 人に金を出させておいて、どういうつもりだよ! それでどうやって生きてきたんだ!」
「あ、でも、盗みとかはしてないぜ」
「当たり前だろ! それは人として最低限のことだ! ああ、もう、読み書きができないなら手形をとるでもいいですよね、ウラグさん!」
「あ、ああ」
ウラグは僕の勢いにたじろぎ、慌ててインクの入った壺を持ってきた。僕はそれを彼らに差し出し、借用書を裏返す。
「ほら、早くしてくれ」
レクシナは手を隠すように机の下に降ろす。「ねえ、誰にする?」
「いちばん年上のヤクバが妥当だろ。文字勉強してなかったし」
「俺の手だとこの紙からはみ出す」
「誰でもいいよ!」
「じゃあ、手決めするか」とセイクはぶらぶらと手を顔の前で揺らした。
他の二人も、そうするか、と肩を落とし、同じように手を前に出して、いちにのさん、とかけ声をかけた。どうやらじゃんけんのようなものらしい。
だが、そのゲームは一向に勝負が決まらなかった。三すくみであるのか、全員がばらばらの手、あるいは同じ手を出し続けている。
「ねえ、ニールちゃん、これすごくない? 意思疎通完璧だよ、これ!」
その一言に僕の堪忍袋の緒が切れたのは言うまでもない。いちばん近くにいたセイクの手を取ってインクを塗りたくり、思い切り紙に押しつけて事態は一応の収束を果たした。
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