第160話
あまりに過小評価過ぎた。
あの赤い髪の妖狐は最初に出会った時から絶えず手加減をしていた、対峙して打ちのめされた者は五体満足でいるし、昨夜忍び込まれた時も何人かが気を失った程度でしかなく、そして先程も、数十人が海に落とされずぶ濡れとなったものの怪我人の1人すら出ていない。故に彼女が明確な殺意を持って源氏と敵対した時、最低でも200人から300人、下手をすれば1000人以上の兵が死ぬ事になるだろうと義経自身は見積もっていた。だから可能な限り敵意を見せないよう振る舞ったし、平氏陣営に姿を認めた後は、万一に備えて彼女に対抗する為だけの矢を確保し、四方八方から間断なく射かけて一方的に撃破する作戦を立てていた。
だがしかしそれは、そう、あまりに、あまりにも過小評価過ぎたのである。
「なんつーか思想的に、私とお前は似ているような気がしてたが、考えてみればある一点で決定的に違うな。自分自身で何か失った事が無いだろう」
「ぐ…かは…!」
全長20mほどある兵船の先頭に立っていた義経であったが、激痛を訴える体を起こしてみれば後端まで移動していた。突然発生した爆発によって船は焼き付き、しかし浸水までは起こさず水上に留まっている。
「お前は英雄だ、そりゃ未来(わたし)の目から見りゃツッコミ所は無数にあるが、現時点において極めて模範的な存在には違いない。だが…そういやそうだ、私は復讐者だった」
今の一撃で皆吹き飛ばされたか、船上には義経しか残っていなかった。周囲の味方も似たようなものだ、彼女は降り注ぐ無数の矢を飛翔する水晶ですべて防ぎ切り、水面を駆けて急接近するや真紅の剣を振って前方100mを薙ぎ払うような衝撃波を起こしていった。それを受けた船は材料である木材から急速成長した枝や葉、花を咲かせながら漂っていて、海上はさながら花見の様相。見た所既に50艘がやられ、1艘に10人乗っていたとすれば海へ投げ飛ばされた者は500を数える。そして恐ろしい事に、ここまで来てさえなお、怪我人こそ出しても死人は1人も出ていないのだ。一思いに殺してしまえばもう終わっているだろうに何故、ああいや、殺さないのは道理であった、死んでしまったら絶望できない。
「義経様!」
「後退せよ!残っている矢はすべて使うのだ!」
今まで通り人をからかうような、しかしどこか物悲しく笑う妖狐がゆっくり歩いてくる。痛む体に鞭打って立ち上がり、今乗っている船に近付いてきた別の船目がけて思い切り跳んだ。それには薙刀を握る僧兵がおり、義経が乗船してすぐ転舵、東へ船首を向ける。
第2回戦とばかりに一斉攻撃が始まった。雨霰と降り注ぐ矢はしかし1本たりとも妖狐には届かず、元より外れていたものはそのまま沈み、直撃軌道を取るものだけを9本の赤い水晶が漏れなく弾き飛ばしていく。そこから先は1回戦目とまったく同じ光景だ、海上を疾駆する彼女によって味方の船が爆破され、風に切り刻まれ、その度に人が投げ出されていく。
「くぅ…!」
義経の船を掠める形で衝撃波が抜けていった。空間自体を揺さぶるそれは軌道上にいたすべての船を天高く打ち上げ、一拍遅れて絶叫が響き渡る。心の底から恐ろしい、あれだけの事をしてただの1人も殺さないのだから。
「退がれ!退がれぇ!陸へ辿り着くのだ!そうすれば……な…」
少なくとも機動力は確保できる、と言う前に、船と入れ替わりで暗緑色のトカゲが降ってきた。
妖魔か、あるいは羅刹か、それは全速で後退する軍の先頭へと直滑降を行い、落着寸前で飛膜を有する前腕を一打ちする。発生したのは強烈な突風だ、ゴミのように飛ばされたのは4艘、あたりの十数艘からも人が転げ落ちていく。再上昇したトカゲからの追撃は無かったが、目指すべき陸地上空で待ち構えるように旋回を始めてしまい、恐らく上陸すれば襲ってくるだろう、立往生せざるを得なくなった。
