第69話

まさか逃してしまうとは思っていなかった、いや、逃げるとは思っていなかった。対峙する赤い斧男は右腕を肩から斬り落とした途端に飛び上がっていってしまい、戦闘を始める前に場所を移すべきだったとまず悔やむ。奴の進路上には市民の集められた避難所があり、そこに突っ込んでいった瞬間こそ曳光弾の帯が撃ち上がったものの、急いでそこに向かった頃には防御陣地は崩壊していた。運良く生き残った僅かな兵士は体勢を立て直そうとしており、しかしもはや群がる雑兵すら押し返せなくなった彼らは次々と首をはねられていく。その先の建物群にいる市民も同じ、雨と風の音を打ち消すほどの悲鳴が至る所から聞こえてきた。


「は……ぐぅ…!」


息が荒くなる、頭が真っ白になる。

一帯に詰め込まれていた人数は4万ほどだろうか、それほどの人数が削り取られるように死んでいくのだ、そんなものを前にして顔色を変えずにいられる人間はそうそういないだろう。だがここで円花が彼らにしてやれる事は無い、人だろうが鬼だろうが1人は1人、個人で軍には立ち向かえないのだ。


「どこに行った…!」


飛び去っていった方向、避難区画の向こうには主幹の壁がそびえている、それぞれの枝の根元に市民を集め、主幹を背にして敵の襲ってくる面を減らしつつ、必要最低限の人員で防衛ラインを構築しているようだ。この区画は崩壊してしまったが、上下にいくつもある他の枝の部隊は健在で、今も激しく銃撃を行っている。あのひとつひとつに大勢の人間が身を寄せているのだ、これ以上の失態は許されない。

力の限り地面を蹴りつけ、主幹を削って作った連絡通路をひた走る。間も無く反対側に達し、同じく曳光弾をばらまく部隊を見て回る。

そのうちのひとつ、すぐ下の枝に赤い男はいた、右腕を失い、左腕だけで斧を振るっている。たった今陣地に据え付けられていた機関銃のひとつが叩き潰された所だったが、射手は間一髪で逃げ出し武器をライフルに切り換えて戦闘を継続、残りの機関銃と共に雨霰と弾丸を浴びせるものの赤い肌にすべて跳ね返され足止めすら叶わず、そのうち奴はまた斧を振り上げた。人的被害はまだ出ていない。まだ間に合う、枝端から思いきり飛び降りて一気に移動を終え、地面を震わせ着地。


「させるかぁぁぁぁぁぁ!!」


叫び、疾駆を始めた瞬間、手元で何らかの振動が起こった。違和感を感じつつも一心不乱に走り、機関銃の前に躍り出て、勢いそのまま左下から右上へと斬り上げる。

切っ先の軌道に沿って閃光が走った。


「な…!?」


直前に振り下ろしを開始した斧と大太刀の刀身は接触し、通常ならば幾らかももたず力負けして折れるだろう大太刀はそれに反して大斧を持ち主ごと両断して見せた。胸から上を失った赤い男は仰向けに倒れる体を一度だけ踏ん張らせようとしたが、すぐに力尽き地響きを上げて倒れ伏す。霧になって消えていくそれを一瞥し、次に手元の大太刀に目を移す。

円花自身にあんな鉄塊を一刀で断つ力は無い、明らかに今目を覚ましたのだが、武甲正宗は再び沈黙している。今の今までその瞬間を渇望していた、それは事実である、しかし何故今なのかがわからない。吸った血の量で目覚めるならばタイミングが遅いし、そもそも唐突に過ぎる。意味がわからず放心してしまったが、射撃を再開した機関銃の発砲音で我に返り、迫っていた足軽兵を咄嗟に斬り伏せる。円花に向けて何か叫ぶ背後の兵士を置いてその場を離れ、雑兵を蹴散らしつつ枝先方向へ。


