英単1600

秋保千代子

大丈夫なのか

「起きろ!」

 頭の上から、ヨネヤマ先生のどすの効いた声が降ってくる。

 それでも、顔を上げない。

「起きろ、カトウ!」

 椅子の背もたれをがたがた揺すられる。それでもしぶとく、机の上に突っ伏したままでいたら。

「いい加減にしろ!」

 突然、脇腹にぷすっと妙な感覚が走った。

「あひょっ!?」

 間抜けな声を出して跳ね上がる。

 がたーん、と椅子が後ろにひっくり返った。

 途端、どっと沸き起こる笑い声。

 その場に俺は立ち尽くした。

 恐る恐る振り返ると、般若の形相の先生が。手には三十センチ定規。俺の脇腹に当たった物の正体はこれらしい。

 教室中の視線が、俺とヨネヤマ先生に集まっている。授業中に居眠りした俺と、それを叩き起こした先生に。

「おはよう、カトウ」

 先生がにこーっと笑う。口の両端はきちんとつり上がり、それと一緒に目元も一緒につり上がっている。

 普通、口の端が上がったら目尻は下がらないか? そんな常識を超えた先生の笑顔に、背筋を冷たい汗がつたう。

「オハヨウゴザイマス」

 かすれた声を絞り出す。

「ったく、いい根性してるよお前は」

 顎をしゃくって座れと示した先生に従い、椅子を起こして座りなおす。

 うわ、教科書ヨダレまみれだよ。俺はげんなりした。

 女子のくすくすいう笑い声が聞こえる中、終礼のベルがなる。

「おまえ、あとで職員室な」

 そう言いおいて、先生は出て行った。




「カトウ!」

 下校しようとする生徒の流れの中、階段をゆっくりと下りていたら、後ろからクラスメイトが追いついてきた。

「アオキ」

「カトウ、職員室寄るの?」

 笑顔で訊ねてくる。こいつ、殴ったろか。

「寄るしかねえだろ。あんなオッカナイ顔で言われちゃよ」

「おー。えらいねえ」

 アオキは右手で、胸の前で十字架を切るマネをした。

「ま、受験生が居眠りしてちゃ、怒るよな」

「常識的にはな」

 もう十二月。あと一ヶ月もしたら、俺達は戦場に旅立たなきゃいけない。

「俺は最近、居眠りどころか、睡眠時間を五時間に削って勉強中だ」

「お~、ご苦労なこった。ナポレオンまであと一息だな」

「冗談言うな!」

 アオキがげらげらと笑った。言葉とは裏腹の余裕の表情。そりゃそうだ。この間の模試で、志望大のA判定が出たのだから。喜々とした表情で、こいつはそれを俺に見せてきた。

 対する俺は。

「お節介かもしれないけどよ」

 そう前置きして、アオキは小さな声で言った。

「おまえ、寝てて大丈夫なのか?」

 立ち止まり、横目でにらみつける。アオキは眉を下げた。

「悪い」

 両手を胸の前で合わせ、頭を下げられた。

「最近、おまえ元気ないしさ。授業中もぼうっとしてばっかだし、心配なわけよ!」

「……わかったよ」

 一つ息を吐いて、歩きだす。


「おまえ、寝てて大丈夫なのか?」

 ヨネヤマ先生の開口一番のセリフもこれだった。

 職員室はざわついていた。『わかんないところ』を訊きに来た生徒とそれに答える教師の声がわんわんと響き、すぐ隣にいる人に話しかけるのも大きめの声を出さなければならないほど。

 その中で。

「駄目です」

 なんら声のボリュームを調整せずに、あっさりと言い放つ。

 すると、先生のため息が聞こえてきた。

「お前の希望、C大だったよな」

「そうですけど、何か?」

 言葉の端々に不機嫌さがにじんでいるな―― 自分の声のことなのに、他人事のように思う。

「夏までは順調だったのにな」

 小さくも大きくもない先生の声に、俺は口をへの字に曲げる。

「急に、模試の成績も悪くなって」

 視線を先生の机の上にやると、俺の成績資料が載っていた。

「授業態度も悪くなったって言いたいんでしょ」

 ぷい、とそっぽを向いて言う。

「分かってるなら、何とか頑張れ」

 先生の二度目のため息。

「それができたら、苦労はないです」

「そりゃそうだろうけど……」

 三度目のため息に続いて、何かをごそごそと漁る音がした。

 不審に思って振り向くと、先生が一冊の本を差し出してきた。

「英単1600」

 タイトルを読み上げる。

「これ、高校受験用の参考書ですよ」

 俺は笑った。先生も笑う。

「たまには、こういう基礎的なところからやってみろ。意外と突破口になるかもしれないぞ」

 なんの、とは訊かない。訊かなかったのに。

「気休めでも、勉強が捗る実感を持ってみると、案外難しいことも捗るもんだ」

 わざわざ注釈を付けてくれた。思わず口元が緩む。

「アリガトウゴザイマス」

 俺は本を受け取って、職員室を出た。

「明日、その中から小テストするからな!」

 しばらくしてから、先生の声が追ってきた。




 家に帰り、本を広げてみる。家で勉強するなんて、何週間ぶりだろう。そう思いながらページをめくる。

 いつだったろう。どんな参考書を見ても、何の問題集を解いていても、分からなくなってしまったのは。

 それから俺は、勉強しなくなった。

 いや。

 できなくなったのだ。

 ぱらぱらとページをめくり続ける。懐かしい単語ばっかだな、おい。俺は吹き出した。

 でも。これなら分かる。そう感じた。

 明日のテストはきっと解ける。その実感にほっとする。

 ふっと笑って、布団に潜り込んだ。




「おーし、単語テスト始めるぞー」

 ヨネヤマ先生の声が響き終わると、教室はしんと静まりかえった。

 机の上に置かれた紙を見つめながら、俺は頭の中が真っ白になるのを感じていた。

――分かんねえ。

 訊かれているのは、知っている単語ばかりのはず。しかも、昨夜、本で見たヤツばかり。

 それなのに。

――思い出せねえ。

 がくがく震えながら、ペンをとる。ガチガチと奥歯がなりだす。頭の奥で、どくんどくんという心臓の音が、いやに大きく聞こえる。

 一個ぐらい思い出せ! そう焦れば焦るほど、頭の中は真っ白になっていった。


 真っ白に。


 がたん、と。

 俺は椅子を蹴って立ち上がった。

 驚いて顔を上げるクラスメイトの視線も気にせずに、廊下に飛び出す。

「待て、カトウ!」

 先生が追いかけてくるのが分かった。でも振り返ることはしない。そのまま廊下を走り抜ける。

 真っ白になった頭だけが、俺についてきた。

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英単1600 秋保千代子 @chiyoko_aki

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