『自尊』
矢口晃
第1話
柚子の生産で有名なある南国の海沿いの町に、柚子のようにかわいらしい、瓜二つの一卵性の双子の姉妹がいた。姉は名を夏樹といい、妹は夏美といった。美しい気立てと器量とをもつ母の血を受けついだ彼女たちは、仲の良い美女姉妹として地元でも有名になった。
彼女たちは何をするのも常に一緒だった。朝起きて朝食を摂り、学校へ行って半日を過ごした後、またともに連れだって下校をした。彼女たちは二人でいる時はいつも機嫌がよかった。小学校に上がる前も上がってからも、喧嘩らしい喧嘩をしたことはなかった。両親はそんな彼女たち姉妹を、当然ながら愛し大切にした。
彼女たちの父親忠良は、町で漁業を営む漁師であった。彼は彼女たち姉妹にとって、愛情あふれる優しい父親であるのに違いなかった。彼は夜漁から帰ると、必ずその日に上げた魚をつまに晩酌を嗜むのを毎日の楽しみとしていた。彼は決して酒を飲んで荒れるということはなかった。ただ酒が入ると顔を赤くし、普段よりも声量のある声で口数多く話をし出す癖があった。しかしそれは彼ら家族にとって決して厭うべきことではないようであった。少なくとも、彼の饒舌が家の中を明るくすることは、彼ら一家の平和のために多少の益をもたらしているらしかった。
その日も忠良は夜の九時過ぎまで、家族を話し相手に一人の酒を楽しんでいた。その日は昼から風が強く、漁も思うようにははかどらなかった。彼はいつもより早く仕事を切り上げ家路についた。それから好きな酒をだらだらと続けているのだから、酒量は普段にも増して募っているのに違いなかった。
姉の夏樹とその母紀子が一緒に風呂に入っていた。居間には妹の夏美と忠良だけが残されていた。夏美は酒の入って陽気な父と話をするのを別段嫌ってはいなかった。むしろ大好きな父親と過ごす時間を楽しみにしているようであった。
いつにもまして上機嫌になった忠良は、娘の夏美を相手にたわいもない会話を続けているうちに、何の拍子であったかうっかり口を滑らせてうっかりこう言ってしまった。
「おい、夏樹――」
しかしこの時点で、彼自身は娘の名を呼び間違えたことに気が付いていないらしかった。普段は決して双子の娘を見間違えることなどなかった彼であったが、深酔いしたこの時ばかりは、目の前にいた娘の顔が、夏樹のようにも見え、また夏美のようにも見えたのかも知れなかった。
一方名を呼び待ちかえられた夏美の心境は、この時穏やかではなかった。まだ七歳の夏美にとって、それはただ名を呼び間違えられたという単純なことなでは決してなかった。いくら姉妹といえども、そしていかに外見が瓜二つであろうとも、彼女の中でははっきりと、姉は姉、自分は自分であるという自覚があった。それは幼い彼女の誇りであるといってもよかった。
その彼女の誇りが、忠良の何気ない一言によってにわかに脅かされたのであった。私は夏樹じゃない、私は夏美だ。そういった嫉妬にも似た怒りが、彼女の小さな胸をじりじりと焦がしていった。
そんな夏美の心理的な動揺になどまったく気のつかない忠良は、その後もさらに饒舌になる口から、笑い声を交えながら様々な話を娘の夏樹に続けていった。しかもその話の間中、ずっと彼は夏美のことを、
「夏樹、夏樹」
と呼び続けているのであった。彼は自分の間違いに全く気が付いていなかった。いや、正確にいえば、自分の話している相手を、間違いなく夏樹だと信じ込んでいたのであった。
我慢強い夏美は、その後もしばらくはじっと辛抱して父親の話に耳を貸していた。いつかは自分が夏美であることに父が気が付いてくれるに違いないと、そう信じていた。しかし夏美がいつまで待っても、父親にそのような景色は一向見てとれなかった。夏美はだんだん悲しくなるのを胸に感じた。大きく言えば、父親の中に自分という存在が無視され、ただ姉の夏樹という存在だけが注目されているかのような、そんな寂しさを夏美は感じていたのだった。
とうとう業を煮やした夏美は、突然父親の話を遮るようにして、怒りのこもった声でこう言った。
