三章③ ワイルド・スピード スカイラン

 垂直の壁を走る。全速力で走っている。地面に向かって。


 ヴィーナとサクヤの腰にはつる性の植物、校舎の壁を覆っていた常緑のアイビーが幾重にも巻きついていた。壁に密着していたアイビーがはがれる抵抗がブレーキになってはいるが、走るというより落下の半歩手前と表現したほうが近い。


 恐怖が理性を上回ったのか、蒼白のヴィーナはがむしゃらに足を動かしている。耳元を烈風が吹き、髪が真上――壁を駆け下りるサクヤにとっては真後ろに流れる。

 校庭が迫る。

 止められないダイブの正面に障害物。鳴り続くサイレンが気になったのか、三階の窓から男子生徒がひょいと頭を出したのだ。


「女を下からのぞくものでなくてよ」


 サクヤはその顔を踏みつけ走り抜けた。

 窓を開けた当人にしてみれば、目の前に靴底が現れたとしか思えなかったろう。気の毒をしたと反省しかけたが、サクヤの生足&下着をコンボで拝めたのだから差し引きで大幅プラス。

 あとで差額を取り立てねば。

 一瞬で過ぎ去った男子の顔を脳裏にしかと刻む。


「壁を蹴ってヴィーナ、はやくなさいっ!」


 隣を走るヴィーナの腕を強引に取って跳ぶ。

 腰に巻かれていたアイビーがするりとほぐれ、空中に投げ出される二人。

 青ざめたたヴィーナが、がむしゃらに抱きついてくる。ここにきてようやく恐怖が追いついたのか、彼女は超音波に手が届きそうな悲鳴を発した。

 

 騒音側の耳をひとさし指で塞いだサクヤは、自由な右腕を伸ばす。

 そこに巻きついたのは細い鞭。

 急激なブレーキと引き換えにサクヤの右腕が真上に引っ張られるも、じん帯が伸びきる前に両足が地を踏んだ。

 スタイリッシュに降臨したサクヤにやや遅れ、ヴィーナが四つんばいで無様に着地。


「ごくろうさま」

 

 校庭に植えられた柳へサクヤはねぎらいを送った。柔らかくも強靭な柳の枝は、折れることなくサクヤたちの落下速度を吸収してくれたのだ。

 大地に降り立ったサクヤの背後に、タイヤが焦げつく音が迫る。あわてふためく生徒の脇を、真横になった車がすべり抜けてくる。


「おい! あんたらケガは――」

 

 急ブレーキで横づけされた車両から飛び出た大柄な男子生徒は、こちらを見るなり絶句した。サクヤは棒立ちの相手にかまわず後部座席に乗りこむ。

 

「あちらの煙の場所まで行ってくださいませ……もし、そこの方? わたしは急いでいるのですけれど」

「運転中にいきなり白山比咩神しらやまひめのかみの声で命令されたと思えば、あんたか!」


 白山比咩神――ククリの公名が出てきたことに相手を見れば、なんとなくおぼえがあった。たしかヴィーナを捕らえたときにしゃしゃり出てきた口だけ男で、名を……。


「木村さん、でしたわね。あらいやだ、これ自警科の車ですの? どうりで臭うわ」

「田村だ! ミコトってやつはどうしてこう……ええい、行くぞ!」


 大きな図体が運転席に収まると、サクヤの隣にヴィーナが駆けこんできた。すこぶる邪魔であったが、蹴り落とす前に発進したのであきらめた。



 サクヤたちを乗せた自警科車両が、サイレンを鳴らし並走する車両群を抜き去ってゆく。運転手に技量もあるのだろう。この男も一つくらいは取り柄を持っているようだ。


「久しぶりだな姉ちゃん、あんときゃ手荒な歓迎してすまなかったな」

「気にしてないわ、犬のやることですもの。臭うので口を閉じていてくださる」

「あんたに言ってねぇよ」


 外壁作業の研修中に誤って警報を鳴らした留学生、というのが表向きのヴィーナの肩書だ。将来が有望視されている他学区からの交換留学生であり、ミコトであるサクヤが直々に面倒を見ていることになっている。

 

「なんで置いてこうとするのよ。私のこと、引きずり落としておいて」


 後部座席で窓を向いていたサクヤに、ヴィーナがにじり寄ってきた。


「向かっているのは災害現場よ、ヴィーナが役に立つとは思えないけれど? それと、窓から落ちたのはあなたが邪魔をしたからじゃない。一人で行くつもりだったのに」

「私は助けようって、サクヤ落ちちゃうってビックリして、だからっ!」

「ねぇヴィーナ、あなたはわたしの能力を知っているのよ。どれほど足りない頭でも、想像くらいして。そして今日みたいな真似は二度としないで」


 ヴィーナの顔が憤慨の色に染まった。


「なによ……なによそれ!」

「やめとけ姉ちゃん。ミコトってなこうなんだよ。生まれ持った力が人間の価値を決めると考えてる救えない連中さ。高慢の二文字が息して歩いてる木花咲耶姫神このはなさくやひめのかみにしろ、なにくっちゃべってるか皆目わからねぇ白山比咩神しらやまひめのかみにしろな」

