第16話『彩花の決断』

 午後4時半。

 女バスの練習のサポートに参加しようとしたけれど、渚先輩や香奈ちゃん、真由ちゃんに直人先輩の側にいてほしいと言われたので、今日は真っ直ぐ家へと帰る。

「ただいまです」

 家の中に入ると何やら甘い匂いが広がっている。

「あっ、おかえりなさい。彩花さん」

 直人先輩のそんな声が聞こえると、黒いエプロンをした直人先輩がリビングから出てきた。料理をする直人先輩は何度か見たことあるけれど、エプロン姿を見るのは初めてだから新鮮な光景。


「あの、直人先輩。エプロン姿で何をしているんですか?」

「体調も悪くありませんし、何もすることがなかったのでお菓子作りでもしようかなと思って。クッキーを作ったんですよ」

「そうなんですか」


 嬉しそうに言うあたり、直人先輩はお菓子作りが相当好きだったみたい。意外と女の子っぽいところがあるのかも。

 直人先輩がリビングに戻ったので、私もその後についていく。


「はい、彩花さん。プレーンにココア、紅茶風味、コーヒー風味などたくさん作ってみました」

「……凄いですね」


 テーブルの上に置かれたクッキーは、直人先輩が言ったもの以外にも数種類ほどのクッキーがあった。一度作り出したら止まらなくなっちゃったのかな。

 まずはプレーンのクッキーを1枚食べてみた。

「美味しい……」

 1枚だけでは我慢できず、気付けば何枚も食べていた。味はもちろんいいし、サクサク感も絶妙。一言で言うのであれば、完璧以外にはあり得ない。


「良かったです。彩花さんに喜んでいただけて。いや、何と言いますか……ずっと彩花さんの元気がなかったように思えて。お菓子でも作って、少しでも元気づけられたらいいなと思って。たくさん食べてくれて嬉しいですよ」

「そうだったんですか」


 このクッキー……暇つぶしだけで作ったわけじゃなかったんだ。私を元気づけるために一日かけて作ってくれたんだ。それがとても嬉しい。

 記憶がなくても私のことをちゃんと見ていてくれているんだな。だからこそ、ちゃんと私の決めたことを直人先輩に話さなきゃ。

「クッキーには紅茶がいいですよね。淹れてきますね。彩花さんは座って待っていてください」

「ありがとうございます」

 直人先輩に言われたとおり、私はテーブルの椅子に座って直人先輩の淹れてくる紅茶を静かに待つ。

 緊張してくるな。ずっと、これからどうしようか考えた上で決断したことだけれど、それを直人先輩に言ったらどんな反応をされるか心配になって。とても緊張して。


「彩花さん、どうかしましたか? 何だか思わしくない表情ですけど……」


 気付けば、トレイを持った直人先輩が心配そうに私のことを見ていた。

「……あっ、いや、その……」

 顔に……出ちゃっているんだ。このまま胸の内に閉まっておいても、お互いにとっても良くない。決断したことなんだから、もう、言おう。


「先輩。大事な話があります」

「はい、何でしょうか」


 すると、直人先輩はやんわりとした笑みを浮かべた。きっと、私のことを気遣って言いやすい雰囲気を作ってくれているんだ。そんなあなたに決断を言うことが心苦しかった。

 けれど、それはあなたのためであって、私のためでもある。

 だから、直人先輩にちゃんと言おう。


「先輩。私……明日からは実家で暮らそうと思います」


 学校で考えた末での私の決断。

 それは、私がここから離れること。


「私は直人先輩の恋人ではありません。先輩の恋人は広瀬先輩なんです。素敵な方と付き合っている直人先輩といつまでも同じところは住めません」

「……そうですか」


 さっきよりも悲しそうな目つきをしていたけれど、それでも直人先輩は私の微笑みを見せてくれている。


「……彩花さんのその決断は本当に考えたことなのだと分かります。しかし、今も悲しそうな表情をしている。ここから離れることが本望でないように思えますが――」

「当たり前じゃないですかっ!」


 その瞬間、私の心の中で抑えていた何かがぷつりと切れた。恋という名の感情が一気にわき上がる。


「だって、私は……今でも直人先輩のことが大好きなんです! いつまでも、永遠に先輩の側にいられるならずっといたいです! 記憶がないことをいいことに、直人先輩の側にいたいと思ってしまうほど。でも、直人先輩の恋人が広瀬先輩だっていうのは確かな事実で。だからとても悔しくて! でも、直人先輩には笑顔になってほしいし幸せになってほしい。そのためには、私はここから離れるべきだと思ったんです」