「御身だけでもお逃げくだされ!かくなる上はこの武蔵坊弁慶が時間をかせばぁぁぁぁぁぁっ!!」
吹っ飛んだ、水切りの石みたいに水面を跳ねていく、見ていて気持ちよくなる吹っ飛び方だった。背後を守ろうとしていた僧兵は自慢の薙刀だけを残していなくなり、恐慌状態に陥ってしまった漕ぎ手達が悲鳴も上げれず震える中、彼女はのんびりと乗船してくる。
「きつい言い方になるが、お前の言い分は遠い夢の国での出来事を語ってるようなもんだ。自分に被害が及ばないと思ってるからすました顔で理想を語って、その後それを”仕方ない”の一言で片付ける。自分にとって大切な何か、例えば家族なんかを失った事が一度でもある奴は現実を甘受したりはしない、こんな風に」
「家族……」
「最初は兄だった、次に父、母、慣れ親しんだ生活。それと遠ーい親戚をついさっき、ここでお前みたいに妥協したら、次は義姉かね」
「そうか…そうだな……確かに私はまだ何も失っていない、自分なりに最善手を尽くしてきたつもりだが、そなたから見れば弱者をいたぶっただけか……」
腰の太刀を抜き中段に構える、微塵の脅威も感じていないだろう妖狐は直刀をだらりと下げたまま、相変わらず笑って見つめてくる。
「幼い頃、私はすべての争いを撲滅できると本気で信じていた、失念したのは何時だったろうか。源氏が天下を握れると確信した時か、兄上と会って話した時か……思い出せた、私はこんな有様を、世界から消し去りたかったのだ」
「ふむ」
「……まだ、間に合うだろうか」
「そりゃ人に聞くもんじゃない」
それもそうか。
正しいと思ったなら実行するべきだ。
「全員聞け!我が軍は現時点で解散する!坂東へ帰る者は金を持っていくがいい!」
太刀を構えたまま背後へ告げた、当然ながらざわめきが返ってきたが、意に介さず、更に続けて言う。
「今より私は戦を滅する為に生きる!源氏の将という立場を捨てるのだ!私に従う理由は無い!好きにせよ!」
「ッ……」
これでいい、失う事を恐れていたからこんな場所まで来てしまったのだ、ならば何も無い所から始めてみよう、と、今はそう思う。この世から争いが無くなる事は無い、彼女が言うならそれは真実であろう。しかしそれでも、自分のこの行動が他の誰かの未来に繋がるなら、それは正しいと。
「不可能だと笑うなら笑え!確かに何をすればいいかはわからぬ!だが私は夢見てしまったのだ!誰一人としてこんな思いをせずに済む世の中を!」
が、そこで、笑っていた妖狐の表情が急に変わり。
「伏せろ!」
その瞬間、銀色の刃が胸から生えてきた。
「それは逃げであるな」
無論本当に生えてきた訳ではない、両目を見開いて後ろを見れば、薄紫の具足を身に付けた大男が刀を義経の背中へ突き立てていた。
小松又兵衛、急に現れ雇って欲しいと願い、彦島攻撃へ向かわせていた、恐らく彼女と同じ境遇の者である。
「が……貴…様…!」
「形はどうあれ自らの望みを押し通す行為はそれ即ち争いよ!人死にの有無など何の関係があろうか!」
送れてやってきた激痛、異物感、失われていく血液。ぐいと横に押しのけられ、刃が引き抜かれると同時に船上に倒れる。
「争いとは人の有り様そのもの!人がある限り絶える事は無い!お主はすべての人を滅ぼすつもりか!」
倒れた際、体の半分が船から出てしまったから、勢いそのままずるずる落ちて、やがて海中。視界が水で埋め尽くされる直前に妖狐の姿が目に入り。
「は…………」
その顔は明確な、怒りの表情を浮かべていた。
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