「夏樹じゃないもん。あたし、夏美だもん」
そう言った時の彼女の心理は、父親が直ちに名前を呼び間違えたことに対する謝罪と、酒に酔っていたからうっかり間違えたんだ、普段は絶対間違えたりするはずはないという釈明を口にしてくれることを期待していたに違いなかった。それによって、自身の心理につけられた傷が癒されることを期待していたのだった。
しかし、そんな夏美の思惑は、次の忠良の一言によって見事に裏切られたのだった。そしてその不用意な一言によって、夏美の心には生涯消えがたい深い傷が刻みこまれたのだった。
酒にすっかり気をよくした忠良は、夏美に間違えを指摘された後、それをさして重大なこととも考えないまま口にしたのだった。
「ああ、間違えちゃった。――よく似てたから」
夏美にとって、これは最愛の父親から受けた、最大の背信の一言であった。
よく似ている。それは彼女自身さえよくわかっていることだった。そしてよく似ているからこそ、彼女は双子の姉を愛してもいた。
二人がよく似ていることが、夏美にとっても喜びの一つだった。きっと夏樹も自分とよく似ていることを喜んでくれているに違いないと思って、夏美は安心していた。
しかしその安心は、もちろん自分が両親から愛されているという無意識の自覚があるからこそ感じられていたものに違いなかった。いくら二人が外見上似ていても、両親は自分たちそれぞれの人格を別個に愛してくれていると思えばこそ、夏美は安心して親の愛を感じることができるのであった。しかしこの日の忠良の一言は、そんな夏美の信頼を根底から覆すものであった。よく似ていたから混同された。それは夏美にとって、夏美という人格を無視されたことに等しかった。父親にとって夏美は夏美でなくてもいいのだ、夏美が夏樹でも結局同じことなのだ。そう思った時、夏美は父親から突き放されたような孤独感を胸裏に感じたのだった。
それと同時に、彼女は姉の夏樹に対する敵意さえ抱き始めていたのだった。今まで平等に愛されていると感じていたからこそ、彼女は双子の姉を信頼し愛してもいられた。しかしひとたび父親の愛が夏樹にだけ向けられていると感じた時、夏美は父の愛を独占した夏樹に対する憎しみを、沸々と胸にたぎらせ始めていたのであった。
夏美は思った。父親に振り向かせ、再び愛を得るためには、夏樹と似ていたのではいけないと。夏樹と離れなければと。夏樹と分離しなければと。
夏樹と一緒では、自分はいつまでも夏樹の影のままである。そうではない、夏美という人格を父親に認めさせるためには、自分は夏樹と正反対の人間にならなければならないのだと。
それから、夏美は心理的にも徐々に変化を見せていったのであった。
この日を境に、夏美は少しずつ気難しく強情になった。両親が買い与えた服は何かと注文を付けて着用しようとはいなかった。学校の持ち物も夏樹と同じものはことごとく嫌がるようになった。そのため両親は夏美のために新しい鉛筆や下敷きやノートを用意しなくてはならなかった。
もちろん彼ら両親も初めは夏美の急なわがままぶりを不審がった。夏美のあまりの要求の多さに忠良も紀子も彼女に対して露骨に不満の表情を見せたこともあった。また彼女を言葉によってたしなめたことも数度ではなかった。しかしそれによって夏美の性格が軟化するということは決してなかった。むしろ両親が彼女を責めれば責めるほど、彼女はさらに両親と自身との間に築いた心理的な防壁を頑丈にし、その内側に深く篭っていってしまうようであった。
両親は夏美が気むずかしくなったことを、精神的な成長過程の一つの兆候と考え、その一時的な熱が引くまで見守っていくしかなかろうという心づもりであった。夏美の態度が急変したことが、忠良の何気ない一言に起因していようなどとは夢にも思わないらしかった。
