070.名前-Name-

1991年6月2日(日)PM:17:46 中央区特殊能力研究所三階


 息も絶え絶えな白紙 伽耶(シラカミ カヤ)と白紙 沙耶(シラカミ サヤ)。

 二人は床に伏せている。

 疲労困憊といった感じで汗だくだ。


 一方、二人と相対していた朝霧 紗那(アサギリ サナ)。

 彼女は比較的涼しい顔をしていた。

 多目的トレーニング場に少し早く到着した伽耶と沙耶。

 先客だった紗那に、軽い気持ちで訓練を持ち掛けた。

 その結果が、今の状態だ。


「皆様が来るまで、休憩していた方が良さそうですね」


 呼吸も落ち着いてきた伽耶と沙耶。

 立ち上がると伽耶が紗那を見た。


「紗那ちゃん、強かったんだね」


「こうやって戦ったのはじめてだけど、勝てる気がしなかったよ」


 悔しそうな表情の沙耶。


「そうですか? 私なんてまだまだですよ」


「そう考えると、三井さんの隣に並ぶのって大変だよ、沙耶」


「な・な・な・なんでそ・そこでそんな話しになるのよ、伽耶」


 若干顔を赤らめた沙耶が、微妙にしどろもどろになった。

 空気を無視したように話題を変える紗那。


「そう言えばお二人とも、常に両腕にブレスレットをしていますけど何でです?」


 ジャージの腕部分を捲り上げている二人の両腕。

 比較的簡素な、繊維性のブレスレットがしてあった。


「これの事かな?」


 片方の腕のブレスレットを指差す伽耶。


「よくわかんないんだけど。お父さんとお母さんに絶対はずさないように言われてるんだ」


 沙耶が自分のブレスレットを指差した。


「それに、どうやって繋がってるのかよくわかんないからはずれないんだよね」


 伽耶は納得のいかないという表情だ。


「不思議と衝撃を受けたりしても傷一つついてないしね」


 更に不思議な点を告げる沙耶。

 その話しを聞いた紗那は首を傾げるしかなかった。

 紗那は元々はただの一般人である為、わからなくて当然だ。


 聞こえて来た足音の方を振り向いた三人。

 視線の先には、三井 義彦(ミツイ ヨシヒコ)がいた。

 更に彼の背後で微笑んでいる銀斉 吹雪(ギンザイ フブキ)と十二紋 柚香(ジュウニモン ユズカ)。


 義彦と柚香が一緒にいる事を予想すらしてなかった三人。

 驚いて目を見開いている。

 むしろその反応に驚いた義彦、吹雪、柚香の三人だった。


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1991年6月2日(日)PM:18:44 中央区桐原邸一階


