第37話『ハートブレイク』
彩花さんにも坂井さんの声が聞こえるように、スピーカーホンにしてスマートフォンをテーブルの上に置いた。
『とりあえず……こちらの方は藍沢さんのことを物凄く怒っていました。氷高さんを殺すことをどうしても許してくれないと』
「まあ、殺人はいけないことですからね。俺と話したときは、死者は裁けないから止められないと言っていましたけど」
『そんなことも言っていましたね。藍沢さんのことを分からず屋、と言って暫くの間、絢さんの胸の中で泣いていましたよ』
そこまで恨まれると、氷高さんの次に俺が殺されそうな気がする。いや、邪魔になるという理由でむしろ氷高さんの前に殺されそうだ。
「水代さんが泣きたくなる気持ちも分からなくはないけれど……直人さんの言っていることは正しいよ」
『……俺もそう思っているよ。だから、泣き止んだらすぐに、俺達も水代さんに殺人や氷高さんを自殺に導くことだけはしてはいけないって強く言ったよ』
さすがに、絢さん達もそういう風に言ってくれたか。
「その時の氷高さんの様子はどうでしたか?」
『みんな分かってくれない、と泣いていました。ただ、絢さんが、水代さん自身が自殺したときに自分の家族や相良さんが悲しんだように、氷高さんが亡くなればご家族が悲しむんじゃないかと言って、水代さんを説得していました』
「そうですか……」
確かに、娘の七実ちゃんも氷高さんのことを怖がってはいたけれど、一緒に海へ戻っていくときは嬉しそうに手を繋いでいたからなぁ。氷高さんが亡くなったら悲しむ人がいるというのは事実だろう。
『絢さんのおかげで、藍沢さんへの怒りが収まったように見えましたね。ただ、氷高さんへの恨みは当然消えておらず、どうにかして復讐したいと言っていました』
「なるほど。まあ、復讐というのは聞こえが悪いですが、氷高さんに自分がこれまでやってきたことがどれだけ酷いことであるかを分からせる必要があると思います。おそらく、相良さんもその方法を考えているんでしょうね」
『俺もそう思います』
それこそ、水代さんが誰かの体に入り込んで、氷高さんへの想いを直接言えばいいんじゃないかなと思っている。ただ、死人に口なしという言葉もあるし……生きている俺達だけで何とかすべきかもしれないし。難しいなぁ。
「そういえば、入れ替わりそのものについてのことは話していましたか?」
『絢さん達と説得していく中で水代さんが話してくれました。俺達が考えていたように、氷高さんに脅迫されている相良さんを助けて欲しいために、彩花さんと遥香の体を入れ替えたと。そうすれば、2人が自分の味わった苦しみを分かってくれ、俺達6人が協力して、20年前の事件に辿り着くと考えたそうです』
「俺に話してくれた内容と同じですね」
『そうですか。おそらく、自分の気持ちを話したのに、藍沢さんに殺人をしてはいけないと言われたので怒ってしまったんでしょうね』
「そうかもしれませんね……」
水代さんの気持ちは分かるけれども、それでもやってはいけないことがある。その一つが殺人なんだ。そういう風に割り切ってはいるけれど、何度も水代さんを怒らせたと言われると、段々と申し訳ない気分に。
『そういえば、俺達と氷高さんに接点を持たせるために、娘の七実ちゃんにも入り込んだと言っていましたね』
「そうだったんですか。あっ、そういえば……絢さんと一緒に氷高さんを探しているとき、七実ちゃん……気付かない間に家族が見えないところまで泳いでいたと言っていました。それは、途中で水代さんが七実ちゃんの体に入り込んでいたからだったんですね……」
おそらく、七実ちゃんのことを探し始める氷高さんの様子を海から眺めていた。俺と絢さんに氷高さんが話しかけ、立ち去っていくところまで。そして、七実ちゃんが溺れない程度の深さのところまで泳いだところで彼女の体から抜け出した、ということか。
「水代さんは彼女なりに、俺達にこの現状を伝えようとしていたんですね。相良さんから氷高さんによる脅迫の話を聞き、このホテルや水代さんのご家族のことを心配しているということまで知ったので、水代さんは彩花や遥香さんの体に入り込む形で、自分の想いを伝えに来たということですね」
『その想いというのが、相良さんへの愛情と、自分を虐めて今は相良さんに脅迫している氷高さんに対する恨み……ということですか』
「ええ。ただ、俺は氷高さんへの殺害を否定してしまった。だから、絢さん達に説得をしようと遥香さんの体に入り込んだのだと思います。でも、良かったですよ。殺害だけでも思い留めることができて。本当にありがとうございました」
水代さんを怒らせ、彩花の体から抜け出したときはどうなるかと思ったから。氷高さんを殺害しに行かずに、絢さん達のところに行ってくれて良かった。
『礼を言うなら絢さんに言ってあげてください。彼女が……が、頑張りましたからね』
「え、ええ……」
あれ、今……一瞬、言葉が詰まったように思えたけど。