「あなたいま、わたしとククリをバカにしたのかしら?」

「世論てヤツだよ。どいつもこいつもやってらんねぇのさ。あんたみたいな特権階級が生徒会でふんぞり返って政治ゴッコときた。デキ過ぎて困っちまうヤツが、遺伝子がロクでもないと難癖つけられ地ベタ這いずり回ってるってのによ!」


 サクヤの体がふっと軽くなり次の瞬間、投げ出されるようにドアへと押し付けられた。前を走っていた車を強引に抜いたのだ。出てしまいそうになった悲鳴を強引に飲む。


「消えちまった化学兵器が、そいつらの手に渡ってねぇことを神サマに感謝するんだな。そうでなけりゃ、生徒会室はいまごろ神経ガスまみれだったろうさ」

「まるでありかを知っているような口ぶりね」


 神経ガス。

 サクヤが捕えた者が運んでいたとされるものだ。現在も行方が知れない。


「化学兵器の横流し小僧はタマなし野郎さ、裏稼業相手にカラ売りする度胸はねぇ。運び屋はブツの中身を知ろうともしないデキたクズだ。自分の手でいたぶるのが趣味のミコトサマはそんなモンに見向きもせんだろう。つまるところ迷子の神経ガスはどこにもないのさ。このテの話はゴマンとあってよ、盗ったはいいが捌く先に悩んでお蔵入りってな」

「一番ありそうなのが抜けてるわよ。自警科がポケットに入れた可能性を」

「ハッ、おれが持ってたらとっくにあんたのケツに突っこんでる」

 

 運転席の後ろに座っていたサクヤは胸から万年筆を抜くと、尖ったペン先を運転手の首筋にあてた。


「なっちゃいねぇな姫サマ、白山比咩神しらやまひめのかみに頼まれてわざわざ来てやったんだぜ? 頭ん中でパープー語わめかれた身になれってんだ。本校舎に行けってのを理解できたおれをほめてくれよ……いい加減に手ぇどけろ小娘、こちとら運転中だ」

「吐いた言葉は戻せませんよ。乗車賃で購えるとは、ゆめゆめ考えなさりませぬよう」

「やめなよ!」


 サクヤの手が払われ、自警科の上着が置かれた助手席へ万年筆が飛んでいった。


「だれかを助けに行くんでしょ? そのために急いでるんじゃないの? なのに連れてってくれるひととケンカしてどーすんのよ! アキちゃんいないとそんな事もわかん――」


 考えるよりも早く手が動いた。


「偉そうになによ! さっきもわたしを助けようとか対等のつもり? ちょっとばかり一緒にいたからって友人気取り? わたしはミコトよ、あなたと釣り合う関係じゃない!」

「なんでひっぱたくのよ! 脳みそうんでんじゃないのっ」

 

 左頬を押さえたヴィーナがサクヤをにらむ。


「頭いいくせにどんだけバカだよ! このひとはサクヤを助けてくれてるんだよ、仲間なんだよ? 仲直りしなよ、いっしょにあやまってあげるから」

「バカはどっちよ! 頭を下げるべきはどちらかなんて……どうして毎日突っかかってくるの? ほっといてよ、わたしのこときらいなんでしょ? わたしだってそうよ、ヴィーナの生まれた所がだいっきらい。無礼で頭の悪いあなたのことがすごくいや」

「やめなってば。そんな威張りんぼじゃ、いつかひとりぼっちになっちゃうよ」

「わたしは羊飼いよ、羊と慣れあう気なんてないの。いいこと教えてあげる。わたしが友だちと思ってる人間なんか、この街には――」

「サクヤッ」


 ヴィーナが叫んだ直後、車が減速しサクヤは運転席の背にキスをする羽目になった。

 目を閉じてしまったせいだ。

 気が遠くなりそうな羞恥にサクヤは襲われた。

 街の守護者として何度も死線をくぐり抜けてきた。なのにヴィーナに頬を叩かれると思っただけで身がすくみ、目をつむってしまったのだ。


「ミコトサマよ、じきに進めなくなるぜ」


 道路の電光掲示板に渋滞の文字が点滅していた。火災のため交通規制がかかったのだろう。大型のトラクターであれば薄っぺらい車など踏みつぶして進めるのに、自警科の車両選定はどうかしている。なにもかもが腹立たしい。


「端に車を寄せて、早くなさい!」


 運転手に叫んだサクヤは後部座席の窓を全開にした。


「……続きはあとよヴィーナ。木村さん、あなたにも言い足りないことがありますが、いまは彼女の子守りをお任せします」


 田村だ! 

 返された声は暴風にかき消された。

 窓から身を投げると思わなかったのだろう。目を見開いたヴィーナを乗せた車は、車道へ落ちてゆくサクヤからあっという間に遠ざかっていった。

 

 風に飛ばされた細身が、後ろから迫る車とアスファルトの間でひき肉になる寸前、一本の街路樹が巨人の手となってサクヤをキャッチ。急ハンドルを切った後続車のバンパーに枝を砕かれながら、先なる樹木へ主人を放り投げる。

 

 ムササビさながらに街路樹を跳び進んでゆくサクヤを、並走する車中の面々が驚愕の表情で見送っていた。

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