第伍話 【1】 一触即発の状況
この場所で、いったい何があったのかは分かりません。だけど、何かイレギュラーな事が起こったのだけは分かります。
ここ、妖界の稲荷山に入る事を許されなかった、華陽と妲己さんがいて、そしてその足下には、白狐さん黒狐さんが倒れているんですから。
あれ? でも、黒狐さんは妲己さんの旦那さんですよ。倒しちゃってますよ?
「あら? この子、入り口で会った子ね。何でここに飛んで来たのかしら?」
「う……うぅぅ。パパ、ママ……」
幼い僕は、朦朧とする意識の中で、何とかそうやって言葉を絞り出すけれど、体に力が入らずに、起き上がれなくなっています。
確か、この時の僕は……自分の中の変な感情が溢れ、体に自然と力が入ってしまっていて、まるで自分の体が、自分じゃない誰かに動かされているみたいで、上手く立ち上がれなかったんです。
そんな中、黒狐さんを見下ろす妲己さんが、黒狐さんに何か話しかけています。
「ふん。これが私の旦那? 弱いわね。いいこと? 私には逆らわず、私の言う事だけを聞いていなさい。そうじゃないと、あんたの存在を消すわよ。既に人間に忘れられそうで、もうその存在が消えかけていて、妖界でしか姿を保てない哀れな妖狐なんて、あっという間だからね」
その妲己さんの言葉に、黒狐さんが震えています。そうか……黒狐さんが鬼嫁だって怖がったのは、これですか。
だけど、ちょっと待って下さい。白狐さんは微動だにしないけれど、黒狐さんは動いた? どういう事でしょうか。
「まぁ良いわ。幼体の妖狐の言う事なんて、結局誰も聞かないでしょうし、そもそもこの子、意識が朦朧としているからね」
そう言ってくる華陽の両手には、割れてしまっている大きな石があって、それを上に放り上げ、お手玉の様にしていました。
あれは……何だか良くないですよ。凄い妖気を感じるんですけど。もしかして、華陽と妲己さんがここに来た本当の理由は、その石なのでしょうか?
「だけど、ここまで綺麗にこれが割れてしまっているとは思わなかったわね。さて……これ、元に戻すにはどうすれば良いかしらね」
そしてその割れた石を、思案顔で見ている華陽の目は、焦りもなくただ落ちついています。
普通は目的を達したなら、急いで逃げようとしたりして、少しは焦ると思うんだけれど、それが無いのです。
すると、見かねた妲己さんが華陽に話しかけます。
「華陽。こっちに近付いて来る妖気があるわ。早く逃げるわよ」
「わ~かったわよ」
流石は大妖さんです。妖気感知も、僕と同じくらいに高いです。
ただその様子を、見ているだけしか出来なかった幼い僕は、ひたすらに助けを呼ぶしかなかったのです。
するとそんな僕を、再び華陽が見てきます。
「それにしてもこの子……さっき入り口で見た時より、妖気が異質になっているわね。あの天狐に何かされたのね。お気の毒様~」
「あら本当。神妖の儀式かしら?」
その華陽の言葉に妲己さんも反応し、僕の方を見ました。でも、答える前に目を見開いて、そして少し笑った気がするんですけど……。
だけどその後直ぐ、妲己さんは真顔に戻りました。ちょっと怖いですよ。
「あんなので力を得ても、所詮は借り物よ。何処かでそのしわ寄せが来るわね」
「もう起こっているみたいよ、華陽」
「あら、本当に? あ~確かにね……社の方、ヤバい気があるわね。これ、逃げた方が良いかしら? 妲己」
「さっきからそう言っているわよ」
華陽の反応に、妲己さんはため息をついているけれど、それでも華陽は気にもせずに、その場から立ち去ろうとしています。だけど……。
「あっ、遅かったみたい。華陽、あんたがノンビリしているからよ」
「うっそ~?」
妲己さんがそう言った瞬間、光の速度と同じくらいのスピードで、突然何かがやって来て、そして華陽に激突しました。
「おっと……!?」
あまりの勢いに、凄い衝突音が辺りに鳴り響き、幼い僕も咄嗟に耳を伏せます。でも、その幼い僕を誰かが抱き上げました。
「椿! 椿、大丈夫?!」
金色の尻尾を垂れ下げ、心配そうな顔をしてくる僕のお母さんでした。という事は、今華陽に激突したのって……。
「ふん。悪い狐どもが妖気を消して、コソコソと侵入していたなんてな。だが、運が悪かったようだな」
銀色の尻尾を靡かせた、僕のお父さんでした。
激突したと同時に、華陽を思い切り殴りつけていたけれど、それを華陽は片手で止めていました。
見た目は高校生くらいの姿のままで、一回り以上も体格差があるのに。僕のお父さんの攻撃を止めるなんて、やっぱり九尾の狐だけあって、相当に強いです。
「さて、どうかしらね。さっきはそっちの人数の方が多くて、天狐が増援で来たらマズいと思ったから、別ルートで入らせて貰ったけれど、今は色々と起こっているみたいだし、多分天狐は来ないわよね」
「ちっ……気付かれていたか。それにしても、別ルートで入った? そんなのは無いぞ。という事は、手引きした者がいるのか」
すると、僕のお父さんがそう言った後に、華陽が黒狐さんの方を向いて話しかけます。
「手伝ってくれてありがとね。黒狐~」
あっ、ちょっと反応して指が動きましたよ。
それにしても、黒狐さんがこの2人をここに入れたなんて。いったいどうして?
