第14話

「スズ」


「んー?」


ごしごし、ごしごしと雑巾を上下に動かす、床に描かれてから随分経つ魔法陣はなかなか頑固だった。帰宅してからすぐ取り掛かったのだが、気付けばあたりはもう暗く、降り始めた雨も止む気配を見せない。とはいえ終わりは間も無くだ、内部は完全に消し終え、外周にあった円もあと僅か。

もともとこれは天使の召喚陣であった、天使以外のもんも召喚できないかと色々いじくり回しているうちにわけわかんない事になったが。


「昼に会った青い髪の方は野狐だと言っていましたが、あなたは天狐てんこなのですか?」


「うん、まぁ、そう」


同じく雑巾で床を擦るアリシア、手を止めずにそう質問した。


「この分類はどういうものなんでしょう」


「うーん……分類っていうよりは順位かな。霊力とか神通力とか呼ばれるもんがあって、生まれてから何もしてないとほとんど力を持ってないから野狐、少し力を持つと気狐きこ、すごく力を持つと天狐、天狐になったあと一定期間で引退して空狐くうこ。基本的に、力を高めるために長い間修行しないといけないから、狐としての順位と社会での順位は反比例する事が多いね」


「修行…したんですか?」


「してない」


相変わらずごしごしと雑巾で音を立てる、外でもしとしと雨が鳴る。主幹付近の密集地なら隣の家の話し声や物音が聞こえたろうが、ここは枝先、家の間は離れている。時折、ぱしゃぱしゃと足音が聞こえる程度。


「どうせこの後余計なのが来て余計な事言い出すから先に言っとくけど、狐のうち9割は野狐と気狐だから。天狐になりたいと思っても、才能に恵まれた人が義務教育終了後から延々と修行し続けて老年期に差し掛かる頃にようやくなれるってのがほとんどかな。気持ちがあったってそれだけじゃ食べていけない、神社なんてそう多くある訳でもないし、普通に就職するのが一般的」


「ではスズは?」


「生まれた時から天狐だったよ」


神官だとか祭司だとか色々やらされるしいい事ないけど、と付け加える。


「野狐気狐と天狐の見分け方は衣装を着た時に耳飾りが付くかどうか。昔はもっと決まりがあったらしいけど、あたし含めてあーだこーだと切ったり貼ったりしてるから服装は気にしないほうがいい」


「その衣装ですが、あなたはあの時、スイッチを切り替えるように姿を変えていましたよね。全員できるのですか?」


「いや、天狐だけ」


「戦闘能力を有するのは?」


「それも天狐だけ……よし」


魔法陣は完全に消え去った、これでもう夜な夜な白い物体をでろでろする事はない。雑巾を流し台の下に引っ掛け手を洗い、アリシアは炊飯釜の火を止める。うっすい味付けの夕飯が出来上がるまでまだあるな、と腕を上げ伸びをして、その直後。

ぱしゃり、ぱしゃりと足音が近付いてきているのが聞こえた。


「…………」


スズが感付くより遥か前に察知していただろうアリシア、無言のまま鍋に味噌を溶かし入れている。ほら来た、と思いながら玄関へ。


ゆっくりとドアを開けると、青く、非常に長い髪の女性が和傘を差して立っていた。


「……ご挨拶が遅れすみません、物見ものみ家より参りました、現海軍少将を任されています物見雪音ものみ ゆきねという者です。御身分を隠されているように見えましたので、あのような態度を取らせて頂きました」


「うん、それは正解だったけどさ」


深々とお辞儀するそいつを見ながら壁に肘をつく。服装は昼と変わらなかったが羽織はちゃんと袖を通していた、後は若干化粧が厚くなった程度。


「まさかこんな所にいらっしゃるとは……」


「すぐバレたら意味ないじゃんさ」


んで、キミは一体何しに来たのかね、と言ってみる。正直何を言われるかわかりきっているのだが、雪音と名乗ったそいつは表情を引き締め。


「お戻りください、姫様」


「嫌だ」


向こうもこの返答はわかりきっていた、困惑などしようがない。しかし諦めもしない、1歩詰め寄る。


「正室もできたっていうじゃん」


「某略により無理矢理迎えられたものです、それでは意味が無い……。今でさえ朝堂院が機能していないというのに、これ以上揉め事が続けばすべて崩れてしまう」


さらに1歩、どうでもいい事をわめき立てる。


「姫様がお戻りくだされば我々はすぐにでも…!」


「黙れ」


「っ……」


本当に。


「二度とあそこには戻らん、そしてこの場所は口外するな。理解したら退がれ」


「…………かしこまりました……」



ばたりとドアを閉めた。少し間があったがぱしゃぱしゃ離れていく音がして、それを確認してからキッチンへ。戻ってくると味噌汁は完成、白米は蒸してる最中、フライパンでなんかの魚が照り焼きされていた。まだもう少しだけかかる、部屋の隅の窓際へ。


「誰ですか?」


「知らない人」


「いえ、私が言ったのはあなたの口調の事ですが」


敷かれているカーペットに寝転がって窓の外を眺めてみる。暗闇の向こうは海のはずだが、距離が離れすぎていて波音はしない、そもそも雨音がうるさすぎる。そのまま動かずぼーっとしていたら、やがてコンロの火が消えた。できたかな、と思ったら、フライパンをそのままアリシアがこっちに歩いて来た。


「スズ」


「ん……?」


少女は横に正座する、いつも通り表情の無いまま。


「嘘は無しです」


「う?うん……」


上体を起こす、少女に向き直る。


「あなたは本来なら今よりずっと高い地位にいなければならない、そうですね?」


「んー……まぁ家出してなかったら今頃は内裏にしまい込まれてたろうけど」


「そこに未練は?」


「ない」


「では後悔は?」


「……わかんない」


外を見る、雨は降り続く。


「私にとって命令は絶対です、そう作られていますから。あなたにとってはそうではない事は理解しています、ですが自由の身になったとして、その後はどうするのですか?」


「それもわかんない……」


「わからないのなら知るべきです」


それは118年間研究所に居続けたせいで得てしまった思考か。


「シスターが言っていました、どのような人の物語でも最後には希望を抱いて終わらなければならないと。その観点で考えるならば私の物語は既に終焉を迎えています、ですがあなたは」


「いーーの」


視線を外す、再び寝転がる。


「そういうの、もういいんだよ」


「…………そうですか」


背後で立ち上がる音がした、それから雨音に紛れてカチャカチャ食器の音。食事の準備はもう終わり。


「いいんだよ……ね…」


雨はしとしと降り続く。

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