第38話『Chu-Shite?』

「う、ううっ……」

「遥香さん……」


 依然として泣いている遥香さんにどんな言葉をかけていいのか分からなかった。何も言葉をかけないのが一番良いと信じ込んで、ふとんからちょっとだけ出ていた彼女の頭を優しく撫でる。


「直人さん、私……」

「……絢さんなら分かってくれると思いますよ。それに……彩花は今の遥香さんと同じなんだと思います。入れ替わりの影響もあるでしょう。ただ、絢さんの優しさや温かさがあるからこそ、彩花は絢さんのことを好きになったのではないでしょうか。俺が優しいかどうかは分かりませんけど」


 ただ、少しの間だけど絢さんと接してみて……遥香さんも惚れるし、そんな彼女の体の中にいる彩花も好きになってしまうかもな、って納得したんだ。だから、そんな絢さんと彩花がキスしたことにショックはあるけど、許せてしまうんだ。

 遥香さんはようやくふとんから顔を全て出した。号泣したからか、彼女の目元は赤くなっていた。


「……私、2人のことを責めるつもりはありません。絢ちゃんは素敵な女の子だから彩花さんが好きになるのも分かるし、キスだってするかもしれないと思っていました。水代さんに口づけしたのも、それが一番いいと思ったからしたのだと思います」

「……絢さんのキスのおかげで、水代さんが氷高さんを殺害する気持ちを抑えることができましたからね」


 それには絢さんなりに葛藤があったと思うけれど、個人的に水代さんにキスしたのは賢明な判断だったと思う。


「それに、彩花さんが絢ちゃんとキスしたって聞いたとき、ちょっと……気が軽くなった自分もいるんです」

「気が軽くなった?」


 どういうことなんだろう?

 遥香さんの顔を見ると、彼女はふっ、と笑って俺のことを見つめてくる。今の表情はさっきの坂井さんからの電話に出る直前とよく似ていた。


「……だって、絢ちゃんが彩花さんとキスしたから。じゃあ、私もキスしていいんだって思えてしまって。さっき、直人さんにキスしようとしたとき、絢ちゃんや彩花さんの顔が思い浮んでしまって。していいのかな。ダメなのかな。そのときは、お兄ちゃんから電話が来たことにほっとしていたんです」


 なるほど。やっぱり、さっき……坂井さんからの電話に出る直前、遥香さんは俺にキスしようとしていたんだ。俺のことが好きな気持ちがある中で、絢さんや彩花への罪悪感も居座っていたのか。

 しかし、心が軽くなったはずの遥香さんの目からは涙がこぼれ落ちた。


「……酷いですよね。2人への罪悪感でキスしていいのかどうか迷って、いざ……2人がキスしたらほっとしちゃって。それなのに、そのことを絢ちゃんから言われたときには悲しくて、あんなに泣いちゃって。私、元の体に戻っても、絢ちゃんと付き合っていく資格があるのかな……」


 彩花と入れ替わったことで気持ちが不安定になった。ましてや、俺に好意を抱いている。そんな中で、付き合っている絢さんが入れ替わった相手の彩花とキスした。気持ちが混沌としてしまうのは仕方のないことだろう。

 俺はどうにかしてそんな遥香さんの気持ちを落ち着かせようと、彼女の頭をゆっくりと撫でた。


「直人さん……」

「……絢さんと付き合う資格はあるかどうかは、実際に元の体に戻ってみないと分からないでしょうし。悩んでしまうとは思いますけど、悩んでもどうしようもないことだと思うんですよね。俺から見てなんですけど、元の体に戻ったら、何か変わっているところはあるかもしれません。ただ、一緒に笑ったり、楽しんでいたりしていると思います。ですから、大丈夫ですよ、きっと。それに何かあったら、その時は周りの人に頼っていけばいいんだと思いますよ。今回みたいに」


 彩花も同じことを考えているのかな。元の体に戻ったとき、俺とこれまでと同じように付き合っていけるのかって。


「それに、入れ替わっている間に色々あっても、元の体に戻ったらきっと絢さんは喜ぶと思いますよ。俺だって、そうなったら嬉しいです。当初は元の体に戻るにはどうすればいいのかを念頭に、俺達は行動していたんですから」


