第17話『私とも』

 6月28日、金曜日。

 体調が良くなったので、直人は彩花ちゃんと一緒に学校に登校した。でも、2人がこうやって登校するのは今日で最後になる。

 彩花ちゃんは直人の家を出て行って、実家から通うことを決意した。私にとっては変化のないことだけれど、2人が一緒に学校に来て、2人が一緒に家に帰って行く姿を見慣れているので、それが見られなくなると思うと寂しくなる。

 朝練を終えて、私は昇降口にいた直人と彩花ちゃんの2人と合流し、私は直人と一緒に2年3組の教室に向かう。


「渚さん、その……今日からよろしくお願いします」

「うん。遠慮なく頼ってきていいからね」


 私にとってはむしろ、以前よりも直人と接する機会が増えると思う。少なくとも、直人の記憶が戻るまでは。日中はクラスメイトである私でないと直人の面倒を見ることができないから。


「ありがとうございます。渚さんがクラスメイトで安心しています」

「そう言ってくれるのは嬉しいな。私も教室に直人の姿があると安心するし。何か分からないことや不安なことがあったらいつでも言ってきて」

「はい、ありがとうございます」


 直人は柔らかい笑顔を見せてくれる。こういう直人も……ア、アリかも。記憶を失う以前の直人はクールだったから今のような感じの表情は一切見せなかったし。

 2年3組の教室に入ると、1週間ぶりに直人が登校したからか、教室にいるクラスメイトの大半は喜んだ表情を見せていた。直人が記憶喪失であることも知っているので、中には戸惑いの表情を見せるクラスメイトも。

 朝礼の時間になり、記憶喪失の状態になっているということで担任から直人に自己紹介の時間を設けてくれた。


「ええと、藍沢直人といいます。みなさんのことは全然覚えていないのですが、今日からまたよろしくお願いします」


 それまでにあまり見せなかった柔らかい笑顔でそう言うと、クラスメイトは「よろしくー!」と直人に言うと、直人に対して拍手を送った。

 それからは、普段とさほど変わらない雰囲気で今日の授業が始まる。

 知識も失っていないし、成績のいい直人は授業に難なくついて行っているみたい。ただ、先生達も直人に気を遣ってか、問題を解かせるようなことはしなかった。

 昼休みは記憶を失う前と同じように、彩花ちゃんと3人でお昼ご飯を食べる。

 直人は彩花ちゃんと一緒にいることができてとても嬉しそうだった。記憶を失っていても、彩花ちゃんと一緒にいることが当たり前だった生活を3ヶ月ほどしてきたから、彼女が側にいると落ち着くのかも。

 午後の授業も問題なく終わって、放課後になった。


「直人。直人さえ良ければこれから女バスの練習風景を見に来る? 記憶を失う前は女バスのサポートをしてくれていたんだよ」

「そうだったんですか。では、喜んで」

「じゃあ、一緒に行こうか」

「はい」


 私は直人と一緒に体育館に向かって歩き始める。

 そういえば、彩花ちゃんは昨日……帰ってからずっと直人と色々なことをしたみたい。直人の家から離れるという理由で。

 彩花ちゃんがしたんだったら、私だってしていいはず。広瀬さんだってそういうことをしてもいいって許してくれたから。それに、今日はこの後……部活が終わった頃に広瀬さんが直人のことを迎えに来るし。


