あなたのおねだん
北西 時雨
第1話
そのときの俺は、所謂中学受験を控えた小学生だった。
受験に挑む理由をあえてあげるならば、ゲームやテレビの話しかできないクラスメイトや教科書のことしか教えなかったり小学生相手だと思って真面目に話をしなかったりする教師に少々反抗的な態度を取っていたいから、というのがあると思う。
一人で考え事をしたり本を読んだりする方が好きな俺は、ただ馴れ合うような同世代との感覚のズレがあった。価値観のズレと言ってもいい。ただ同じ地域に住んでいるというだけで、話が合う方が変なのだ。だから――自分が望む環境に身を置けば、人が苦手だなんて思わなくて済む。そう、単純に考えていた。
幸い成績は自分で言うのもなんだが優秀で、第一志望に入るには申し分なかった。それでも、両親からの期待、クラスメイトからの誹謗中傷、塾生の視線、そんなものに疲れてしまっていた。
あの日も長時間の塾の授業に耐えて、遅くに帰ってきたあと宿題を片付けて、ベッドに入ったのは日付が変わっていた。こんな生活も、あと少しなのだ。
人が苦手だ。そう考えるようになったのは随分幼い頃からだった気がする。
一体何の為に俺に近付いてくるのか。親しげに接するのか。分からないから。
善意を持って接してくれているのか、それとも悪意を持っているのかも、分からない。
しかも、見ただけでは分からない。分かることもあるけれど、殆ど無い。
誰と付き合えば良いのか、自分と人との関係はどう持てば良いのか、分からない。……簡単に、分かればいいのに。
そんなことを考えながら眠りについた夜。……あの男が夢に現われた。
その男は黒いシルクハットを被り、黒いコートを着ていた。黒い革手袋に黒い靴。手には黒いステッキが握られている。全身黒ずくめの男の人相は深く被られたシルクハットのせいでよく見えない。
俺達は濃霧の中で対峙していた。シルクハットの男はステッキに両手を添え、真っ直ぐ立っていた。
「力が欲しいか?」
ちから……?
俺の考えが聞こえているかのように、男が続ける。
「そうだ。多くの者とは一線を画す、力」
何を言っているんだ、この男は。
「それは己を支配し、他を支配し、また滅ぼす」
コツコツと靴の音が鳴る。シルクハットの男が近づきながら俺に語りかける。
間近で向かいあうと意外に背が高い。圧倒されて、俺は二三歩後ずさりする。
「それでも、力を欲するか?」
男に完全に気圧されていた俺は声も出なかったが、強く思った。
――欲しい、と。
するとシルクハットの下から覗く口が三日月型に歪む。
「いいだろう」
男が右手を俺の前に出す。手から赤い光の球がこぼれ、次第に白く、大きくなっていく。光が俺の視界を覆い尽くしていく中、男の声が微かに聞こえた。
「――うまく使えよ」
目が覚めると朝になっていた。
カーテンの隙間から眩しいばかりの朝日が目に当たる。
妙に重たい体を起こすと、珍しくひどく寝汗をかいていた。
なんだ、今の……夢? シルクハットの男が出てきて、それから……。
頭が痛くて上手く思い出せない。とりあえず、顔を洗ってこよう。
俺はのそのそと起き上がって洗面所に向かう。
顔を洗い、鏡で自分の顔を見て、――驚いた。
頭の上部。ちょうど額の上辺りに蝋燭の火のような赤い数値が並んで浮かんでいる。何度も目を擦って確かめてみる。幻覚のようには見えなかった。
慌ててリビングに行く。俺の顔色が優れないのを、台所に立つ母親が心配してきた。俺は母親に適当に言ってごまかしたが、その母親の頭の上にも赤い数値が揺れている。
ニュースを映しているテレビを見ると、キャスターにも、録画映像のインタビューもその後ろに行き交う人々にも、赤い数値が浮いている。
一体どうなってるんだ?
俺は用意された朝食を摂り、会話もそこそこに家を出てきた。
町行く人々の頭の上にも数字が揺らめいている。
何かの番号か? それとも寿命か?