そこで気付いた、もう1体向かってくる。

今の斧男とは明らかに違う、一目見ただけで格上とわかる風格を持ち、身に纏うのは赤地に金の装飾を着けた甲冑と、大きな2本角の鍬形(くわがた)を備える兜。その内部には青い着物が見えるがそのさらに内、人物の表情はやはり雲のように曖昧で判別できない。体長は同じく3メートル、右手に握る刀は相応に長大で、およそ1.5メートルの刀身を持つ。地響きを鳴らすことなく静かに着地したそれは1歩前に出て刀を持ち上げ、顔の真横に柄が位置し切っ先は上、柄の頭を包むように左手を添え、バッティングフォームにも似た八相の構えを整えた。それが現れた途端に雑兵達は退いていき、2歩3歩と前進する大名然とした狩猟団頭領に対し大太刀を中段で構える。が、無意識に円花の足は後退し、両手は小刻みに震え始めた。相対しただけでこの威圧感、ただ退がる事しかできない。


「くぅ…!」


自分は何の為にここまで来たのか、7年追い続けた相手が目の前にいる、体にどれだけ言い聞かせようとその足は半歩たりとも前進したがらない。あれほどあった、あると思っていた憎しみは、実際対峙してみると顔を見せる事すらなく、ただただ恐怖だけが湧いて出てくる。そうこうしている内に相手は加速を始めた、そうなればもう選択肢は無い、立ち向かわなければ死が待つのみ。

顔の横にある刀を必要最低限の動きで打ちおろす、日本刀が軍隊の主武装だった当時ならではの軌道である。威力や即応性に難があるものの刀を構える体勢において最も体力消費の少ない構え方で、抜刀したまま長時間移動し続ける為のものだ。当時は武者同士の一騎打ちが多発する時代、先に動いた方が負けなんて言葉がそのまま適用される世界だった。その情勢の中でこの八相(はっそう)という構えは生まれたのだが、一騎打ちという状況自体が絶滅した現在、疲れにくいというだけの構えも廃れていく事になる。すなわち、短時間の使用を想定する現代的な構えの円花の方が戦術上有利、であるのだが。


カウンターを狙って斬り上げた武甲正宗の刃は相手の体に触れることなく、3メートルの高所から落ちてきた刀に叩き返された。


「ぐ…がぁッ…!」


打ち勝てないと判断した時点で刀身を横にずらし受け流した、それでも腕の骨が折れたかと感じる程の衝撃が伝わり、痛みに悶える間もなく切り返した刀の2撃目が下から迫る。なんとか防御を間に合わせたものの、接触した直後、円花の両足は地面から離れ、民家の屋根を飛び越えて機関銃陣地の前まで戻ってきてしまった。

かなりの高度に達したが昨日の赤い狐から喰らったものよりは体感的に軽い。本物の攻撃も受けてみた結果彼女はやや盛っていたという事が判明したが、落着した瞬間にそんなものはどうでもよくなった。全身に激痛が走り呼吸困難に陥りつつ地面を転がって、それでも大太刀は手放さず立ち上がろうとしている間に足音、地響きを伴う奴のものともういくつか、普通の人間が鳴らす軽快なものだ。誰のものかは考えるまでもない、今ここで自由に動き回れるのは軍人だけである。


「大丈夫か!?今助けるからな!」


「駄目だ…離れろ…!」


「後退するぞ!全周防御だ!」


地響きが止んだ。


「離れろ!」


半ば無理矢理に立ち上がり横にいた軍人を押しのけるも、その眼前では既に1人が首をはねられていた。ひとつめの手柄を上げたそいつは途端に銃弾を撃ち込まれ出し、それをまったく意に介さず次を求めて刀を振りかぶる。


「当て続けろ!第9陣地!至急応援を……」


構え終えた長大な刀身を見て、無線機に向かって怒鳴っていた彼は言葉を失った。

もはや間に合わない、痛む体の制御もできないまま、急加速する切っ先を見上げ。

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