第15話『葛藤』

 昨日よりもずっと、直人先輩のことが気になってしまって、午前中の授業はただ板書を写すだけになってしまった。

 昼休み。

 渚先輩が1年2組の教室にやってきて、真由ちゃん、香奈ちゃんの4人でお昼ご飯を食べることに。直人先輩がいるときは私が直人先輩の教室に行くんだけど、直人先輩が倒れてからは渚先輩がここに来るようになった。

 ただ、この昼休みは直人先輩のことについて渚先輩とゆっくりと話せる貴重な時間。話がしやすいように、授業間の休み時間に家に帰ってきてからのことを、簡単にメールで送っておいた。


「直人が帰ってきたら、それはそれで色々と複雑な想いが出てきちゃったんだね」


 それが、お昼ご飯を食べ始めてからの渚先輩の第一声だった。


「ええ、そうなんです」

「直人と一緒に住むことができて嬉しいけど、広瀬さんっていう恋人がいるのにここにいてしまっていいのか……って悩んでいるんだよね」

「……はい」

「私も彩花ちゃんの立場なら、相当悩むだろうなぁ」


 そう言いながらも、渚先輩はお弁当をパクパクと食べ進めている。私なんてまだ一口も食べられていないのに。メンタル強いんだな。それとも、単にお腹が空いていて食欲が旺盛なだけなのか。


「でも、きっと渚先輩ならすぐに決断できそうです。私みたいに心が弱くないから」

「……そんなことないよ」


 すると、渚先輩はしんみりとした表情を見せる。


「意外です。私も渚先輩はメンタルが強いと思っていました。部活ではいつも頼られていますので」

「そうですね。今週から女バスのサポートをさせてもらっていますが、みなさんを引っ張っていましたし」

「それは部活だからだよ。側に仲間がたくさんいるし。金崎高校との試合前に風邪を引いたときには直人の前で泣いたし、ここ何日かは家に帰れば自分の部屋で泣くこともあるし」


 そんなことを渚先輩が口にしたからか、真由ちゃんと香奈ちゃんはとても驚いているようだった。

 正直、私も驚いている。直人先輩が倒れたあのときも、落ち着いて応急処置をしていたし。広瀬先輩とバスケで決着を付けると決めてからも、決して弱音を吐くような姿を私達に見せなかったから。


「だから、彩花ちゃんと同じ立場だったら、私もきっと悩み続けちゃうと思う」

「一晩中考えてしまって、結局眠れなくて。時々、泣いたりもして。それで、みんなに相談しよう思って」

「……そっか。それは大変だったね。あと、ごめんね」

「えっ?」


 どうして、渚先輩は私に謝るんだろう?


「だって、記憶喪失であっても直人と一緒に住めるんだもん。それが凄く羨ましいなと思って。広瀬さんにも許可されたから、昨日くらいは遠慮なく直人とイチャイチャしているかと思っていたの。だから、何というか……ごめんね」


 今朝も真由ちゃんが同じようなことを考えていたし、私って……そんなに肉食な感じに思われているのかな。


「いえいえ、いいんですよ。私もその……そんなことをしちゃうかもしれないって思っていましたから」


 病院を出てから自宅に入るまでは。

 でも、実際に直人先輩と家に帰って、直人先輩の優しさに触れて。このままでいたい気持ちとこのままではダメな気持ちが、私の心の中で戦っている。それは今もなお続いていて。


「要するに、彩花ちゃんは欲求と理性が混在しているんだよ」

「藍沢先輩と一緒に住んでいたいという欲求と、広瀬先輩がいるからそんなことをしてはいけないという理性ですか」

「その通り、一ノ瀬さん」

「彩花ちゃんは葛藤しているってことなんですね」

「一言で言えばそうだね、香奈ちゃん」


 葛藤か。

 直人先輩と一緒にいたいという欲求を満たそうとしても、広瀬先輩のことを考えると罪悪感が芽生えてしまう。

 しかし、ここで直人先輩から離れるという決断をしても、どうしても消すことのできない心残りが生じてしまうと思う。

 欲求を優先するか、ちゃんと理性で動くか。

 どちらの道を選んだとしても、そこには何かしらの苦しみが待っていると思う。その苦しみをどうにかして少なくできないかを模索しているんだと思う。それって物凄くわがままなことで、それこそが私の抱いている欲求なのかもしれない。


「……ひどい人間です、私は。結局、自分のことしか考えていない。決断することのリスクが怖くて、自分で考えなきゃいけないのに、渚先輩や香奈ちゃんや真由ちゃんに決断を促そうとしている」


