25 光の川

 僕たちは城の見張り台の上で眼下に広がる光景をじっと眺めていた。

 初めて刺客に襲われたあの日にした約束を守るためだ。

 ――バンザッタの収穫祭は昼は地面から、夜は空から見るのがいちばん美しい。

 哨戒していた兵士には無理を言って席を外してもらった。見張り台は二つあるし、険悪な関係にある南の国が攻め込んできているという情報もなかったからだろう。彼らも最初は拒否していたが、アシュタヤがお願いすると渋々ながらも了承した。


 僕たちは狭い見張り台の、さらに狭いベンチの上でアシュタヤの部屋から持ってきたシーツに二人で包まっていた。それでも寒さが厳しく、身を寄せ合う。左肩に彼女の体温が触れている。

 バンザッタの収穫祭がもっとも美しいと言われる空間。暗闇の中、頭上と足下に星が見える。堀に沿って並ぶ露店には魔法石が吊り下げられていて、そこから発せられる色とりどりの灯りは弧を描いており、虹のようにも思えた。


「ねえ、ニール」


 彼女は視線を街に向けたまま、呟く。


「私ね、この景色がとても好きなの。ほら、心の形が見えるでしょう? ここからだと堀がぎりぎりなんだけどね……。暗くてもわかるから、きっと誰よりもこの景色が楽しめていると思う。魔法石の光と、それに照らし出されるバンザッタの人たち……たぶん、世界中どこを探してもこれ以上のものはないわ」


 彼女の胸から伸びる青い〈糸〉。たぶん僕の世界の科学者は腰を抜かすだろう。超能力を使って景色を楽しむ人間がいるだなんて思いもしないはずだ。


「それは、羨ましいな」と僕は本心を口にした。

「でしょう? ニールにも見せてあげたいくらい」

「無理だよ。僕はサイコキネシスしか使えないんだから」

「そういうことじゃなくて」


 彼女は小さく息を吐き、僕を見つめる。根本的な物理法則や化学反応というものは僕の世界と変わらない。彼女の息は白く色づき、風に流されて消えていった。


「気持ちの話」

「気持ち?」


 どういうことか判断がつかず、僕は困惑する。


「ニールが来るまでそんなふうに思ったこと、なかったの。ベルにもよ? だって、他の人には絶対にわからないじゃない。心に形があるだなんて……それに、軍で前線にいた頃は絶対に口外するなって言いつけられていたしね。だから、この景色を見てもなんだか独り占めしているみたいで後ろめたかった」

「僕だって見れないんだから、結局独り占めだよ」

「気持ちの話、って言ってるじゃない」アシュタヤは焦れったそうに苦笑する。「本当にあなたって人の気持ち汲み取ってくれないのね」

「しょうがないだろ、今まで友達いなかったんだから」


 私もそう、と彼女はくすくすと笑う。


「思い返せば、本当にニールは変な人ね」

「しみじみと言わないでほしいんだけど」

「堀を飛び越えて現れたときは驚いたわ」

「あれは、まあ、事故みたいなものだよ」

「地下牢では泣き出しそうになってたし」

「……それはできれば忘れて欲しいかな」

「そういえば、友達がいない、って言う割にはイルマさんと楽しげに話してた」

「友達というかさ、イルマと友達になろう、って流れなんてなかったよ」

「友達になりましょう、ってわざわざ言葉にする必要なんてないわ」

「アシュタヤは言おうとしてたじゃないか」

「あれは本の真似だもの」

「本?」

「そういうお話があるの。英雄譚なんだけど」

「どうりで戯曲めいていると思った。きみも立派な変人だよ」

「でも、ニールはもっと変。魔法も使わずに刺客を投げ飛ばすし」

「きみだって心の形が見える」

「私を抱えて堀を飛び越えちゃうし」

「それで逃げ切れたんだからいいじゃないか」

「見たこともない服を着て、外出禁止なのに一人で外に出て」

「……まあ、軽率ではあった」

「ギルデンスさまに捕まって、私ごと囚われて」

「……うん」

「間取りを把握するためだけに肩の傷に指を突っ込んで、鉄格子を壊して、武器もないのに敵に立ち向かって、手も触れずに大木を持ち上げて、ようやく逃げられたっていうのに、ラニア家の短剣を取り戻しにわざわざ戻って……、事件が終わったかと思えば、私の部屋の扉を壊した。そんな人、この世にいるなんて信じられない」


