『今生の覚悟-後編-』

 浩樹さんに、突然顔を殴られたことで俺はその場で倒れ込んでしまう。今も殴られた左頬がジンジンとする。口の中を噛んでしまったということはないので、血の臭いを感じることはない。

「直人先輩! 何やってるの、お父さん!」

「彩花、俺だって事情は分かっている。それでも、彼は彩花に散々心配を掛けさせたんだぞ! 彩花を不安にさせるようなことも……」

「でも……!」

「……いいんだ、彩花」

 ここまでキツい一発を食らうとは思わなかったけれど、彩花に心配を掛けさせたことについて怒られることは覚悟していた。

 俺はゆっくりと立ち上がって、再度、浩樹さんのことを見る。

「俺は確かに一時期、記憶を失い、他の人と付き合っていました。そのことで、彩花のことを傷つけてしまったことも事実です。それでも、彩花は俺に向き合ってくれました。とても優しい女の子で……そんな彼女のことが好きです。ずっと一緒にいたいという気持ちは彩花と同じです。どうか、彩花と付き合うことを許していただけないでしょうか。お願いします」

 俺は再び浩樹さんに向かって頭を下げる。さっきよりも深く。ここで帰れと言われたら、また後日、ここに来て彩花と付き合っていいかとお願いするつもりだ。いいと言われるまで何度も頭を下げるつもりだ。

「ふぅ……」

 浩樹さんのため息が聞こえ、


「……俺は一度も彩花と付き合うことを許さないとは言っていないぞ」


 予想外の言葉が聞こえたので、俺は思わず顔を上げてしまう。

「えっ? ど、どういうことですか?」

「……男性を恐れていた彩花が、一緒に住みたいと言ったぐらいだ。そんな男以外に彩花を嫁に出すつもりはない」

「では、彩花と付き合うことは……」

「許しているに決まっているだろう。むしろ、記憶を失っているとはいえ、他の女性と付き合うことで彩花が帰ってきたことに怒っていたぐらいだ」

「じゃあ、そのことで……直人先輩の顔を殴ったの?」

「……彩花を心配させ、傷つけたのは事実だ。それと、本当に彩花と付き合っていく覚悟があるかどうかを試すためにだな、その……申し訳ない、藍沢君」

「いえ、そんな……」

 つまり、不良から彩花を助けた直後に、彼女が俺と同居し始めたということは、その段階で浩樹さんは俺と彩花が付き合っていいと許していたってことなのか。

「まったく、お父さんが藍沢君を殴ったときにはまずいと思ったよ」

「あら、私はそういう風に思わなかったけれどね、茜」

 どうやら、めぐみさんには俺を殴った時点で浩樹さんの本心が分かっていたようだ。さすがは夫婦。

「……直人先輩のことを許しているのが分かったから安心したけれど、先輩の気持ちを確かめるためだからって殴るのは、私は好きじゃないよ。お父さんのこと、ちょっと嫌いになった」

