人柱の娘

円堂 豆子(旧:えん堂)

第1話



 まばたきをせずにじっと目を開いていなければいけないことが、こんなにつらいことだとは――咲良さくらは、それを知らなかった。


 目をずっと開けていると、目の表面が乾いていってむず痒くなる。まばたきをするのを懸命にこらえていると、涙がにじむような、奇妙な痛みも感じる。気味悪さに眉根に力が入り、顔が歪んだ。それでも、咲良はまばたきをするのを許してもらえなかった。


 責めるような視線の中で、唇を噛みしめながら、咲良はまぶたを下に下ろすまいとこらえた。でも、ある時――。


(あっ――)


 しまった、と思うより先に、まぶたが下りた。それと同時に、叱声が飛んだ。


「まだ早い! まったくこらえ性のない、未熟な娘だこと!」


 咲良の周りには、しかめっ面をして咲良を見張る女人が大勢いる。女人達はすべて湖月神殿こつきのかむどの神女しんにょで、それも、神女衆の長として国王の相談役を務める榮生女上さかおいめのうえや、その世話をする側近役など、指折りの位をもつ者ばかりだ。深緑や浅縹、光沢のある雪色をした領巾を肩から羽織り、深緋の衣をまとって――。神女達はみな、色とりどりの上等な衣服に身を包んでいる。


 榮生女上は、大げさなため息をつきながら、背後で同じように眉根をひそめる神女達を見まわした。


「我らのように、神代文かむよのふみを覚えるわけでもなく、八十神やそがみに祈りを届けるわけでもなく、ただ、まばたきをするなというだけなのに、ただこれしきのこともできぬとは――これだから、薄汚い耕民の娘は――」


(でも――)


 咲良は、言い返したかった。まばたきをこらえるということ自体が、咲良にとっては、湖月神殿に来るまで考えもしなかったことだし、それに、神女の修練の一つだというそれを始めたのは、つい三日前のことだ。もともと咲良は、好きでここへやってきたわけでもなかった。


 ひそかに肩を落とす咲良を見やり、榮生女上は丸みを帯びた顎をついとそらして意地悪く笑い、奥殿の戸口を見た。


「まあよい。そなたがその技を使う日まで、あと二日ある。その時が来るまで、稽古に励むがよい。そなたが人柱となり、聖なる月湖の水底に沈んで、水の神に嫁ぐ時まで――。今日の稽古はこれでしまいだ。そなたの寝所に、戻ってよろしい」


 咲良が、この湖月神殿に連れてこられたのは、二日後の大祭で人柱となるためだった。人柱というのは、湖に棲まう偉大な水神に捧げられる娘のことで、その神のもとに向かう娘は、湖面に身を投げなければいけない。


 つまり、人柱というのは、生贄のことだった。






(湖月の大祭は、あさって――。あさって、私は死んじゃうんだ)


 神女達の本拠地、聖なる月湖に面した湖月神殿で、五年に一度、若い娘を人柱として湖の水神に捧げる習わしがあることを、咲良は噂で耳にしていた。人柱に選ばれるのは貧しい里の娘だとも、聞いたことがあった。でも、まさかその娘になれと、自分に命じられることになるとは、思いもしなかった――。


(とうさん、かあさん、元気かな。もう二度と会えないんだ――)


 別れの朝、役人の手で無理やり引っ張られていく娘をいかせまいと、父と母は、咲良の衣の端を引っ張って地べたにうずくまった。


「何をするのだ、王命だぞ。手を放さんか! 邪魔をすると、許さんぞ!」


 役人が剣を振り上げ、今にも振り下ろしそうなふりをして父と母を脅し始めると、周りにいた里人達は父と母のそばについて、泣きながら諭した。


「王命に逆らったら、おまえ達も殺されちまう。そうしたら、他の幼子らはどうなるんだ! 諦めるんだ――。咲良は、神になりにいくんだ。大祭で人柱となった娘は、湖の水神の妻になるんだ。咲良は、これから何年も何年も、大水や日照りを防いでくれる、ありがたい女神様になるんだ――!」