 直人先輩の人生を私の欲望で振り回しちゃいけない。ましてや、恋人でもない私がそんなことを。

 すると、直人先輩から笑顔が消え、真剣な表情をして私のことを見つめてくる。


「それで、あなたは笑顔になれるのですか? 幸せになれるのですか?」


 直人先輩のその問いかけは、私がこれまで色々と考えている中で自問していたことだった。この決断をしたら私は幸せになれるのか。笑顔になれるのか。

 でも、結局、


「……分かりません」


 そんなこと、今の私には分かるわけがなかった。それにようやく気付くことができて、直人先輩に伝えた決断をすることができたんだ。


「絶対に笑顔になれる。絶対に幸せになれる。そんなことは分かりません。それは、これからの私次第だと思っています」


 ただ、直人先輩と一緒にいることよりも笑顔になれたり、幸せになれたりすることは本当に少ないってことは確かだと思うけれど。そう思うほど、直人先輩のことが好き。


「恋愛をするって何だか嫌なことですね……」


 直人先輩は私から視線を逸らしながらそう呟いた。


「咲さんに、渚さんに、彩花さん。僕のことを好いてくれる素敵な方がこんなにいて、その中で誰か1人を恋人として選んでしまったら、他の方が悲しい想いをする。そう考えるととても苦しくなって。記憶はないですけれど、できることなら、僕は……全員を愛したい」


 それは記憶を失う以前からの直人先輩の本音であるように思えた。直人先輩は決断することで誰かが傷付くくらいなら、全員を愛した方がいいと思っている。おそらく、その考えの起因は柴崎唯さんが亡くなった2年前の事件だと思う。


「何人にでも愛することはできると思います。でも、愛し抜けるのはたった1人なんだと思います。それが恋愛をするということだと思います。直人先輩にとって、その相手は広瀬先輩なのだと思います。ですから、直人先輩は広瀬先輩を愛し抜いてください。広瀬先輩もきっと、直人先輩のことを愛し抜けると思いますから。そこは私が保証します」


 広瀬先輩は直人先輩のことが好き。その気持ちの強さは私よりも強いかもしれない。広瀬先輩ならきっと、直人先輩を幸せにすることができると思う。彼女が直人先輩の恋人であることは悔しいけれど、受け入れられる。


「……でも、直人先輩。今夜だけは私のことを見ていてくれませんか?」


 それでも、私から直人先輩に対する好きな気持ちは一切消えなくて。


 ――直人先輩を幸せにしたいし、私だって幸せになりたい。


 そんな想いを少しでも叶えたくて。

 幸運なことに、広瀬先輩は私や渚先輩が直人先輩を抱きしめたり、口づけしたりすることを許してくれた。そんな甘えに今夜だけは浸ってしまおう。

 私は椅子から立ち上がって、直人先輩の目の前に立つと、そっと口づけをした。


「……ねえ、直人先輩。今度は直人先輩から私に……口づけ、して」


 もっともっとしたい。できれば、あなたから甘い口づけを。

 私のそんな我が儘を直人先輩は受け入れてくれるかな。

 そんな不安な気持ちを抱いたけれど、直人先輩は何も言わずに口づけをした。唇から感じる直人先輩の温もりには優しさがあって、1日だけではなくて一生感じていたかった。


「これで、彩花さんが幸せになれるのなら。今夜だけはあなたのものです」

「……今、とても幸せです。時間もあまりないから、もっと愛して」


 今夜だけで、直人先輩と一緒にいたいという欲望をできるだけ満たす。直人先輩から離れると決断したと同時に決めたことだった。


「分かりました。彩花さん。今夜だけは僕はあなたのものです」


 私と意思を確認するように、直人先輩は優しい口づけをした。

 それから、私は直人先輩とどれだけ口づけをしたのだろう。どれだけ、直人先輩に好きだと言ったのだろう。

 まるで、直人先輩と恋人になれたような気がして、とても嬉しかった。

 ただ、やっぱりとても悲しかった。とても辛かった。

 けれど、このまま何も決断できずに、寝ることができないくらいに苦しくて泣いてしまうような想いをするよりかはずっと、前へ歩んでいけるような気がした。直人先輩と出会って、ここで過ごした3ヶ月近くの素敵な日々を思い出しながら。

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