番号にしては桁が揃っていない。もし、人間に番号を振ってあるだけなら、情報整理のために決まった桁数にしているはず。だが、行き交う人々の数値の桁はバラバラだ。
寿命、と考えると、死ぬまでの残り時間か或いは死ぬ日付け、ということになる。しかし残り時間なら皆一様に減っていくはずだし、(一概には言えないが)子供の方が年寄りや大人よりも残り時間は長いし、後に死ぬはずだ。この数値にそういった規則性はあまり見られなかった。日付なら、やはり桁が揃っていないといけない気がする。
じゃあ、なんだろう?
教室で授業を受けているときも、休み時間でも、その赤い数字はクラスメイトや教師の頭の上で揺れていた。どうも、クラスメイトよりも教師や大人の方が全体的に高いようだ。
大して骨も身もない授業を受けて、クラスメイト達との会話もそこそこに教室を出る。
一度家に帰り、荷物を入れ替えて母親が作った弁当を持ち、家を出る。電車に揺られて塾に向かう。
電車の中でも赤い数値の観察をする。向かい側に座っているだらしない若者より、その隣に座った同じ年くらいのスーツの兄さんの方が数値が高い。やる気の高さを表してるのか? しかし、さらにその隣で気合いはバッチリ入った感じで化粧をしている女性と、だらしない若者と数値の高さはあまり変わらない。
電車が駅に停車する。向かい側のドアから、杖を付いたおばあさんがヨロヨロと入ってきた。夕方の電車の中はちょうど座席が埋まっている状態だった。
おばあさんがすぐ近くのドアから入って来ても、目の前の三人は席を替わる素振りすら見せない。他の乗客もそうだった。仕方なく俺は立って、おばあさんに席を譲る。おばあさんは少し驚き、いいの、と聞いてきた。
「僕、次の駅で降りますから」
一応本当である。
おばあさんは顔をほころばせ、ありがとう、と言って座った。俺は、少し離れたところのドアの前に立つ。
ふと、ガラス越しに自分の数値を見て、驚いた。さっき――最後に自分の姿を見たのは家を出る前だが、――よりも、上がっている。
ガラスの自分の後ろに映るおばあさんを見る。やはり柔らかい笑みを浮かべていた。
やたら熱い講師が算数の授業をしている。この塾自体がなんとなく熱い感じで、その中でもこの講師は相当暑苦しい。
中学受験対策をやっている塾の中でも実績のある塾だから、塾生の殆どは多少熱くても仕方なく受けてる感じだ。ただでさえ長時間勉強しなくちゃいけないのに、そんなにエネルギーを振りまいていたらもたないだろうに。
「いいかっ! お前たちのやってきたことは全部無駄にならない!」
無駄なことをやらせているつもりだったのかあんたは。
さっきから何か言う度に講師の数値が微妙に上がったり下がったりしている。
「頑張れば頑張るだけ、点数は上がるんだ。付いた力はお前たちを裏切らない。お前たちはすごく頑張ってきた。もしかしたら受からないかもしれない、なんて考えるな!」
そんなのこと考える奴どんだけ弱気なんだよ。あ、でも今隣の奴ビクッてなったな。図星か。
「今まで頑張ってきたお前たちにはそれだけ『価値』がある!」
俺は全くと言っていいほど話を聞いていなかったが最後の一言にひっかかった。
……価値、か。なるほど。
この上に見えているのは、人の「価値」なのではないだろうか。
そう考えると、なんだか妙に納得できる。何か言う度に数値が上がり下がりする講師も、数値の低いクラスメイトも、電車で席を譲ったら俺の数値が上がったことも。
ふと、シルクハットの男が言っていたことを思い出した。
力、だと。
だが、これはただ「見える」だけだ。それこそ死期が見えるとか未来予知なら見えるだけでも使い道はあるが、これだけではどうしようもないじゃないか。人や自分の「価値」が分かったところで、それを自在に変えられるほどでもないのだから。
「力」なんてものではないではないか。
「あ……あのぉ……」
授業が終わった後、隣でビクついている奴が話しかけてきた。
「なに?」