 里者を苦しめる水の害を減らしているのは、人柱となって命を失う娘なのだと、湖月神殿にやってきた後で、咲良は、榮生女上からもじきじきに聞いた。神に愛される妻になるべく、それから毎日、神女の稽古に励むように、とも。


(神様――か)


 山中につくられた巨大な神殿の小道を、自分の居場所となった館へ戻ろうと、咲良は、心ここに在らずという風にとぼとぼと歩いた。


 奥殿での稽古に励むうちに、日は傾き、天には琥珀色の光が溢れていた。光の眩しさに思わず足を止めて、天を見上げた、その時。湖月神殿には白みを帯びた強烈な光が充ちて、そこに建つ舘の数々も、白砂が撒かれた道も、地面もまんべんなく包んで、きらきらと輝いた。


(きれい――。ここが湖月神殿だから、夕刻の光も特別にきれいなのかな。私は、ここにいるには場違いな、貧しい耕民の娘だけれど――)


 ぽつりと思うと、諦めが胸にすうっと広がった。


(私がこんなに貴い宮にいるのは、あさっての大祭で人柱になるためだもの。私がここにいることで、とうさんもかあさんも、里の人達も、役人から酷い仕打ちを受けなくて済むんだもの。今年みんなが食べる分と、種まき用のもみを、里に残してもらえるんだもの――)


 自分がここにいるのは、仕方のないことだ――。


 胸の戸惑いを鎮めた、すぐ後のことだった。


 咲良は、ちりーーーんという、涼しげな鈴の音を聞いた。


 咲良が立っていたのは、館と館に囲まれた庭のような場所。音の余韻をたどって、ふっと前を見た時、少し向こうに建つ舘の高殿の陰に、青年が立っているのが見えた。


 青年は背が高く、黒髪はつややかで、束ねたり、金銀や宝玉で飾ったりすることもなく、胸元までさらりと下ろしていた。純白の衣を身にまとい、極上の綾織の帯で留めて、美しい銀色の剣を佩いている。肌の色は白く、顔立ちは優雅で、美しい。とくに、目元のあでやかさは、咲良がはっと息をのむほどだった。


(綺麗な人――。こっちを見てる)


 目が合うと脅えるように緊張して、咲良は、その青年の顔から目が離せなくなった。


 青年は、微笑んでいた。


 それから、しばらくして――その青年はすっと背を向けると、舘の向こうへと歩き、遠ざかっていった。


 黄昏の光の中、少しずつ小さくなっていく青年の後姿を、咲良はぽかんと見送った。


 不思議なものを目にした気分で、目の前の景色からその青年の姿が消えてしまっても、その場を動けなかった。






(あの人は、いったい誰だったんだろう。不思議な人だった。とっても綺麗で、神々しくて――。榮生女上様とも、神女様達とも、全然雰囲気が違った……)


 翌朝、咲良は、目が覚めて早々に神殿の中をうろついて、青年の姿を探した。馬屋や炊ぎ屋、神殿の警備を務める武人が詰める兵舎など、若い青年が出入りしそうな場所はすべて覗いたが、あの青年の姿はない。でも、そんな場所にいるはずがないことは、咲良もわかっていた。


(あの人が馬番? 下男? 武人? ううん、そんな雰囲気じゃなかった。もしかしたら私、誰かとても位の高い人に会ってしまった? 国王様の御子君か、それとも――)


 実のところ、咲良は、その青年と目が合った瞬間から、青年の正体に気づいた気がした。でも、突拍子もない考えだと、頭に浮かぶなり慌てて打ち消した。


(もしかしてあの人は、月湖の水神様? 私が捧げられるはずの、湖の底に棲まうっていう――。ううん、まさか。へんなことを考えて……)






 その日の稽古が終わると、本気なのか、嫌味なのか、榮生女上はいくぶん羨むように、咲良を奥殿から送り出した。


「咲良、稽古はこれで終わりだよ。明日に備えてちゃんとお休み。この世で眠るのは、今晩が最後ね。明日からは、今よりずっと寝心地のいい、神の寝床で眠れるわ」


 その日の稽古は昼前に済んでしまい、その後は湯殿へいって、身体を丹念に清められた。上の空で侍女達に身を預けているうちに、ひと通りが済み、咲良は、寝所へ向かう道をたどった。


 寝所へ戻り、夜の帳が落ちる前から、用意された寝具に身を横たえて、眠りについた――その晩のこと。咲良は、何かが近づいてくる気配を感じて眠りから覚めた。


(何かが来る――。誰?)


