第66話『朝スパ-男湯-』

 午前6時半。

 俺と彩花は1階にある大浴場へと向かう。さすがに、ここのホテルには混浴というシステムはないので、大浴場の前で彩花と別れることに。

「じゃあ、彩花。お風呂から出たらここの休憩所で待ち合わせね。俺、これが初めてだからゆっくり入るかもしれない」

「分かりました。では、また後で」

「ああ」

 そして、俺は男湯の方の暖簾をくぐる。

 夏休みの終盤でも、平日の朝ということもあってか、脱衣所の中には全然人がいない。お年寄りの男性が2, 3人くらい。まあ、人が多いよりも、人が少ない中で静かに温泉に浸かる方が好きだ。

 服を脱いで、タオル一枚で大浴場に向かう。

 脱衣所に比べると、人は多いけれど……お年寄りが多いためか静かな印象を受ける。一番はっきりと聞こえるのはお湯が流れる音だ。何だか、ようやく温泉地に来たような感覚になれた気がする。

 洗い場に行こうとすると、1人の知り合いの男性が髪を洗っていた。

「坂井さん」

「はい? ああ……藍沢さんですか。おはようございます」

「おはようございます。隣、いいですか?」

「ええ、どうぞ」

 俺は坂井さんの隣の椅子に座って、髪を洗い始める。坂井さんがここにいるってことは、女湯の方には遥香さん、絢さん、香川さんがいるかもしれないな。

「藍沢さん、その後……彩花さんの様子はどうですか?」

「元の体に戻れたことがとても嬉しかったみたいで……部屋に戻ってから、お手洗い以外はほぼベッタリです。やっぱり、俺の彼女は可愛いですよ。遥香さんも可愛らしいですが」

「ははっ、そうですか。恋人の体が元に戻ったらそれは嬉しいですよね」

「……はい。遥香さんの方はどうですか?」

「元の体に戻れて、とても嬉しそうでした。奈央から聞いた話ですが、昨晩は2人でかなり仲良くやっていたそうですよ」

「そ、そうですか」

 昨晩はこっちとあまり変わらず、ってことか。まあ、恋人の体が元に戻ったら、2人で色々としたくなるよな。

「色々とありましたが、坂井さんのおかげで、スムーズに事が運んだのだと思います。ありがとうございました」

「いえいえ、こちらこそ。それに、藍沢さんが落ち着いて対応してくれたことが一番だと思いますよ。遥香のことを守っていただき、ありがとうございました」

「いえ、俺は特に何も。色々ありましたけれど。3人で彩花のことを守っていただいて、ありがとうございました」

「いえ、そんな……」

 何だか、お礼ばかり言い合っているな。坂井さんはもちろんのこと、絢さん、香川さんにも感謝の気持ちでいっぱいだ。たくさんの人の協力があってこそ、今がある。人を救えるのは人だということを今回のことでまた教わった気がする。

「そういえば、藍沢さん。今朝のニュース、観ましたか?」

「いえ、起きてすぐにここに来たので観ていません。何かあったんですか?」

「氷高さん逮捕のニュースが大々的に報じられていました。避けられないことですが、水代さんの20年前の自殺についても。もちろん、水代さんの名前は伏せられていますが、いじめに関わった人は今頃震えているかもしれませんね」

「そうでしょうね。中心人物だった氷高さんが逮捕されましたから。おそらく、水代さんは氷高さんが逮捕され、20年前の自殺を取り上げてもらうことで、自分へのいじめに関わったあらゆる人に恐怖を与えることが目的だったのでしょう」

 氷高さんは水代さんの自殺を口実に、相良さんへ脅迫していたんだ。その罪で逮捕されれば、必然的に水代さんのことも報道される。氷高さんと一緒にいじめをしていた人達が今、どこにいるかは知らないけど、テレビ、ネットなどでニュースされれば、いつかは彼女の逮捕を知り恐怖を味わうという算段なのだろう。

「相良さん、大丈夫でしょうかね。氷高さんはこのホテルで逮捕され、彼女から脅迫されたことを報道された今、このホテルに報道陣が押しかける可能性は大です」

「……氷高さんに非があります。相良さんに非難が浴びることはあまりないでしょう。相良さんが氷高さん家族に対して、本来よりも安い価格で最高級のサービスを提供したことについても。氷高さんの旦那さんも協力してくれるそうですから。大丈夫だと思いますよ」

「そうですね」

「それに……昨日の通報は上層部の面々が相談した上で決めたことです。ということは、これから何が起こっても、総支配人である相良さんをバックアップする姿勢を固めたということだと思います。それに、10年前から経営を頑張り、今のアクアサンシャインリゾートホテルを作ってきました。きっと、大丈夫でしょう」

 それに、水代さんが……相良さんのことを見守ってくれるだろう。今までとは違ってどこか遠くから。

「何だか、藍沢さんと話していると、俺の方が年下のように思えてきますよ」

「俺は坂井さんがさすが年上だなって思う場面が何度もありましたけどね」

「そうですか? 俺はただ……付き合っている彼女や妹がいる手前。しっかりしなくちゃいけないって思っただけで」

「俺も同じですよ。ただ……大切な人を失った苦しみや、切なさ、儚さという感情を抱いた経験があるので、相良さんの気持ちが何となく共感できたんです。ですから、あまり動揺せずに氷高さんとも話すことができたのかなと思います。あと、昨日のように水代さんと話すことができる相良さんが羨ましいです、本当に……」

 俺も……他愛のない話でいいから、唯と少し話してみたかったな。今頃、水代さんと唯があの世で出会っているかもしれない。

「なるほど。もしかしたら、水代さんはそんな藍沢さんのことを知って、遥香と入れ替わる相手を彩花さんにしたのかもしれませんね」

「……そう、思っておきます」

 一昨日の夜、水代さんが彩花の体に憑依したとき、彼女……何だか、俺なら氷高さんへの恨みを分かってくれると信じていたように思えた。相良さんの気持ちも。それってもしかしたら、俺が2年前に幼なじみの唯を亡くしていたということを知っていたからなのかもしれないな。

「洗い終わったので、先に温泉に浸かっていますね」

「はい」

 そう言って、坂井さんは湯船の方へと向かっていった。

 既に髪は洗い終えていたので、後は体を洗うだけ。そして、何気なく鏡を見た時だった。

「えっ……」

 鏡に唯が映っていたのだ。胸よりも上の部分しか映っていないけれど、彼女も裸。唯は優しい笑顔で俺のことを見つめている。そして、俺と目が合った瞬間に、彼女はにこっと笑った。

「唯……」

 しかし、一度、瞬きをすると唯の姿はなくなっていた。

 今回のことにきっちりと決着を付けることができたから、よくやったと言いに来てくれたのかな。唯のことを考えていたから見えたのではなく、実際にここへ遊びに来ていていたら嬉しいな。

 唯のことを考えながら体を洗い、俺は坂井さんが入浴しているところに向かう。

「あれ、藍沢さん。何だかさっきよりもいい表情をしていますね。髪と体を洗ってさっぱりしたんですか?」

「まあ、そんなところですね。俺、もともと温泉が好きなんですけど、ここに来て……より好きになった気がします」

「そうですか。俺も好きですよ」

「そうなんですか。やっと旅行に来た感じがします。今日で帰ってしまいますが」

 温泉好きなので、このホテルの温泉をもっと堪能しておけば良かったな。色々あったので仕方ないけれども。ただ、また……いつかここに来ればいいんだ。そう思いながら、俺は坂井さんの横で温泉を堪能するのであった。

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