第10話 White room/2
白い廊下を、黒と白がゆっくりと進む。
壁に手をつき、一歩一歩を確かめるように進む白に、先を行く黒が歩調を合わせる。
時折立ち止まり、壁に背を預けて荒い息を吐く白を、黒が振り返って急かす。
幾度かそんなやり取りを交わしながら、彼らはひとつの扉の前に辿り着く。
他とは違う、木枠の扉。掛かる札には「院長室」とある。
黒がコン、コン、とノックをすると、中から男の声が返ってきた。
「――入りたまえ」
扉をくぐり、中へと入る。
その部屋もまた、白一色であった。
白い床、白い壁、白い天井。窓から差し込む光もまた、真っ白なカーテンを通し白光となって降り注ぐ。
そんな白い空間の中であれば、薄いグレーの事務机という存在は、一際浮いて見えるものだ。
広いように見える空間は、そんな事務机だけがぽつんと置かれているせいだろう。
あまりにも、空間にそぐわない。
「目が覚めたのか」
背を向けて座っていた男が、くるりと椅子を廻して振り返る。
白衣に身を包み、蒼白の肌に白い髪、深い碧色の瞳と淡く紅潮する唇が、鮮烈な色彩として映り込む。
骨ばった白い手を組み、男は事務机に両肘をついて黒と白を眺めた。
†
「調子はどうだ。身体のどこかに痛みなどはないか。意識がぼんやりしたり、視界が翳むといったことはないかね」
蒼白の男――“ドクター”は、表情を作らないままに、平坦な声で訊ねてきた。
内容だけ見れば、それは医師の問診にも聞こえる、いたって普通の内容だ。
「……普通ほど怖ろしいことはない、か」
俺の言葉は、“ドクター”の問いに答えるものではなかったが、“ドクター”は特に反応を見せなかった。
「その通り……君は鋭い。そして賢しい。現状、とても普通とは言い難い。相手が感情を見せないのならば、己もまた見せてはならない……“交渉”の基本だ」
「……これは“交渉”か?」
俺は“ドクター”を見据えて、その反応を見た。
“ドクター”は組んだ手を解き、椅子を引いて立ち上がった。
「さぁ……それは今後の君と、私次第だ。だが初めに言うべきことがあるとすれば、――そう、まずは私の“要求”を言おう」
そして“ドクター”は、俺の方へと右手を差し出して、言った。
「我がパートナーとなってくれたまえ、私のヒュプノス」
†
『ふぅん、これが今の顕界かぁ……』
灰色に煙る曇天の下、黒いぶかぶかのロングコートを身に纏った少女が、袖口から僅かにのぞく指先で後ろ頭を掻きながらビルの谷間から姿を現した。
肩まで伸びた黒髪の白い毛先を指先で弄びながら、赤い瞳の少女ヒュプノスは雑踏に紛れて街道を往く。
『とりあえずてきとーに来ちゃったけど、さて、これからどうしたらいいかなー』
ヒュプノスの目的は、タナトスを探し出すことだ。そしてこの事態の原因の究明と、その解決をハーデスより仰せつかっている。
『とは言うけど、タナトスが居そうなところなんて、皆目見当もつかないよ……』
ハーデスによれば、どうやらタナトスは“あの人”の元へは行っていないようだった。“あの人”がその気になれば、今のタナトスでもすぐに呼べるはずだが、そうはなっていないらしい。
タナトス自身が逢おうとしないなら、“彼女”もそれを尊重するようだとハーデスは言っていた。
『“あの人”は絶対タナトスに逢いたいはずなのに。ヘンなの……タナトスだって同じはずだよ』
ボクはこんなに逢いたいと思っているのに、“あの人”は夢の中でしか逢ってくれない。
おかしいのはタナトスだ。「死神であることをやめる」なんて、今まで一度だって言い出したことなんかなかった。
『ボクだって、ボクであることをやめようなんて考えたことなかったのに。君は変わってるよ……いや、変わってしまったのかな』
タナトスの“変化”が、自分の“変容”と関係しているのかどうか。今はまだ分からない。