 まぶたを閉じたまま、不思議な感覚をたしかめるが、すぐに、ほっとした。やって来る気配が、咲良が覚えているものと同じだったからだ。


(――ううん、わかる、あの人だ。あの人が、ここに来る――)


 そのうち、き、きゅ……と、誰かが木床を踏むような音もし始めた。


 きっ――。木床を踏む音が、寝床に横たわる咲良の枕元まで近づいた。そして、目を閉じた向こう側で、ふわりと、何かが浮くような気配がした、その、少し後のこと。咲良は、頬に触れる柔らかな手のひらを感じた。


 思わずびくんと震えて、飛び起きた。


 あの青年がそばに来ているとは思ったが、まさか触れられるとは思わなくて、咲良の心の臓は今にも壊れそうなほど高鳴った。


 思い切って目を開けると、そこには、予想していた通りの青年の姿がある。その人は寝床のそばの床に膝をついていて、咲良を見つめて微笑んでいる。闇の中でも白く輝く美しい衣と、袴。床に触れて、かたんと音をたてた銀色の剣。胸までさらりとおりたまっすぐな黒髪に、白い肌と、麗しい顔立ち――。


 逢うのはたった二度目なのに、なぜか、ずっと前から知っている人に逢うようで、青年がすぐそばにいると思うと、咲良は嬉しくなった。青年のほうも、顔を合わせるのは二度目だというのに、まるで昔から縁のある娘を訪ねるように遠慮をせず、自分のものに触れるように、咲良の頬へと再び手を伸ばした。


 咲良の頬を手のひらで包み込むように撫でて、青年は、真夜中の静寂に似合う柔らかな声音で、静かに囁いた。


「昨日、黄昏時にそなたを見つけてから、そなたのことばかり想った。また逢いたいと、ずっと想っていた。だから、こうして訪れた。――僕の訪れを、許してくれるか?」


 胸が、どんどんと高鳴っていった。咲良も、同じ想いだったからだ。


「は、はい……! 私も、昨日あなたと目が合ってから、あなたのことばかり考えていました。あの、私の名は、咲良です――」


「咲良か――。花の名だな」


 くすりと笑って、青年は、手のひらでいっそう咲良の頬を包み込む。そのうち、手のひらは頬から離れて、咲良の黒髪を撫で始める。極上の織物を愛でるような優しい手つきで何度か撫で、ついには咲良の肩を抱き、自分の胸元へと抱き寄せてしまった。


 青年の腕や温かみにふわりと包まれると、咲良は、顔がどんどんと火照っていくのを感じた。こんなふうに青年から抱きしめられたのは初めてのことだった。そして、自分を抱きしめる相手がこの青年であるのは、どうしようもなく嬉しかった。


 身を任せて、じっと為すがままになりながら、咲良は震える声で尋ねた。


「あ、あの……あなたは、水の神様ですか? 月湖の守り神様ですか?」


「水の神? ――人か神かと問われれば、神だと思うが、僕もよくわからない」


(やっぱり、月湖の水神様だ……)


 神だと告げられたことには驚きもしたが、咲良は内心ほっとした。それなら、この青年は、自分にとって無縁の相手ではないからだ。むしろ、こうしてそばにいても、なんの不都合もないはずだ。


 一目で恋に落ちた相手がこの青年だったのだと思うと、咲良はどうしようもなくほっとして、幸せな気分になった。


「あの、それでは、月湖君つきこのきみとお呼びしてもよいでしょうか?」


「その名か。――よい、許す。そなたが呼ぶ名なら、どれでもきっと嬉しい」


 青年は、一度、咲良を自分のもとへ強く添わせるようにぎゅっと腕に力を入れた。


「――そなたは、実にいい香りがするな」


「それは、今日、清めの湯浴みをしたからです。菖蒲の湯に浸かりましたから」


「花の香りのことをいっているのではない。そなたは、心優しく芯の強い娘だ。心地よい、澄んだ香りがする。――いい香りだ」


 褒められると、恥ずかしくてたまらなくなった。でも、嬉しくて仕方なかった。


(私も、同じ想いです。あなたのそばにいると、心地よくて――)