 アシュタヤの声色は決して批判的ではなく、むしろ喜びに満ちているように思えるのは自意識過剰な僕の妄想だろうか。

 彼女と知り合ってからまだ二週間も経っていない。なのに、随分と色々なことがあった。時間によって引き延ばされた僕の人生の薄っぺらさと比べたらなんと濃密なことか。十七年間を限界まで煮詰めたとしてもこの二週間には敵わないとすら感じる。

 今までこんなに感情的になった経験はなかった。感情的になればなるほど周囲は僕に対して棘を向け、虐げ、喜んだからだ。だから僕はできる限り自分を押し殺そうとしていた。

 今までこんなに真剣になった日々はなかった。自らの意志で目標を定め、努力したことなどない。才能のなさに言い訳を積み重ねて目を逸らそうとしていた。


 今までこんなに、人を好きになったことはなかった。

 フェンやウェンビアノに認められ、カンパルツォと真摯に向き合い、ベルメイアに振り回されるのが楽しくてたまらなかった。イルマは面倒だが面白く、自警団の面々はやっかいだがいい人たちばかりだった。

 そして、アシュタヤは――。

 包まったシーツの中で僕はそっと手を伸ばす。肩に触れる彼女の体温から手のひらを探りあて、そっと握りしめた。彼女の指先も僕の手の甲に寄り添う。鼓動が高鳴る。


 今まで、こんなに胸がどきどきとした覚えなんてなかった。

 彼女の指はひんやりとしていた。きっと僕の手も同じくらい冷たいのだろうけれど、でも、時間が経つにつれてゆっくりと体温が染みこんでいくような気がした。


「アシュタヤ」

「え、あ、ど、どうかしたの?」


 狼狽を露わにしたアシュタヤの頬は赤く染まっている。

 途端に体温の上昇を感じた。僕は彼女から目を逸らし、眼下に広がる光の輪を見ながら囁くように言った。


「初めて会ってからまだ全然経ってないのにさ、自分でもおかしいとは思うし、きみはまだ苦しんでいるだろうから、言葉にするのは最高に空気が読めてないのかもしれないんだけど……」


 唾を飲み込もうとしたが、喉がからからに乾いていて、うまくできない。頭の中に熱の塊が浮いていて彼女を直視することもできなかった。


「僕、きみのことが好きだ」


 遠い喧噪と、肌に触れる空白。アシュタヤは無言で僕の手を握りしめている。

 貴族であり軍の重要人物である彼女と、実験台として別の世界から流されてきた得体の知れない僕とでは釣り合いなんて取れないだろう。大体、これから大きな理想へ向けて進もうとしているときにこんな浮ついた気持ちを伝えるのは馬鹿げている。

 それでも僕はその思いを口にせずにはいられなかった。大事なもの――辛いという気持ちだとか、悲しいという気持ちだとか、あるいは楽しさや愛おしさを口にしてこなかったことで僕は多くの、手に入れられるはずだったものを掴めずにいた。テレパスだとかそういった能力で人の考えていることが分かったところで、僕たちは人間だ。言葉にしなければ伝わることはない。


 返事を待っていると、冷たい風が通り抜けていった。寒さをやりすごすべく身を竦ませたとき、小さな溜息が聞こえた。思わず僕は眼下に満ちる光から彼女へと視線を移す。

 彼女はくすぐったそうに微笑みを作って――それから、戯曲めいた怒りを滲ませて、こう言った。


「目を見て言ってくださらなければ聞こえません」


 それがおかしくて僕は噴き出す。アシュタヤも鈴が鳴るような声で笑った。


     〇


「ニール、始まるわ」


 ひとしきり笑い終えたあと、アシュタヤは堀を指さして身を乗り出した。僕もそれに倣い、下を覗く。


「始まるって、何が」

「いいから、ほら」


 街から歓声が沸き起こる。何事かと目を凝らすと城に繋がる跳ね橋に男がいるのが見えた。すぐにカンパルツォであると認める。彼は威風堂々と立ち、騒ぎが収まるのを待って見張り台からでもはっきりと聞き取れる声で言った。