俺は教科書から上目遣いでそいつを見る。うわ、こいつの「価値」低っ! 今まで見てきた人の中でも一際低い。
そいつは俺に目を向けられた瞬間ビクついて縮ませた体を更に縮ませて、ぼそぼそと言う。
「さっきの授業で分からないところがあって……」
「はぁ? そんなの先生に聞きに行けばいいだろう?」
俺が睨み付けるとそいつは更に小さくなり、ただでさえ少ない「価値」が少しずつ下がっていく。
「あの、その……ちょっとしばらく休んでたから……」
「なら余計先生に聞きに行けよ。そもそも自分でやろうという気はないのか?」
俺がそう言うとそいつは、ぐうの音も出なくなって、しばらくキョロキョロしたり俺を恐ろしげにチラチラ見ていたが、そのうちトボトボとどこかへ行ってしまった。
やれやれ、受験組にいるのにああいうやる気がないのがいると困るよな。先生に聞きに行きもしないし、学校のクラスのバカな奴らより更に「価値」が低いなんて、実力もしれている。
そう考えて、ハッと気づいた。
この力があれば、「価値」の高い人物とだけ付き合うことができるじゃないか。不利益な人間は適当にあしらえばいいし、有益な人間は利用すればいい。
人は見た目では分からないなんて言うけれど、これなら分かるじゃないか。
帰りの電車の中。女子高生らしき何人かが、今付き合っている男が悪いだとかどうのとかそんな話をして騒いでいる。
周りを気にせずに騒いでいるせいで、彼女たちの「価値」が少しずつ下がっている。
自分の男についての話をしていた女が何か言っている。
「たとえばさあ、その男が本当に自分と付き合っていい人間かどうか分かればいいのにね。お店で売ってる物みたいに値札付けてさ。貴方はいくらいくらです、って」
「なにそれ趣味悪ーい!」
そう言って彼女たちはゲラゲラと笑っていた。
そう、その値札が俺には見えるんだよ。そして、お前らの「価値」は、俺よりも低い。
誰と付き合えばいいか分かることが、こんなにラクなことだとは思わなかった。
「価値」の高い奴というのは、成績の良い者、収入の高い者、人気者で人脈が豊富な者、或いはその他何かの能力に秀でた者のようだった。そういう人間と仲良くするのに損はない。逆に言えば、何の「価値」の無い者と付き合っていても時間の無駄だ。
俺は次第に、「価値」の高い者としか付き合わなくなった。それと同時に、自分の「価値」を上げるのに精を出した。
勉強をすれば成績は上がって同様に「価値」も上がった。成績優秀者や人気者と仲良くすれば人脈も広がって良く思われるようになった。
それは、受験が上手くいって第一志望の中高一貫校に入学しても変わらなかった。むしろ、それからの方がよりそういった付き合い方をしていた。「価値」の高い者とうまく立ち回って人望を集めていた。着実に自分の「価値」を上げるのが最優先だった。
好成績で中高を卒業した俺が進学したのは都内の私立大学だった。地方から上京するのに抵抗はあったが、やりたいことが出来て且つ就職に有利そうなところを選んで受験した。その大学の同級生の連中は皆粒ぞろいの「価値」の高い者ばかりだった。
大丈夫だ。俺の選択は間違っていなかった。そう思っていた。
入学式やガイダンスの期間が終了し、授業が始まって、二~三週してからの昼休みのことだった。人気者で「価値」の高い奴が話しかけてきた。
「お前さぁ、午後の授業出る?」
「あぁ、出るけど? てか必修だろ?」
俺は当たり前のことを答えたつもりだった。
「え!? マジで? お前真面目だなー。出席も取っていないしツマンネー授業一回や二回休んだところで大丈夫だって」
俺は最初言っていることが分からなかった。
ソイツは俺の様子なんて気にせずにしゃべり続ける。
「お前受けるんならさ、代わりにノート取っといてくれない? 俺バイト入れちゃってさー。ソッコー行かなきゃいけないんだよね。それじゃっ!」
結局俺が良いとも嫌だとも答える前に去って行ってしまった。
……授業エスケープって、「価値」の無い奴がやることだろ?