 何度も考えているけれど、彩花が元の体に戻ったら……彩花のことを思い切り抱きしめて、思い切り甘えさせるつもりだ。ただ、ちょっと寂しい想いをしたから俺も彼女に甘えるつもりでいる。


「罪悪感とか、葛藤とか……色々とあると思います。ただ、自分の気持ちに嘘を付いたり、押さえつけたりすることは無理にしなくていいと思いますよ。少なくとも、俺に対しては。昼にも言いましたけど、あくまでも……俺は宮原彩花の彼氏として、坂井遥香さん……あなたと向き合うつもりです。そして、元の体に戻るまでの間は遥香さんの側にいます。それを覚えておいてくれますか」


 とは言ったけれど、今は目の前にいる……坂井遥香さんのことがとても可愛らしく見えてしまうんだ。絢さんはこんなに可愛い人と付き合っているんだって。


「ふふっ」


 遥香さんはくすくす笑った。いつもの可愛らしい遥香さんの笑み。


「……本当に、直人さんってかっこよくて、優しい男の人なんですね。この体だからなのかもしれませんけれど、私……男の人に初めて恋をしました。直人さんのことが……好きになりました。その気持ちは本物です。だから……」


 きっと、遥香さんはこう言おうとしたんだと思う。


『キスしてもいいですか?』


 って。

 でも、実際には遥香さんはそんなことを言わず、俺にキスしてきたのだ。

 この柔らかな感触は何度も味わったから知っている。彩花の唇であると。感じる甘い匂いだって彩花のものだし。

 けれど、何かが違うんだ。具体的に何が違うのかは分からないけれど、彩花と口づけをしていると思うと違和感がある。それこそが遥香さんとキスしている証拠なんだ。

 唇を離すと、そこには遥香さんの可愛らしい笑みがあった。


「……初めてなはずなのに、初めてじゃない感じがします」

「彩花とは数え切れないくらいにしていますからね」

「……男の方の唇も優しいんですね。絢ちゃんと似ていました」


 遥香さんはうっとりとした表情をしながらそう言った。

 唇が優しいというのは初めて聞いた表現だな。柔らかいとか、ふっくらしているとか、温かいとかは聞いたことがあるけど。


「ねえ、直人さん」

「何ですか?」

「……もっと、直人さんに甘えていいですか? 具体的には……直人さんとイチャイチャしてもいいですか?」


 目の前にいるのは坂井遥香さんであることは分かっている。でも、姿や声は彩花そのものであり、上目遣いで俺のことを見てくるのがとても可愛くて。

 俺に迷いがあることを察知したのか、甘えたい、感じたいと言わんばかりに遥香さんは俺のことをぎゅっと抱きしめてくる。


「……俺にできる範囲なら」


 そう答えてしまった。宮原彩花の彼氏という俺の理性を駆使して、遥香さんの甘えを受け入れるかどうかを判断していこう。


「ありがとうございます。じゃあ……」


 そう言うと、遥香さんは再びキスしてきた。

 まずいぞ、これ。今後も何をしたいのか言う前に行動するんじゃないか、遥香さん。俺が判断する前に、彼女の甘えを受け入れてしまうパターンになってしまうかも。


「……直人さん、好きです」


 自分の気持ちに正直になった遥香さんの告白はとても可愛いな。彩花と遜色ない可愛らしさだ。

 今頃、彩花も絢さんに好きだと告白して、キスとか、イチャイチャしているのだろうか。絢さんは女の子だ。しかし、性別関係なくそういうことをしていると思うと……ううっ。


「直人さん。今は私のことだけを見てください。それに他の女の子のこと、あまり考えないで。嫉妬しちゃいます」

「りょ、了解です」


 両手を頬に添えられ、くっ、と遥香さんの方に首を動かされた。


「やはり、直人さんはこう呼ばれた方がいいですか? 直人……先輩」


 そう言って笑顔になる遥香さんはとても可愛らしかった。水代さんのときとは大違いだ。


「……それもいいですけど、遥香さんにはさん付けの方がいいですね」

「ふふっ、そうですか」


 彩花の体の影響か、遥香さんの性格なのか……出会った頃の彩花を思い出すな。この独占したい雰囲気を醸し出すところ。でも、好きになると誰でもそうなってしまうのかな。好きになった人には自分だけを見てほしくなるもんね。

 遥香さんと過ごす初めての夜は……かなり長くなりそうだ。

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