「絢さん、説得していただいてありがとうございました」
『い、いえいえ……ただ、私は水代さんの話を聞いて、自分の思ったことを彼女に伝えただけですよ』
「さすがは絢ちゃんだね! 元の体に戻ったらたくさんキスするね」
遥香さんはすっかりと絢さんにメロメロのご様子。彩花の姿だからちょっと複雑な気分になってしまうけれど、心は遥香さんだからな。
『キ、キスね』
あははっ……と絢さんは作った笑い声を出しているような気がする。もしかして、俺の時と同じように水代さんと何かあったのかな。
『えっと、その……遥香。隠しておいちゃいけないと思って言うけれど』
「うん、何なの?」
『その……水代さんを説得できたんだよ。できたんだけどね、その……キ、キスしないと氷高さんを殺すことは止めるつもりはないって言われちゃって。直人さんにも同じことを言えば良かったとも言っていて』
そうだったのか? 彩花の体から出る直前に「この分からず屋!」と言わんばかりの表情をしていたのに。
「それで……しちゃったの?」
遥香さん、目を鋭くして恐い表情をしている。それは出会ったときの彩花を見ているようだった。手錠を使って束縛しようとしていたとき、今のような表情をたまに見せていた。
「正直に答えて。隠しちゃいけないと思っているんだよね?」
『……うん。水代さんとキス、しました』
「そっか……」
遥香さん、今にも泣きそうになっているぞ。そうだよな、自分の体とはいえ心は水代さんだから――。
『あと、彩花さんともキスを……しました』
「う、ううっ……」
遥香さんはそう嗚咽を漏らすと、ベッドの中に潜って号泣し始めた。
そうか、絢さんは彩花ともキスをしたのか。遥香さんの体の影響という仕方ない理由があるとはいえ……何とも言えないな。
『ごめんなさい! 遥香! 直人さん!』
「……そのキスは彩花からしたいと言ったのですか?」
『は、はい。キスをしないと気持ちが抑えられないと言われて。彩花さんの表情を見たら断り切れなくなって。本当に……ごめんなさい』
「……2人の体が入れ替わったことの影響が大きいんだと思います。仕方のないことです。それに、実は俺も……ついさっき、遥香さんからキスされそうになっていて……そのときに坂井さんから電話がかかってきたんですよ。ですから、お互い様です。少なくとも、俺はそう思っています。彩花が意識を取り戻したら、それを伝えておいてくれますか」
『分かりました』
2人が元の体に戻ったら、彩花にとことん甘えさせてやろうと思っているし、俺もいつもよりもちょっと多く甘えようかな。そう思わないと。
「遥香さんのことは……俺に任せておいてください。ですから、彩花のことを宜しくお願いします。彩花の想いをできるだけ受け入れていただけると嬉しいです」
『……分かりました。遥香の方も同じようにしていただければ。遥香が嫌だと思うことをしなければ……いいですから』
彩花や水代さんとキスしてしまった罪悪感からか、絢さんの声が震えている。あとはやっぱり……遥香さんが俺に何かされると思うと嫌なんだろう。
「大丈夫です。遥香さんや……絢さんが嫌だと思うことは絶対にしませんから。それだけは安心してください」
『……はい。でも、遥香の気持ちをなるべく受け入れてあげてください。お願いします』
「分かりました」
その後、絢さんの声は聞こえなくなってしまった。遥香さんと同じようにベッドに潜ってしまったのだろうか。
『……俺と奈央も付いていますから、絢さんと彩花さんのことは任せておいてください』
「はい。よろしくお願いします」
『こちらこそ、遥香のことを宜しくお願いします。何かあったらまた連絡しましょう』
「分かりました。おやすみなさい」
『はい、おやすみなさい』
そして、坂井さんの方から通話を切った。
今は彩花のことについては絢さん達に任せておこう。その代わり、遥香さんのことは絶対に俺が守らないと。
彩花は絢さんとキスしたとき、絢さんへの好意に包まれていたのだろうか。それとも、俺の顔を思い浮かべていたり、罪悪感を抱いていたりしたのだろうか。絢さんとキスしたという事実があった以上、どうしても気持ちがもやもやしてしまうけど、仕方ないと割り切るしかないじゃないか。
なあ、水代さん。あなたは彩花と遥香さんに自分の苦しみを味わってほしいと言っていたけど、絢さんや俺だって十分に味わっていますよ。それは、水代さんの望んだことだったのですか? それとも、絢さんや俺の心が弱いだけなのですか?
「俺がヘコんでどうするんだ……」
遥香さんのことを絶対に守ると決めたばかりじゃないか。今だって、ベッドの中で彼女は泣いているんだ。彼女を安心させるために俺がしっかりしていないと。
カップの中にまだコーヒーが残っていたので全て飲んだ。コーヒーを淹れてからそこまで時間も経っていないのにやけに冷たくて、やけに苦く思えるのであった。
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