第2章 海の街
二章① 会長室の秘め事
書類から視線をはずした
空には限りがある。
変わることのない現実を確認した村瀬は、窓へと歩み寄った。
遠方の牧草地で動く白い点は放牧された羊だろう。夏の光から逃げるように、羊たちは木陰を目指して歩んでいる。
足元に広がる商業区には制服姿が絶えない。昼の街が作り出す活気はエアコンの効いたこの部屋にまで伝わってくる。そのことに誇りに感じていると、正門から入ってきた女子生徒がこちらを仰ぎ見た。
昼休みの時間を気にしているのだろう。村瀬がいるこの部屋の数メートル上には、動いているのが奇跡なほどに古い大時計がある。土台の建物も似たようなもので、色あせた外壁に何本もの亀裂が走っているのがガラスごしに見てとれた。
ところどころ壁を這うつる性植物とヒビ割れのマッチングは、涼しさを通りこして心霊スポットの雰囲気すら漂わせている。実際、夜のライトアップはたまらない。
「歴史ある校舎とはいえ、そろそろ全面改装すべきだとは思わないかね、
「先の会議で決まった予算では、破損がひどい部分の修繕が精一杯ではないかと」
おっとりとした声は、壁際に置かれた事務机から届いた。
生徒会長秘書 天沼ナミ。
プラスチックのネームプレートが置かれた机では、眼鏡をかけた女子生徒が山と積まれた書類の整理をこなしている。あざやかな手さばきはカードをシャッフルするディーラーを連想させた。
「頭の固い役員ばかりで嫌になるよ。心機一転、丸ごと建替えようというぼくの意見を、あそこまで躍起になって潰さなくてもいいと思うけどねぇ」
「生徒会が機能している証拠です。第六学区の長として誇るべきことではないでしょうか」
手を止めることなくナミが答えた。机上に配られた書類の山は、生徒会長である村瀬が処理すべき順に並べられているのだろう。
「機能ねぇ……もしやきみも反対派だったかい天沼くん。
書類から目を離したナミは、ちょっと困ったなという表情で村瀬を見た。
「生徒会が新校舎を独占していると広報科につつかれたばかりですよ。このタイミングで会長室のある本校舎に巨費を投じたら、一般生徒は不信感をつのらせます」
「うまそうなニンジンは用意するつもりだったさ。それしても建替え以外に通らなかった案件がこうもあるとはね」
ナミが分類してくれた資料の表紙を、村瀬は中指の背で叩いた。
「自警科の予算はあいかわらずの右肩上がり……いまの役員は血の気が多くて困るよ」
「そういうこと、外でこぼさないでくださいね。問題になりますから」
おだやかないさめに肩をすくめた村瀬は、再開されたシャッフルをながめる。
ナミが身につけているのは一般生徒と同じ制服だが、彼女が着ると格式ばった感がある。束ねられた長髪の雰囲気とあいまって、近寄りがたい雰囲気さえかもし出していた。
かの桜木サクヤは針をたためないハリネズミだが、真逆のタイプにみえる天沼ナミに同じような雰囲気があるのはなぜだろう。
どうでもいい思考に意識を沈めていた村瀬の前でディーラーがシャッフルを終えた。
書類整理を終えた秘書が眼鏡のブリッジに指をあて、位置を修正する。細い金属フレームの奥で瞳が動き、壁際の村瀬をちらとみた。
「村瀬会長、いつまでそうしていらっしゃるおつもりですか?」
「癒されるまでさ。天沼くんが仕事をしている姿が、ぼくはなにより好きなんだ」
赤く微笑んだ秘書に、村瀬は密かに自負している笑みで応じる。
手ごたえあり。
うぬぼれるわけではないが背は高いほうだし、メディアには決まって甘いマスクと評される。生徒会長として評価されたことがないのは、はなはだ遺憾だが。
ややあって顔を伏せた天沼ナミは照れたように口元に手を当てると、やわらかな動きで机の受話器をとった。
直後、目にもとまらぬ速さで番号をプッシュ。
「──人事科ですか? 私、上司にその……ええ、関係を迫られて……名前、ですか?」
「おちつこうじゃないか天沼くん!」
走り寄った村瀬はナミの手ごと受話器を戻した。
「ほらほらぼくって生徒会長だし、びっくりするくらいささいな誤解がとんでもない事態に発展するなんてこともあるしね? ね?」
まくし立てる男を相手は見ていなかった。ナミの視線は受話器を握る手に重ねられた、村瀬の右手に刺さっていたのだ。
間髪いれずに制服のポケットに反対の手を突っ込んだナミが、携帯電話を取り出す。
「──自警科ですか! 破廉恥な上司に身体を……無理矢理っ」
「天沼くん、大事な箇所で詰まるのはやめようじゃないか! ほらあれだよ、あたりさわりのない話がねじれてこじれて、想定外のことがおこってしまうよ」
「──大事な秘所をさわってこじってやるって、想像できないことをしてやるってそう言ってます! 私……脅迫されてますっ!」
「ちがーうっ!」
村瀬が叫んだ瞬間、生徒会長室の扉が勢いよく開いた。
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