今まで仮に成績が悪い奴でも授業はちゃんと受けてたし、人気者で怠けているような感じの奴でも勉強はしてた。学校の授業よりバイトの方が大事だなんてことはなかった。それが、当たり前だった。
ここにいる人間は、「価値」の高い者ばかりだ。そんなことするわけがないと思っていた。
アイツも本当は大学生になって浮かれているんだ。だからきっと、成績も「価値」もそのうち下がっていくに違いないのだ。そう思うことにしよう。
だんだん皆が学生生活に慣れてくると、授業に毎回出席する奴は殆どいなくなっていた。毎回休む奴は確かに成績が悪くなって単位を落としたり留年したりしていたが、多くの者はグループを作って交代で休んだり、俺のような毎回授業を受けている「くそ真面目な奴」にノートや出席表を頼んでふけて、テスト前だけ勉強して単位を取るような感じだった。「友達」がいれば、そうそう上がれないなんてことはなかった。
そして俺は決してソイツらには「友達」と思われていなかったと思う。むしろこちらが思いたくなかったかもしれない。アイツ等にとって俺は「ただの都合のいい奴」だった。
そして不思議なことに、不真面目な奴らほど「価値」は着実に上がっていた。一方俺の「価値」は少しずつだが確実に下がっていった。
何故かなんて、分からなかったし知りたくもなかった。俺は自分の「価値」が下がっているなんて思いたくなかったのだ。親元から離れ、人外の能力を持って、相談する相手も心を許せる者もいなかった俺は、心底孤独だった。
友好の輪を広げようともした。だが、俺が何を言っても皆苦笑するか眉間に皺を寄せるかだった。まるで俺がおかしなことを言っているかのように。
元から人付き合いは得意でなかったのがここで露呈してきた。ますます人が信用できなくなり、あまり話さなくなった。
世間で言う「就活」の期間になった。不況の波もあってか、俺が行きたいような企業は非常に狭き門になっていた。
何度も履歴書を書き、数えきれないくらい面接官と対面した。面接をする度に俺の「価値」は下がっていくようだった。面接官と質疑応答をし、反応が良くないとそれだけでひどく取り乱して何も言えなくなった。そもそも、まともな友人も恋人もおらず、部活やバイトなどの課外活動もろくにしていなかった奴が、いきなり面接官と話すことには無理があった。
周りの者が内定を取れていく中、就活期間が延びるほど、また俺の「価値」も下がっていった。
結局、正規雇用は確保できず、しばらくバイトで食いつなぐことになった。
バイト先は繁華街の中華料理店だった。
客商売とは縁遠かった俺には覚えることが沢山あった。考えられないような初歩的なミスをすることも多かった。ミスをする度に、今どきの若者はダメだとか、覚えが悪いだとか、いいとこの私大出はこれだから、などと散々言われた。何か言われる度に、俺は必要以上に焦り、ミスも増えていった。
その青年に再会したのは、しばらく経って、少し仕事に慣れてからだった。
ある日の昼食。休憩を独りで取っていた俺を気遣うように寄ってきた。あまりにも久々に話しかけられて、初めは誰の事だか分からなかった。
「あ! 久しぶり。 十年ぶりくらい?」
やたら馴れ馴れしく話しかけてきたその青年は、俺が中学受験のときに少し話した塾生だった。当時はビクビクしていたが今はヘラヘラしている。
驚いたのは青年の「価値」の低さだ。じりじりと下がっている俺よりも低い。小学生の頃からあまり変わってない気がする。気になって、あれからどうしていたかと聞いてみた。受験に失敗して地元の公立中学に行ったがイジメられて不登校になり、それからひきこもりになり学校には行ってないそうだった。成績もよくなかったのに、小学校でイジメられていたから受験を考えていたらしい。
最近ようやくひきこもりから脱出して上京してきたそうだ。やはりここに来たのはバイトだった。
青年は俺よりもどんくさく、ミスも多かった。皿を持たせれば割るし、包丁を持たせてば手を切った。
仕方なしに、少し先輩で仕事にようやく慣れてきた俺が世話を焼くことになった。
すると不思議なことに、俺の「価値」が少しずつ上がっていった。案外人の世話が焼けるじゃないか、という意味らしかった。
表面上でも優しくしておけば「価値」は上がる。そして、俺より「価値」の低い青年は俺の引き立て役に最適だった。
青年が来てしばらく経った。さすがに毎回皿を割るほどではなくなった頃。昼休みになり休憩室に行こうとしたとき、廊下の端から俺についての会話が聞こえてきた。青年相手に何人かが質問をしてる感じだった。反射的に物陰に隠れて話を聞く。