「カンパルツォ家が統治するバンザッタとして最後の収穫祭が終わりを迎える。だが、諸君らの生活はこれからも続き、途切れることはない。まずは皆に感謝を、そして、バンザッタのさらなる発展を祈っている」


 拍手が巻き起こり、市民たちはカンパルツォを囃し立てる。誰かが笛を吹き、弦楽器を掻き鳴らした。


「今年は事件が起こり不安になった者もいるだろう。だが、それを鎮めたのもきみたち自身だ……私は平和で騒がしいこの街を誇りに思う! この地を離れても、私はここでの日々を忘れない! 皆にとってもそうであることを願う! ……ここに収穫祭の終了を宣言する!」


 跳ね橋の前に集まった見物客の歓声が一際大きくなった。カンパルツォを称える声やバンザッタへの礼賛、万雷の拍手が宙に浮き、弾けるように広がった。

 そして、次の光景に僕は目を瞠る。

 誰かが、魔法石を堀へと投げ込んだのだ。弱々しい光を放っていた魔法石が急激に激しく輝き始めた。光は連鎖するようにどんどん数を増していく。それは堀だけではなく街を走る水路にも及んでいた。

 光の波が緩やかに弧を描いて堀を埋め尽くしていく。それから四方へ伸びる水路へも広がっていった。その輝きは周囲を眩しく照らし出し、まるで昼間のような明るさをもたらしている。


 感嘆の声が漏れかけた時、風が強く、吹いた。

 街路樹にしがみついていた赤や黄色の葉が舞い上がる。

 その光景に僕は言葉をなくしていた。葉はひらひらと光を散乱させ、祭のメインストリートを染め尽くしている。

 ――紅葉する街、バンザッタ。

 僕はこの光景を生涯忘れないだろう。

 輝く水面、魔法石の天の川。照らし出される紅葉。僕とアシュタヤが心に抱く、拭い去れない闇を溶かし出すような、光。それをただただ眺めることしかできなかった。

 しばらく経っても喧噪は尾を引いている。僕とアシュタヤは静かにその人の流れを見つめていた。


「すごかった……見れてよかったよ、本当に」

「でしょう? バンザッタで流通している魔法石は水に反応して光を灯すように作られているの」

「水に?」


 夜に灯りが点くのがあまりにも当たり前のことすぎて気にしたことがなかった。それに僕の部屋にある照明は蝋燭くらいだった。化学反応、と一瞬納得しかけたが、だったら「魔法」石とは言わないだろう。何かしらの魔法が施されているに違いない。


「魔法石にも寿命があってね……いつからか収穫祭の終わりに寿命を迎えたものを投げ入れるようになったみたい。かすかに残っている魔力が大量の水に反応して、燃え尽きるように強い光を発する……城の魔道士も調子に乗っちゃったみたいで堀にかけた風の魔法を作動させてね……そしたら、今見たみたいにバンザッタそのものが紅葉したように光り輝くの」

「知らないで見た人はきっと腰を抜かすよ……僕もちょっと立ち上がれそうにない」


 そうおどけると彼女はくすりと笑った。


「でも、冷えてきたし、そろそろ帰らなきゃどやされるんじゃない?」

「そうなんだけどさ」


 未だぽつぽつと残る光の球をぼんやりと眺める。しばらくそうした後で、僕はアシュタヤに視線を向けた。


「ねえ、アシュタヤ、知ってると思うんだけどさ」

「なに?」

「僕、きみのこと、好きだよ」

「え」と素っ頓狂な声が上がった。「ちょっと、ニール、あの」とアシュタヤはしどろもどろに口の中で呟き、それから、顔を背けた。「不意打ちは、やめて」

「だって、目を見なければ聞こえない、って言ってたし」

「それは、そうですけど」

「別に返事を求めているわけじゃなくてさ……。きちんとうやむやにせずに伝えておかなきゃなって思ったんだ。きみが今、苦しんでいることも知ってる。使命があることも。だから僕はそれを支えたいな、って」