「す、すまん……」

 彩花、俺が殴られたときにかなり怒っていたからな。今も不機嫌そうに頬を膨らましている。自分に向けられた怒りではないと分かっているので、とても可愛らしく思える。

 それにしても、娘に叱られる父親か。俺も娘ができたら、こういう風に叱られることもあるんだろう。

「彩花、お父さんは不器用なところがあるのよ。藍沢君との交際を許さない、ってわけじゃないから、お父さんのことを許してあげて」

「俺もこれまで色々あったし……むしろ、浩樹さんに殴られてスッキリできたよ。彩花としっかり向き合おうって改めて心に誓えた」

「先輩とお母さんがそう言うなら許しますけど……」

 まだ納得していない様子だけれど、いずれは親子の関係も修正できるかな。

「藍沢君。これからずっと彩花のことを頼んだぞ。というか、彩花と付き合うと決めたのだから、必ず結婚して幸せになって欲しい」

「もちろんです」

「……じゃあ、ここで誓いの口づけをしてもらおうか」

「えっ」

「な、何言ってるの! お父さん!」

 彩花の言うとおり本当に何を言っているんだ、浩樹さんは。

「藍沢君は彩花と結婚すると約束したんだ。彩花は藍沢君と結婚するつもりで付き合うんじゃないのか?」

「もちろん、先輩と結婚したいけれど……」

「それなら、ここで誓いの口づけくらいできるだろう。父さんだって、結婚式でみんなの前で母さんと誓いの口づけをしたんだぞ?」

「それは結婚式のときの話でしょ!」

 そう、彩花の言うとおり、誓いの口づけとは結婚式の時にするものだと思うんだけれど。

 これまでに彩花と口づけをたくさんしたけれど、人前で口づけをしたことはあまりない。だから、俺にとってはここで口づけをするのはちょっと恥ずかしい。

「というか、単に娘が恋人と口づけをするところを見たいだけじゃないの?」

「……そ、そんなことないぞ? 茜」

「どうなんだか。彩花が藍沢君と一緒に暮らしているとき、彩花が藍沢君を早く連れて来ないだろうかって結構な頻度で言っていたじゃない」

「それは、男が大の苦手だった彩花が溺愛してしまうほどの男の面を、父親として一度は見ておきたいという意味で……」

「へぇ?」

 浩樹さん、視線をちらつかせているぞ。今の話によると、彩花が俺と一緒に暮らしていることには好意的だったということか。まあ、過去に彩花は複数の男子に恐い目に遭わされそうになり、その影響で男性に対して恐怖を抱いていた。そんな中で俺と一緒に暮らすことをご家族が許すということは、彩花が俺に対して溺愛していたことが伺える。

「……しましょう、直人先輩」

 彩花は俺の目を見つめながらそう言う。

「いいの?」

「誰かが見ているところで口づけをするのは恥ずかしいですけど、今の直人先輩と私の関係をみんなに分かってほしいから……」

「分かった、彩花」

 彩花が口づけをする決心が付いたのだから、俺も覚悟を決めて彩花と口づけをしよう。彩花に向けた気持ちを彼女と彼女の家族に伝えるためにも。


「彩花、好きだ」

「私も先輩のことが好きです」


 そして、彩花の家族が見守る中で、俺は彩花と口づけをした。

 恥ずかしさもあってか、口づけをしてすぐにドキドキするけれど、彩花の唇の柔らかさや彼女自身の甘い匂いのおかげで次第に落ち着いてくる。

 さすがに、ご家族の前だしそろそろ止めようと唇を離そうと思ったら、

「んっ……」

 彩花が俺のことを抱きしめて、俺が唇を離した分だけ近づいてきて口づけを止めようとしない。これは完全に彩花のスイッチが入ってしまったな。

「……もっと」

 やっぱり。甘い声でねだられてしまったら断るわけにはいかない。

 彩花のご家族の姿が見えないように、俺は目を瞑って彩花と口づけをする。俺の方もスイッチが入ってしまう。

「……たくさんしちゃいましたね」

「そ、そうだな」

 彩花とたくさん口づけをできたのはいいけれど、問題なのは今の俺達の口づけに対するご家族の反応。

 浩樹さんは腕を組んで真顔。めぐみさんはいいわねぇ、と言わんばかりの笑顔。そして、茜さんは顔を真っ赤にして恥ずかしそうにこちらを見ている。

「……ここまで熱い口づけをしたら彩花と結婚しないわけがないよなぁ?」

「……結婚するに決まっているじゃないですか。その覚悟を決めて彩花と口づけしたんですから」

 一生をかけて彩花を守る覚悟をしてさ。

 すると、浩樹さんは何か納得したようにうんうんと頷いて、


「よし、母さん! 今日の夕飯は寿司か赤飯だ!」

「分かったわ!」

「茜は今すぐにケーキを買ってこい!」

「お父さん、気が早すぎるよ。たぶん10年くらい」

「いいじゃないか、祝い事なんだからさ!」

「……はいはい。彩花の好きな苺のホールケーキ買ってくるよ」


 まるで、俺と彩花がもうすぐ結婚するような感じになってしまっている。いや、結婚をするつもりで彩花と付き合っていくけれど、茜さんの言うとおり……気が早すぎるんじゃないかな。嬉しいけれどね。

「……私の家族はこういう感じなので、これから宜しくお願いします。直人先輩」

「ああ、分かったよ。俺と彩花が付き合うことに好意的で良かった」

「そうですね。ここで話すのもあれですから、上がってください」

「そういえば、ずっと玄関で話していたんだったな。じゃあ、お邪魔します」

 藍沢家も宮原家も、俺と彩花が交際することを認めてくれたので良かった。両家とも、今から俺と彩花が結婚すると思っているので、その期待を裏切らないようにしようと心に誓うのであった。




特別編 おわり

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