「え? じゃあお前ら幼馴染的なものなの?」
「それほどでもないですよ。向こうは私のことはあまり覚えてないみたいですし」
「なんだぁつれないなぁ。結構仲良くしているみたいだけど」
「そうですか? そう見えるなら良かったです。あの人、いつも独りでいるようだったので」
「そうなのよー。なんか『俺に近寄るな』オーラみたいなの出してない? だからみんな最近はあの子には最低限の意思の疎通しかしてないの。ま、それも分かってるかどうか怪しいけど」
「そんなことはないですよ。昔から頭はいいですし、私が間違えたときはちゃんと注意してくれます」
「頭いい、ね……。どこかのいいとこの私立大卒らしいけど、そのなれの果てがフリーターか……。そうなっちゃ、成績良くても何にもならないよな」
そのまま一行はこちらに歩いてくる。俺は慌てて物陰から離れ、近くのトイレに隠れ、一行が通り過ぎるのを静かに待っていた。
鏡で自分の姿を覗く。青年の「価値」は、いつの間にか俺よりも高くなっていた。
そしてしばらく経ったある日。あの青年はいなくなっていた。
きっとひきこもり癖が今頃になって出て来られなくなったんだ、と思って俺は妙にほっとしていた。しかし、店長に詳しく聞くとどうも違ったようだ。
この店には正社員登用制度というものがあったらしい。しばらくバイトとして働き、適性試験に受かると晴れて正社員。それでアイツは異動していったそうだ。
「まぁ、お前も頑張れよ」
店長がそう言って肩を叩く。他の者の、背後での囁き声が、やけに大きく聞こえる。
俺の「価値」は、小学生のガキ並に低くなってしまっていた。全てのことを受動的に機械的にこなすだけになっていた。やりたいことも、できることも随分少なくなっていた。俺のことを気遣う奴も仲良くする奴もいなくなった。昔の友人には会わせる顔がない。
毎日クタクタになってアパートに帰り、ゴロンとベッドに横になる。
ある夜。沈黙を破って、ケータイが鳴る。重たい体をねじり、ケータイを開く。母親からだった。
ここのところ実家に帰ってないから最近どうしているのか、と言った内容のものだった。母親は、俺がまともに就職できなかったことを知っていて、気に病んでいた。
電話口で母親が中高の友人が今は大企業に勤めているだとか海外の大学院で留学中だとか結婚した者がいるとか、そんなことが遠くに聞こえた。
「貴方今どうしているの? 全然帰ってこないし……就職は決まったの? 安定したところにいなきゃ……」
そうか、そうだな。
母親は続けてこう言った。
「昔は優秀だったのに……」
そうか、そうだな。
「……もういいよ」
俺はただそう言って一方的に電話を切ってついでに電源を落とす。
ケータイをカバンの上に放り投げ、そのまま俺は眠りについた。
何ヶ月かして、青年が戻ってきた。正社員として、だ。
奴はのんきに自己紹介をし、俺には馴れ馴れしく話しかけてくる。
会ったことある奴にもない奴にも親しげに打ち解ける青年を見ていると、なぜだか妙に手が震えた。
その震えた手のまま作業をする。案の定、料理を乗せて置いてあった皿を引っかけて、落として割ってしまう。焦った俺は慌てて拾おうとして破片で手を切った。じんわりと痛みと血の赤いしみが手に出来る。
一部始終を目撃した青年が近寄ってくる。膝をついてうなだれている俺に笑顔でしゃがんで言う。
「あーあー。手で拾おうとしたらダメですよ。今箒と塵取り取ってきますから、あなたは休憩室で手当てを……」
「……おい」
不意に出した俺の低い声に、青年が驚いたような顔をした。
「お前何が『ダメ』だって?」
喉の底からおかしな声が聞こえる。切った手が痛い。
「いつもいつもヘラヘラしやがって……」
俺が急に立ち上がると青年も驚いて立ち上がって一歩下がる。近くの鏡が俺たちの「価値」を映している。
「あ……の、落ち着いてください。ここは私が片付けますから、あなたは休憩室で手当てを……」
俺たちの様子がおかしいことに気付いた他の者が囁いている。俺たちの「価値」の差が少しずつ開いていく。
なんで、なんでうまくいかないんだ。俺が何をした。
硬直している俺を青年が困ったような目で見る。
「そんな目で俺を見るなああああ!」
自分の口が閉じる前に近くの包丁を握り、目の前の人間を刺していた。
悲鳴が聞こえる。俺の腕は肘まで真っ赤になった。
鏡の中で俺の「価値」が揺らめいている。ゆらゆらと揺れて、減って
「この人殺しっ」
近くにいた従業員がつかみかかってきた。衝動的に腹に深々と刺す。
「価値」が……ゼロ……マイナス……?