『とにかく――必ず見つけてやるぞ、手の掛かる兄弟め』
そうしてヒュプノスは、とりあえずてきとーに道に沿って歩き出すのだった。
†
困りました。
「…………」
『…………』
ひとまずご飯を、と教会を出たところまではよかったんです。
ところが、扉の前になんと行き倒れている男の人がいるではないですか。
これはお助けせねばと思い、教会の中に戻ったまではいいんです。
しかし、私もまた行き倒れの身。分け与えるパンも施せる水もなく、私はただ、自分の身の上話を聞かせることしかできませんでした……。
「……するとつまり、君は《魔女》なのか」
私の座る長椅子とは違う長椅子に腰掛け、彼は火の点いていない黒い巻紙の煙草を銜えて、こちらを見ないまま問うて来ました。
『まぁ、その、なんていうか……そう、です』
私はどう答えていいか分かりませんでしたが、否定する要素が何もなく、肯くしかありません。
「“魔女”に遇おうかとは思っていたが、まさか成り立てに出遭うとは……なんてこった」
『あはは、なんていうか、その、すいません……』
彼は、なんだか驚いているようでした。しばらく目を見張って私のほうを見ていて、それから、銜えていた煙草を口から離して、うなだれるように。
「君が謝ることじゃない。……むしろ、助けてもらって有り難いと思ってる」
『助けたなんてそんな、私、何もできなくて……すいません』
「何も出来ないのは僕も同じさ。まったく、人間ってやつは不便極まりない」
『あ、はは……そうですね』
彼の瞳は、黒く澄んでいて、表情のない顔からは、何を考えているのか、さっぱりよく分かりません。でも、彼の言葉の中に、私にも分かることがありました。
『あの……さっき、言ってましたよね? 魔女に遇おうかと思ってた、って』
「ああ」
『“魔女”の知り合いが、いるんですか?』
「いや……知り合いというわけじゃないけど、“魔女”っていう存在がどういうものなのかは、よく知ってるよ」
†
『同業者、ってやつですか』
「へ?」
思わずヘンな声が出てしまった。
自らを“魔女”と名乗るこの女、発想の仕方が突飛すぎる。
『いや、だって……悪魔祓いの方ですよ、ね? “魔女”を追ってるなんて』
「悪魔祓い? 違うよ、僕は――」
死神だ――なんて、今の僕には言えたことじゃない。
だって、僕はもう、死神じゃないのだから。
「――君、追われてるって言ってたよね。ひょっとして、それが……?」
『はい……私、身寄りがなくて、ヤナト村のジャラって老夫婦の家に厄介になってたんです。そうしたら、教会の遣いだって、黒い外套の連中がやってきて……』
「ふぅん……悪魔祓い、か」
正直、初めて聞く事ばかりだ。“魔女狩り”を行うのは人間の悪しき因習ではあるが、悪魔祓いというのは由緒正しい教会の仕事ではない。
「新しく興された秘密結社か何かか……」
『なんです? 秘密結社、って』
「いや……それより、ヤナト村? それって、この近くなの?」
『えっと、近くはないと思います。私、結構歩いてきちゃったから……森とか山とか、二三越えてきましたし』
「それはまた、頑張ったね……」
『え、へへ、すみません……』
この辺りの地理に関しては、お互いに情報がないということか。
“魔女”に遇うという目的は達せられたが、思い描いていた結果とは違ってしまったようだ。
考えてみれば、冥府を抜け出してからこれまで、想像通りに事が運んだことなど何一つない。
「厄日、ってやつかな……人間的に言うと」
煙草を銜えて、息を吸い込む。煙は吸い込めない。火が点いていないから。
まったく、どうせ火はあるからとライターを買わなかったのは誤算だったな。
「さぁて、どうしたものかな……」
†
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