まさか、黒狐さんが2人の味方だったなんて、そんな事はないよね?
「黒狐が?」
そして僕のお父さんは、それは信じられないと言った顔をした後、黒狐さんの方を見ます。
すると黒狐さんは、指だけを動かしていて、妲己さんを差していました。
そこは遙か長い時を生きた、僕のお父さんです。視線を動かさずに、黒狐さんの様子を伺っている様に見せています。
恐らく、その指の先に妲己さんが立っているのに、気付いているのでしょう。
その後僕のお父さんは、納得した様な顔をして、華陽を睨みつけます。
「なる程な。華陽、全てが上手くいっていると思ったら大間違いだ。さぁ、その『殺生石』を置いて、この場から去れ」
えっ? 今、殺生石って言いました?
華陽の片手に積まれる様にされている、割れた2つの大きな石。あれが殺生石なんですか?! 何でこんな所にあるんですか!
「ふふ。これは危険だからって、天狐がここに安置したのは気付いていたわ。そして、そのあなたの言いようからして、玉藻は復活できる。違うかしら?」
「それは、誰もが勝手に所持してはいけないと言う話だ」
「復活するからって事ね」
「いいや。そいつはもう、死んでいる」
「寝ているだけよ」
このままじゃ埒が明かないと思った僕のお父さんは、銀色の尻尾を華陽に巻き付かせようとします。
でも、それに華陽は気付いていて、後ろに跳んで回避しました。
「ふふ、そうはいかないわよ。それに私は、今の所計画通りと考えているわ。妲己が私を止めようとしている事も、黒狐に協力させている事も、白狐をこっそりとここに誘導していた事も踏まえてね」
「やっぱり気付いていたのね。華陽」
「当然よ、妲己。あなたは私」
「私はあなた。そうだったわね、華陽」
するとその言葉の後、腕を組んで眺めていただけの妲己さんが、その腕を解き、妖気を全身にみなぎらせていきます。
「ここでやるって言うの?」
だけど、華陽がそう言った瞬間、金色の尻尾が素早く伸びてきて、妲己さんを捕まえようとしました。でも、それを妲己さんは影の腕で止め、自分の方に引っ張っています。
「金尾。あなたは自分の娘でも心配していなさいよ。余計な妖気は使わない方が良いでしょう?」
「そうね。でもね、妲己。私は早く終わらせて、椿を天狐に見て貰わないといけないの。その為には、まだ何か企んでいるあなたを、先に止めた方が良いと思ったのよ」
そう言うと僕のお母さんは、幼い僕を鳥居にもたれかからせて、ゆっくりと立ち上がります。
「ごめんね椿。直ぐに終わらせるから、ちょっとだけ待ってて」
「うん、分かった……」
幼い僕は、まだ体が上手く動かせないでいます。だってまだ、変な感情が溢れそうになっていますからね。
僕の中で、怒り、悲しみ、辛い、幸せや楽しみ、嬉しいといった、全ての感情が入り混じり、制御出来ない強い想いが、その意志が、僕を乗っ取ろうとしていたんです。
「はぁ、はぁ……」
辛そうにする僕を、お母さんは再度見てくるけれど、心配していた顔から一転、険しい顔付きになりました。
「はぁ……馬鹿ね、金尾。私は敵じゃ無いわよ。今の所はね」
「それじゃあ、この後は敵になるって事かしら? どちらにしても、今止めておいた方が良いわね。ねぇ、妲己。いえ、“負なる者”」
あれ?! 僕の金狐状態の時のあの言葉って、お母さん譲りだったんですか?!
てっきり僕の中にある、星神の意思が作った言葉だと思っていました。
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