俺の、「価値」は。
やたら心臓の音が激しく聞こえる中、呆然とした俺を何人かで取り押さえようとしているところだった。
「昨日午後3時ごろ。○○区の中華店で起きた殺人事件について――」
どこかの白い病室。私はベッドの中で体を起してテレビニュースを見ていた。画面には、容疑者の顔写真――かなり若いので学生時代のものだろう――が写され、キャスターが、容疑者は学生時代は温和で優秀な人物であったこと、だが友人は少なかったこと、就職に失敗してフリーターだったこと、などを語っている。
私はぼんやりとテレビを見ている。知ったような口で、随分勝手なことを言うよな。
そう思っていると、病室のドアがノックされる。どうぞ、と言うとその人物はゆっくり入ってきてドアを閉め、こっちを向く。
「お久しぶりですね」
そこにいたのは、シルクハットの男だった。ドアを閉めながら、嫌みったらしく私に言う。
「あの距離で刺されてよく生きてたな」
「ホント死ぬかと思いましたよ」
私はおどけて首をすくめる。
あの男に私はかなりの至近距離からザックリと刺された。だが悪運が強いのか、出血がひどかった割には傷を縫って輸血をすれば大方大丈夫だった。後から止めに入ってきた人の中には亡くなってしまった人もいるし、他にも怪我をした人がいたのだから、そう考えると冷や汗が出てくる。
私たちはテレビのニュースに目を向ける。
「随分下がりましたね」
私は、殺人犯として護送される男の頭上の数値を見ながら言う。
「えっと、マイナス……?」
負の数になった桁を数える私を遮って、シルクハットの男が尋ねる。
「見えるのが怖いとかは言わないんだな」
「ええまぁ」
私はキョトンとして首を傾ける。
「人に会うのが怖くて部屋に閉じこもっていたお前がな」
シルクハットの男が鼻で笑う。私は表情を暗くして、手で目を押さえながら言う。
「確かにこの力は恐ろしいものです。人の『価値』が見える、一つの数値で人との間に上下を作る、また私も自身の『価値』を必要以上に気にするようになります」
「ほぅ」
男は興味深げに相槌を打つ。
「私はそれが怖かった。そもそも私は何かこれと言って胸を張れるものを持っていたわけではないですからね」
私は自虐的な笑みを浮かべる。
「誰からも必要とされていない。そう思えてひきこもりになりました。人と会いたくなかった。人が自分より『価値』があるとはっきり分かるのが、怖くてたまらなかった」
私はしばらく言葉を切る。
「でも、なんか違うかなって思い始めたんです」
私は顔を上げてシルクハットの男の目を見ながら言う。
「なんと言いますか……確かに、自分の『価値』は決して高くないかもしれない。でも、だからって自分は必要ないとか小さくなってなきゃいけないわけではないんじゃ、って」
「開き直りか?」
男は、ベッドの近くにあった丸椅子に腰かける。
「そうかもしれません。でも、どんなに高価な洋服や宝石でも、皆が欲しがるものでも、自分にとって必要かどうか、欲しいかどうかなんて分からないでしょう?」
私の表情が少し柔らかくなる。
「そう思えたら気がとても軽くなって。外に出て、色んなことをやってみたくなりました。最初は沢山失敗しました。ただでさえ低い『価値』が下がることも少なくありませんでした。それでも応援してくれる人がいたり、些細なことでもいいことがあったり、少しずつでも上手くできるようになって。諦めずにやっていたら、だんだん認めてもらえるようになりました」
「そいつはよかったな」
男は肩をすくめながら言う。
「……あいつもな、お前と同じ力を持っていたんだよ」
「え……?」
「お前とあいつは正反対だった。お前はこの力に怯え、あいつは上手く利用しようとしていた」
「私にも利用できるほどの頭があればよかったのですが」
私は肩をすくめる。シルクハットの男は頭を振った。
「いや――どうやらこの力は人に扱えるようなものではないらしい」
「貴方は、何者なのですか? 一体何のためにこんな事を……」
「説明しても分からないよ。というより、本来私は君たちの発想や言語というものの外にいる存在なのだ。『今』、『ここ』にいるのは、ちょっとした気まぐれと手違い。そして実験だった」
「実験?」
「あぁ。そういうのが一番近いと思う」
ため息まじりにそう答えながら、立ち上がり窓辺に行く。
「――やっぱり、人は愚かなものなのだね」
シルクハットの男は窓から空を見上げた。
あなたのおねだん 北西 時雨 @Jiu-Kitanishi
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