 夜中に抱いた寂しさや虚しさがまた、私を襲ってきた。あのときと同じように私は涙を落とす。違うのは私の前に3人がいることだ。


「彩花ちゃん」


 真由ちゃんはハンカチを差し出してきた。


「ありがとう、真由ちゃん」


 真由ちゃんから受け取ったハンカチで涙を拭うけど、涙が止まる気配はない。


「彩花ちゃんはひどい女の子じゃないよ。私だって、彩花ちゃんと同じ立場に立ったら同じように考えるかもしれない。もしかしたら、自分のわがままを行動に移しているかもしれない。悩んで、泣くことができるなんて、藍沢先輩のことを大切に思っている何よりの証拠だと思うけどな」


 香奈ちゃんはそう言うと、私の頭を優しく撫でてくれた。そんなに優しくされたら、涙が止まらなくなっちゃうよ。


「広瀬さんはきっと、彩花ちゃんが直人を大切に想っていることは分かっているから、一緒に住むことを快く許してくれたんじゃないかな。抱きしめたりすることもね」

「渚先輩……」

「……それに、彩花ちゃんは強いと思うよ。たくさん悩んで、たくさん泣いて。それでも、決断しようとしている。そんな彩花ちゃんがとても眩しく見えるよ」


 凄いよ、と渚先輩も私の頭を撫でてくれた。

 私が何も決めることのできていない優柔不断な人間なのに、どうしてみんなは優しい笑顔で、優しい言葉をかけてくれるんだろう。人の考えに乗っかってしまおうとまで考えているのに。


「きっと、今……彩花ちゃんは、どうして自分にここまで優しくしてくれるんだろうとか考えているでしょ」

「……凄いですね、渚先輩」


 言い当てられてしまったので、一瞬、背筋が凍ってしまった。


「それは彩花ちゃんが優しい女の子だっていうのを知っているからね。それに、そんな子が今でも直人のことが好きだから」


 そんな渚先輩の一言にはっ、となった。

 そうだよ、私は直人先輩のことが好きなんだ。直人先輩のことが好きだから、一緒にいたいという気持ちも生まれるし、一緒にいてはいけない気持ちも生まれるんだ。

 今の今まで、私は直人先輩のことを考えられていなかった。自分のことばかりで、一番大切な人のことを全然考えていなかった。

 ふと、渚先輩に訊きたいことが浮かんだ。


「渚先輩、1つ……伺ってもいいですか?」

「うん、何かな?」


 渚先輩に訊きたいこと。それは――。


「渚先輩ならどのような決断をしますか?」


 それは決して、渚先輩に決断を委ねるわけじゃなく、ただ、純粋に知りたかったのだ。自分と同じくらいに、いや……より強く直人先輩に好意を抱く渚先輩が、もし私と同じ状況だったら、どんな未来に向かって歩もうとするのか。

 渚先輩は少しの間考えた後に、


「どっちも、かな」


 爽やかな笑みを浮かべながらそう言った。


「どっちも、ですか?」


 意外な答えだったので耳を疑った。なので、私は訊き返す。


「……うん。どっちも」


 落ち着いた口調で渚先輩はしっかりと口にした。


「直人と広瀬さんが恋人同士っていうのは事実だからね。それに、直人のことや広瀬さんのことも大事だし。でも、自分の欲求だって満たしていきたい」

「それじゃ、何も……」

「だから、どっちも叶えられる方法を選ぶ。もちろん、どうすれば直人が幸せになれるだろう。自分は何を満たしたいんだろうって考えた上でね」


 思わず語っちゃったね、と渚先輩は照れくさそうに笑っていた。

 欲求と理性。どっちも叶えたいというシンプルな答えでありながらも、その中身はとても奥深いものがあって。

 私は何を満たしたいんだろう。どうしたいんだろう。それが、直人先輩にどんな影響を与えるんだろう。そう思うと、考えることは山ほどある。

 けれど、私の進む道が段々と見え始めた気がする。


「その表情なら、きっと彩花ちゃんは自分で決断できるよ」

「……ありがとうございます、渚先輩」

「ううん、私はただ、自分の考えを言っただけだよ。それでも、彩花ちゃんのためになったんだったら、凄く嬉しい」

「……みんなに相談して良かったって思っていますから」


 真由ちゃんの言うとおり、悩みを口にして正解だった。ほんの少しずつだけれど思い気持ちが取れていっている。

 それは直人先輩に対しても一緒だ。どんな決断をしても、その気持ちを直人先輩にちゃんと口で伝えなきゃ。

 ――ぐううっ。

 お腹の音が鳴って、思わず笑ってしまう。お腹が減っていると、普通に考えられることも考えられなくなっちゃうよね。

 私はようやくお弁当を食べ始めるのであった。

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