 月湖君と呼ばれることになった青年の言葉は、どれも咲良の心中の想いと同じだった。


 身を任せてうっとりしていると、ふいに青年の口調は、別れを惜しむ風に変わった。


「もう、いかなければ――。明日の夜、また来る。僕を待っていてくれるか?」


「明日の、夜?」


 うなずきかけたものの、答えを飲み込んだ。咲良は、明日の大祭で人柱となり、湖の底に沈むことになっている。咲良の命は、明日の大祭で終わるのだ。


 でも今は、それが寂しいとは感じなかった。


 咲良は、にこやかに微笑んだ。


「では、明日の夜は、私が、あなたのおそばにまいります」


「そなたが、僕のそばに?」


 明日、咲良は大祭で人柱になる。人柱になった娘は、水の底に沈んだ後で湖の神の妻となって、これから何年も国を守る神になる――。


 それが大切な役目だとは理解していたし、妻になりにいく相手がこの月湖君だと思うと、もはや咲良に不安はなかった。


(この方のそばにいけるなら、本望よ。喜んで湖に沈むわ)


 胸の底からそう思って、目の前で自分を見つめる美しい青年を見上げた。


 月湖君の澄んだ目を見つめるうちに、咲良は、はっと息を飲んだ。


 月湖君は、まばたきをしなかった。目はいつも開かれていて、美しい石像と見まがう奇妙な印象を帯びている。


(神様って、まばたきをしないんだ。ああ、だから――神女はあんな稽古をするんだ。あれは、神様に近づくためなんだ――)


 湖月神殿へ連れて来られてからの稽古は、ちゃんと意味のあることだったのだ――そう納得しつつ、咲良は、月湖君にわかってもらおうと説明を続けた。


「実は私は、明日の大祭で水の神に捧げられる人柱で、月湖に沈むことになっています。ですから、明日は、私があなたのおそばへ出向きます。大祭は五年おきにひらかれているので、五年前、それから十年前にも、あなたのもとに娘がいっていると思うのですが――」


 すると、月湖君の表情が曇った。月湖君は、秀麗な眉をひそめた。


「人柱――? そんな娘など、来ていないよ」


「えっ?」


「その祭があることを、僕は知っている。でも、いくら湖に沈んでも、人は神にはなれない。人柱になる娘は、ただ命を落とすだけだ。僕のところには、来られないよ」


 咲良の顔から、血の赤みがさあっと引いていった。


「でも――」


「そなたが、あの祭の人柱になるのか? 愚かな――。あれは、人がつくり出した幻に沿った、祈りの芝居にすぎない。――そなたは、明日、身を投げるというのか」


「うそ……うそです。五年前にも、十年前にも、その前にも、何人もの娘が湖に身を投げているんです。その娘達は、いったいなんのために死んだのですか――榮生女上がおっしゃることが、間違いなのですか?」


 咲良の目から涙があふれて、ぽろぽろと頬にこぼれた。がたがたと、身体も震えた。


「人柱となった娘達は、水の害を阻むこともなく、神の妻にもなれず、ただ単にむなしく水底に沈むために死んだというのですか? 私も、そうなるのですか――? あなたのところへも行けずにただ死んでしまったら、もう二度とあなたに逢えなくなるのに、それと引き換えにしてまで、どうして――。あなたにお会いできるのは、これが最後なのですか? ……いやです、そんなのはいや!」


 これまでかかえていた不安や悔しさが、一気に蘇って押し寄せた。


 青ざめた咲良は、とうとう最後に、気がふれたように叫んだ。


「うそです、あなたはうそをいっています――!」


 しかし、はっとすると、慌てて唇を閉じる。月湖君の麗しい目が、不機嫌に翳ったからだ。


「僕が、うそを?」


 まばたきをしない神々しい目は、咲良を拒んだ。


「僕は、人がするような穢れた言葉は口にしない。僕が、うそを口にすると――? そなたは、僕をおとしめたな」


 それから、咲良を睨みつけるように見て、ある時、すっと夜闇に消えてしまった。



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