 濃桃の猫耳少女と濃水の猫耳少女二人。

 一人の少年の前に座っている。

 青みがかった黒髪の少年。

 身振り手振りを交えて何やら説明しているようだ。

 自分自身を何度も指差し、指差す度に同じ事を繰り返し言葉にしている。


「悠斗、悠斗、ゆうと、ゆーと、ユウト、ユート」


 自分自身を指差す度に、ゆーとと繰り返しているのだ。

 しかし中々その意図が伝わらないのだろう。

 二人の猫耳少女は何度も首を傾げている。

 自分達の言葉が通じない事を理解しているのかはわからない。

 しかし、彼女達は言葉を発する事はなかった。


 少し離れた台所。

 赤みがかった黒髪の少女が忙しそうに調理に没頭している。

 しかし、時折聞こえる桐原 悠斗(キリハラ ユウト)の声に苦笑していた。

 それでもその手は、休む事もなく玉ねぎをくし切りにしていく。


 悠斗が根気良く自分の名前を何度も何度も説明している。

 言葉が通じない以上、身振り手振りしかない。

 最初に反応を示したのは濃桃の猫耳少女だった。


「ユト?」


「ゆ・う・と」


「ユト?」


 何度かそんなやり取りを繰り返す。

 悠斗は、濃桃の猫耳少女の方が頭が良いんじゃないかと思っている。

 既に何十回目になるかわからない、同じやり取り。


「ユート?」


 濃桃の猫耳少女の発音が、かなり正しくなってきている。

 その度にうんうんと頷く悠斗。

 濃桃の猫耳少女に釣られたようだ。

 濃水の猫耳少女も、何とかユウトと発音しようとしだした。


 この短時間に言葉が通じてないとは言え、かなり正確に発音出来るようになった二人。

 自分達がなついている少年の名前だ。

 という事を理解しているかは確認のしようもない。

 しかし二人とも、何度も何度もユートと繰り返している。


 とりあえず安堵の表情になった悠斗。

 今度は彼女達の名前を聞き出すべきだと考える。

 しかしどうしたものだろうか一瞬考えた。


 思考したのは一瞬、即座に方法を思い付いたのだ。

 自分の胸辺りに手を当て、ゆーとと言葉にした。

 その後に濃桃の猫耳少女に手を向ける。


 自分に向けてから、少ししてから濃水の猫耳少女に手を向けた。

 その動作を自分に手を当てる時だけゆーとと言葉に出して何度も繰り返す。


 彼の動作に、最初は怪訝そうに首を傾げる猫耳少女二人。

 それでもめげずに何度も何度も繰り返す悠斗。

 彼の予想通り、濃桃の猫耳少女の方が先に動作の意図を理解した。


「ミ・・・オ・・・」


 自信なさげに濃桃の猫耳少女がそう呟く。

 その言葉を聞いた悠斗。

 濃桃の猫耳少女に手を向けた時に言葉を追加した。


「みお?」


 濃桃の猫耳少女に手を向けた時に、そう言ったのだ。

 彼女はその度に、うんうんと頷くように首を上下に動かす。

 四度程その動作を繰り返した所で、濃水の猫耳少女も理解したようだ。

 自分に手を向けられる度に名前らしきものを呟いた。


「マ・・・テ・・・ア・・・」


 二人とも最初はぎこちなかった。

 しかし、徐々にはっきりと言葉にする。

 濃桃の猫耳少女はミオ、濃水の猫耳少女はマテア。

 おそらく二人の名前で間違いなさそうだと感じた悠斗。

 二人の頭を同時に撫でてあげると、とても嬉しそうに微笑んでいた。


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1991年6月2日(日)PM:18:46 中央区三井探偵事務所一階


 少しだけ高級そうな椅子に腰掛けてる男。

 思案にくれているようだ。

 机の上には様々な資料が置いてある。

 しかし、整理されているとは言い難い状態。

 眉間に皺をよせて難しそうな顔をしている。


「何か忘れている気がするんだよなぁ」


 誰もいない部屋の中で呟いた。

 予想外の事態に発展した、山金氏からの依頼。

 その前のいくつかの要因が、一連の事件により決定的なミスを生み出していた。


 手元にあるスケジュール帳の数日分を捲る。

 特にこれといって無し。

 普段ならば仕事関連の約束は記帳しているはずだ。

 彼は次にメモ部分を確認するが、特に何もなかった。

 そこで今思い出したかのように、手近なペンを握る。

 タイマキョクとトンボケンの言葉を書き足した。


「ん? そういやこの言葉って何処で聞いたんだっけ?」


 顎に手を当てて考え、数日前に聞いたはずと結論する。

 そこから更に、数日前からの自分の行動の記憶を蘇らせていく。

 記憶の読み出しが、五月三十日の二十一時過ぎに差し掛かった。


「あぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!?」


 己の痛恨なるミスに思い至った彼。

 即座に受話器を取り、財布の中から一枚の名刺サイズの紙を取り出す。

 そこには、喫茶店ローズソーンと書かれていた。


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1991年6月2日(日)PM:18:55 中央区環状通


 少年から離れていく二人。

 ウェーブのかかった茶色い髪の女性と、ポニーテールの少女。

 少女の方が一度、少年の下へ戻って来た。


「どうしたんだ? マユ?」


 少年は柔らかい表情で少女に問いかける。


「おにぃ、お願いがあるんだけど」


 女性、古川 美咲(フルカワ ミサキ)は少し離れた位置にいる。

 微笑ましそうに二人を見ていた。


「なんだ?」


 少しぶっきらぼうな言い方ながらも、その声音は穏やかだ。


「明日、買い物に付き合って欲しいの」


「学校終わった後になるがいいか?」


「うん!」


 満足そうにそう答えた少女、竹原 茉祐子(タケハラ マユコ)。

 古川の元に、小走りに戻っていった。

 彼女は茉祐子と手をつないで、ゆっくりとその場を離れていく。

 スポーツ刈りの少年、義彦は、その場で二人が見えなくなるまで動く事はなかった。

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