半年たち一年たつ頃には、夏美のわがままぶりは両親の手にさえ負えないほどになってしまっていた。さすがに手を焼いた両親は、もう何の遠慮もなく夏美を叱り飛ばした。紀子にいたっては彼女に手を上げることさえ稀にはあった。家には中は毎日怒声の絶えない荒んだ空気が漂っていた。両親と激しく言い争う夏美の姿を見て、心を痛めた夏樹は玄関の外に出て一人でうずくまって泣いていた。一家を包み込む険悪な空気が、元来明るかった夏樹の性格にまで影響を及ぼし始めていた。彼女は口数も次第に少なく、どことなし暗い影を曳く少女になりつつあった。
両親も手のかかる夏美より、手のかからない素直な夏樹の方をあからさまに可愛がりだした。一家の会話の中心は常に夏樹であった。夏樹と両親が一つ机に向かい合った時、そこには元の平和な空気が流れた。しかしそこにいったん夏美が顔を出しさえすれば、空気はまたすぐにぎすぎすしたものになるのだった。
夏樹と夏美との間にも、無論会話は交わされなくなった。もともと二人で分かちあって使っていた六畳の部屋は、いつしかすっかり夏美のために独占されてしまっていた。そこに夏樹が入ろうとすると、夏美がひどく機嫌を損ねしまいには姉に対して手さえ出すというありさまだったから、自然夏樹も妹を遠ざけるしかなかったのである。夏樹の持ち物は夏美のためにしばしば荒らされた。新しい鉛筆は、すぐに半分に折られてごみばこに捨てられたりした。少しでも気に食わないことがあれば、夏美はすぐにヒステリーな声を荒らげた。そんな夏美と二人きりになることを、姉の夏樹も次第に恐怖に感じ始めていった。
学年が上がるごとに、夏美の素行は横柄を極める一方であった。もちろんそれは学校での生活でも同じことであった。学期ごとの通知表の素行点で、彼女はいつも最低の評価から脱することはなかった。女子のクラスメートに対しては横暴な態度を見せ、男子生徒に対しては執拗に自己の支配力を誇示しようとした。男子のような言葉を使い、場合によっては男子とも力づくの喧嘩をしないことはなかった。呆れ果てた担任教諭から、紀子はしばしば学校に呼び出された。そして家庭でのしつけや夏美の生活態度などについて、夜が遅くなるまで話し合うということもあった。
翌年十一歳の時に、彼女は処女を失った。相手は地元に住む高校生であった。両親はそれを知った時、決定的な絶望感を味わったのは言うまでになかった。もはや怒る気力さえなく、虚無感に覆われた頭を抱えてただひたすら沈鬱そうな表情に思い悩んでいた。夏樹は一家から離れるように、二階の両親の寝室に一人入って声を殺してただ泣いていた。紀子は心の荒れ果ててしまった夏美の体を、両腕の中にひしと抱きしめた。
「夏美。どうしてこんな子になっちゃったの。何か私たちに不満でもあるの」
噎び泣く声の下から、紀子はわが子の名を続けざまに呼びながら、必死にそう訴えかけた。しかし夏美は、母親の必死の呼びかけにも少しも返事を返そうとはしていなかった。それどころか、紀子に力いっぱい抱きしめれらたその表情には、何か母親を蔑むような冷たい微笑さえ浮かべているのだった。
「夏美。夏美――」
紀子は何度もそう言いながら、肩を揺らして泣いた。忠良もその隣で、どうしていいかわからずにただ夏美の手を握りしめていた。
夏美がこの時心中に抱いていた感情は、決して両親に対する申し訳なさや自身の起してしまった行為に対する後悔などでは全くなかった。
彼女の心中には、この時大きな自尊の花が、大輪を開いて咲いているのだった。
確かに自分は荒廃した。精神的にも肉体的にも傷だらけになった。
しかしこれによって、両親は決して自分を夏樹と取り違えたりはしないだろう。自分は両親たちの心理面において、夏樹とは別個の確立された人格を築かせることに成功したであろう。
夏美が、夏美として認識されるであろう。
そう思えばこそ、夏美は憂い泣きに沈む両親を前にして、まだ微かに口角に笑みを浮かべるゆとりがあったのである。
『自尊』 矢口晃 @yaguti
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