柊織之助

 私って何だろうと、ふと思う時がある。

 いや私は私なのだろうとそう思うのだが、それがたまにそうは思えなくなる。

 やけに現実味を帯びた夢などを見た朝には向こうが本来の私なのではないかと思えてくる。

 そう思う事はないだろうか? 今の自分が自分と言える自信はあるだろうか。あるのなら私は羨ましく思う。

 私はそんな自信がない、ないから様々な事に対して不安に思う気がしてならない。

 紛れもない自分自身の手を見て首を傾げる。理解してもらえるだろうか。難しいだろうか。

 とにかくどうしようもなく自分が自分だと思えなくなる。それは崩れるはずのない地面が不意に崩れ落ちていく感覚に等しい。

 今ままでの常識や、理屈が通用しなくなる。そんな感覚。

 かの有名な人はこう言ったらしいじゃないか「我思う、ゆえに我あり」と。

 彼は自身の存在を疑う事こそが自分自身の証明になると考えたらしいじゃないか。

 確かに冷静になれば、更に言うと彼の目線になればそうなのだろう。

 だが、この不安は拭いようもないではないか。私が私ではなく他人が他人ではない。

 確認したところで答えは誰もがYESと答える。

 だが疑いの目を持ってしまったらもう遅いのだ。他を信じ己を信じることはもう。

 これは私個人の意見でしかないが、人間は確実に、揺るがない自信を持って自分自身を証明することは不可能に近いのではないか。人間はその点において酷く脆いのではないかと。

 聞いたことないだろうか、鏡の自分に向かって「お前は誰だ」とそう言うだけで気が狂いそうになるらしいじゃないか。

 自分が自分なら鏡に映った自分もまた自分。

 疑う余地などないはずなのに、なぜ気がこうも狂いそうになる?

 鏡の中の自分がいきなり勝手に動き出すか? 動かないだろう。だがそれも今だけかもしれない。それがたまたま自分の見ている前で動き出したらそれこそホラーというものだろう。

 だが科学的根拠に基づこうがなんだろうが、不安や恐怖は拭えるものではないと私は思う。少なくとも私がそうだ。

 疑う余地などなく自身を自身だと言えるのならやってみて欲しい、鏡の前で言うのだ「お前は誰だ」と。

 それでできたのならあなたはそういう人だったのだろう。できないと思うのなら私の話に少しは共感してくれるのではないだろうか。

 私は何かオチを付けて話したいのではなくただ不安なのだ。いつか自分が居なくなることを。

 ある日私の人格が入れ替わっても知人達は疑わないだろう。その頃私というものはいなくなり、別の私になっていても。

 では人は他人をどこで見ているのだろう。

 人間の皮を被って動けばそれを含めてその人というのだろうか。

 それでは中にいる者が変わったとしても気付けないじゃないか。

 とは言え人の人格というものが視覚化できる話でもない。つまるところ確証のしようがないものを無理にでも確証し、否定できないようにしたから、ふと不安に駆られるのではないだろうか。

 よくあなたも考えてみて欲しいと私は思う。

 自分が何者か。

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柊織之助 @orinosuke

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