「……ねえ、直人」

「何でしょうか?」

「体育館に行く前に、直人と2人きりになれる場所へ行きたいの。いいかな」

「もちろんですよ」


 そう言う直人は依然として優しい笑みを見せてくれていた。

 直人と一緒にいたくて、思わず直人の手を掴んだ。そのことに直人はちょっと驚いていたようだったけれど、すぐに握り返してくれた。

 人気のない特別教室のある棟に行き、男子用の化粧室に入る。すぐさまに個室の中に入った。


「渚さん、2人きりになりたい場所とは言っていましたが、どうしてこんなところに? しかも、ここ……男子用の化粧室ですよ」


 大丈夫かなぁ、と直人は心配そうな表情をしている。こういった姿も記憶を失う前には見せなかったな。ちょっとかわいい。


「……2人きりになれそうな場所がすぐに思いつかなかっただけ。それに、私の用事はすぐに終わると思うから」


 ううん、終わらせなきゃ。これから部活もあるんだし。


「それならいいのですが。それで、2人きりになって何をするつもりなんですか?」

「……じゃあ、さっそく」


 そう言って、私は直人にそっと口づけをした。

 すると、直人はちょっと驚いていたようだったけれど、すぐに優しい笑みを見せてくれる。


「彩花ちゃんだけ、ずるい」


 こんなことを一晩中していたんでしょ? 私にも同じようにそんな時間を一晩ほしいくらい。そんなことを思ってしまうほど、直人のことが今でも大好きで。


「やっぱり、そういうことでしたか。渚さんが僕のことが好きだということは知っていましたし、2人きりになりたいと聞いたときにもしや、とは思っていたんです」


 直人は優しい笑みを浮かべながらそう言った。何だ、見抜かれていたんだ。記憶を失っても、そういうところは変わっていないんだな。


「……そう。私は直人のことが好きなの」

「……渚さんも彩花さんと同じなのですね。では、ここにいる今だけでも、僕はあなたのものになります」


 今の直人の言葉で、彩花ちゃんがどんな言葉を使って直人と口づけをしたのか分かった気がした。彩花ちゃんも大胆なことをするなぁ、意外。

 でも、直人がそんなことを言ってくれるのはとても嬉しい。皮肉なことに一段と直人のことが好きになっちゃった。


「じゃあ、今だけは私の恋人になって。私のことを……愛して」


 私は再び口づけをして、直人のことを積極的に求める。激しく抱きしめて、厭らしい音を立てながら舌を絡ませたりして。たった数分間だったけれど、この短い時間の中でで直人を精一杯に感じた。

 何事もなかったかのように、私は直人と一緒に体育館へと向かう。そこには既に彩花ちゃん、香奈ちゃん、真由ちゃんがいた。


「……今日も頑張ってください、渚先輩」


 儚げな笑みを浮かべながらそう言う彩花ちゃんだけは、私と直人がどうして遅れたのか分かっているようだった。

 今日もインターハイに向けての練習を行なう。

 直人がいるからなのかな。昨日までとは違って何だか調子がいい。好きな人が側にいるだけでここまで違うものなのかな。そう考えると、やっぱり、私にとって直人はとても大きな存在で、そんな人が他の人と付き合っている事実がとても悔しい。

 あの試合があってから、何度も金崎高校に……ううん、広瀬さんに負けてしまった理由を考える。

 最初は試合直前に体調を崩したことが原因だと思っていた。それも負けた原因の1つであることに間違いないと思う。

 でも、今……この瞬間になってやっと分かった。


 それは、この手で掴みたいものに対する想いの強さと貪欲さ。


 広瀬さんは3年以上も直人のことを一途に想い続けた。柴崎さんの亡くなった事件もあって、直人のことを救いたいとずっと思ってきたんだ。私なんかに比べたら、ずっと強くて。深くて。だから、負けたんだ。

 悔しさはあるし、もっと直人の側にいたい気持ちはあるけれど、広瀬さんが恋人であることをいつかは受け入れられると思う。広瀬さんが直人のことを大切に想っているのは十分に分かっているから。

 部活が終わると、第1体育館の入り口には広瀬さんがいた。


「……直人を頼んだよ、広瀬さん」


 それを小さな声に乗せた瞬間、直人と過ごしてきた1年以上の日々が頭の中に蘇ってきた。分かっているのかも。これまでのような日々が終わってしまったことを。それがとても寂しくて、苦しくて、悔しかった。

 だからこそ、私はこれから直人と広瀬さんを応援する。助ける。それは2人のためでもあれば、私のためでもある。


「渚先輩」

「何かな、彩花ちゃん」

「一緒に見守りましょう。そして、頑張りましょう」

「……そうだね」


 私がそう答えると、彩花ちゃんは可愛らしい笑顔を見せてくれた。


 悲しさ。苦しさ。悔しさ。そして、愛おしさ。


 これからもずっと抱き続けるのだろう。けれど、彩花ちゃんと一緒だったら乗り越えられそうな気がした。

 楽しそうに話している直人と広瀬さんのことを、私と彩花ちゃんは少し遠い場所から静かに見守るのであった。

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