 肩が触れ合う距離で向き合うと人の顔ってこんなに近くに来るんだ、と僕は初めて知る。紅葉に負けず劣らず赤くなったアシュタヤの顔はとても綺麗で、いつまでも眺めていたいとも思った。

 彼女はしばらく押し黙り、風の音を二度ほど聞いてから、小さく頷いた。


「ありがとう、ニール。……私もニールのことが好き」


 ああ、と呻きそうになる。これまで感じたことのない幸福、そして、何となく彼女が次にいう言葉もわかったような気がした。


「でも、今は、こ、恋仲になるとか、そういうのはたぶんできない。そうするのもいいんだけど、なんていうか、けじめっていうか、昨日あんなことがあって、まだ私、整理ができてなくて」

「……うん」

「……私、ニールと出会えて本当によかったと思ってるの。……年の近い男の子、前線にいたときもいっぱいいたけど、私にはいつも護衛がついててお話することなんてできなかったし、みんな私を怖がってるみたいだったし……。だから、こんなふうに誰かと仲良くなるなんて思いもしなかった。……わかるかな、伝わってるかな」

「大丈夫」僕は彼女の手を握る。「伝わってるよ」

「あのね、ニール。あなたは優しいから、私を赦してくれた。だから、私も私を赦そうと思うの。今は落ち着いたし、とても幸せだからあの幻覚が見えないけれど……きっとふとした拍子に甦るわ。夢に見るかもしれない。あなたはきっと隣で私を支えてくれるだろうってこともわかってる。でも、そうやって甘えていたら大事なものが抜け落ちていくような気もするの」


 何も言わず、首肯する。どれだけ僕が支えると言っても、本質的に彼女の苦しみは理解できない。結局人間は、最後の地点では孤独に戦わなければならないのだ。


「ニール、あなたは強くなるって言ったでしょ? だから私も強くなろうと思うの……それまで待ってもらっても、いい? たまにどうしようもなくなって助けを求めるかもしれないけれど……勝手なこと、言ってるね、ごめんなさい」

「いいよ、どっちかと言えば僕の方が勝手だしさ。……あとさ、僕はいつでもきみの支えになりたいと思ってるから、いつだって頼ってくれていい」

「……ありがとう」

「こちらこそ。できれば王都に着くくらいまでには君の中で決着がつくことを願うよ。あっちに着いたら色々環境も変わるだろうし」

「そうね……、うん、がんばる」

「がんばらなくてもいいよ」

「え」


 アシュタヤはその返答を予測していなかったのか、ぽかんと口を開く。

 僕は肩を竦め、大した問題ではないように装った。


「あくまでそうなればいいな、ってだけで、気負う必要はないってこと。もしだめでもさ、そのときはそのときだよ」

「……うん」

「今日は大丈夫? もし一人になって嫌なものが見えるならそばにいるけど」

「ありがとう、でも、たぶん今日は大丈夫。とても幸せだからちゃんと眠れると思うわ」

「そっか」


 せめて今だけはと僕たちは身を寄せ合う。体温が溶け合って、まるで一つの生物であるかのような錯覚すら思えるほど身体を密着させる。

 こうして僕が初めて訪れた街、バンザッタの収穫祭が終わりを迎えていった。堀に投げ込まれた魔法石のほとんどが光を失ってはいたが、ぽつぽつと輝いているものもある。夜闇を照らすその光は朝が来るまで燃え続けた。

 ――賢しい人は僕を笑うだろう。

 本当にアシュタヤのことを考えるならば彼女の元を離れるべきだ、と。殺人という最後の一線を越えられない僕は本質的に彼女の隣にはいられない。敵を殺せない護衛、それにどれだけの価値があるというのだろう。

 でも、僕は彼女にさようならとは言えなかった。

 その気持ちこそがこの日々で得た最上の宝物なのだと確信している。

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