第3話『紅林杏子』

 6月11日、火曜日。

 今日も梅雨らしく、朝からしとしとと雨が降っており、空気もジメジメしている。そんな初夏の空模様は今の俺の気持ちを映しているかのようだった。

 咲が体育館を去ってからは、誰からのアプローチも受けていない。昼休みになって彩花と渚と昼食を食べることはいつものことだし。


「直人先輩、はい、あ~んしてください」

「彩花ちゃんばっかりじゃなくて、私の方も――」


 いや、いつもとちょっと違うか。2人に食べさせてもらうなんてことは、普段はしてもらっていない。これは彼女達のささやかなアプローチかな。咲も放課後になったらアプローチを仕掛けてくるのだろうか。

 そういえば、咲は誰から俺が彩花と一緒に女バスのサポートをしていることを聞いたんだろう。ここに通っている咲の中学時代の友人らしいけれど。

 それにしても、彩花の玉子焼きは美味しいなぁ。渚のだし巻き玉子もなかなかだし。甲乙付けがたい。卵好きで良かった。ささやかな幸せを味わっている。


「2人とも上手だなぁ」


 俺がそう囁くと、彩花と渚の顔がほんのりと赤くなる。

 2人を見ていると恋に真っ直ぐに突き進んでいるのが分かる。きっと、何があっても立ち直れる強さを持っている。それが分かっているのに決断ができないというのは、俺は2人のことを信頼していないってことなのだろうか。


「意外と楽しそうにしているじゃない、藍沢直人君」


 気付けば、見覚えのない女子生徒が立っていた。明るい茶髪とオレンジ色のカチューシャに視線が行く。綺麗というよりは可愛い印象の方が強い。

「あの……あなたは?」


「私の名前は紅林杏子くればやしきょうこ。昨日、あなた達の前に咲が現れたよね。彼女、中学時代からのお友達なの。咲にあなた達が体育館にいることを教えたのは私なんだ」


 なるほど、咲と俺達を繋げるパイプ役は彼女だったってわけか。もしかしたら、彼女も今の俺の状況を知っているかもしれない。


「どうして、紅林先輩が私達のところに?」

「昨日のことを咲から聞いてね。咲が藍沢君に抱いている好意は、彼女が金崎市に引っ越してきた直後から知っているから。咲の応援隊長って感じかな」


 咲、考えたな。別の高校に通っているから、日中は直接アプローチができないけれど、月原高校に通う友達に頼んだのか。それに、周りが咲の想いを認識して協力している様子を見れば、自然と自分への印象が良くなるだろうっていう考えもあるのだろう。


「それで、応援隊長さんである紅林さんがどうしてここに?」

「昨日は咲が色々と失礼な態度を取ったみたいだから、私から謝ろうと思って。あなた達が体育館にいるって教えた私にも責任があるし。女バスにも迷惑をかけてしまったでしょう。本当にごめんなさい」


 紅林さんはそう言うと、申し訳なさそうな表情をして頭を下げる。友達想いの女の子だな。それだけ咲のことを大切に想っているってことか。


「別に気にしないで。広瀬さんが来たときは休憩中だったし、私や彩花ちゃんも広瀬さんのことを特に悪く思っていないから」

「広瀬先輩の言っていることも分かりますし、今一度、自分達の考えを確認できましたから」

「……そう。それを聞いて私も安心したわ」


 紅林さんはほっと胸を撫で下ろしている。実は俺も同じで、昨日の様子からして彩花と渚が咲に嫌悪感を抱いてもおかしくなかったから。


「私がここに来た本当の理由はね、宮原さんや吉岡さんと同じように、咲も藍沢君のことが好きだっていうのを私からも伝えたかったの。咲は3年前に転校してきたときからずっと、藍沢君のことが好きだって言っていてね」


 洲崎にいた頃に俺のことが好きになったって言っていたもんな。俺のことをずっと話しているってことは相当好きであることが分かる。しかも、昨日のように、彩花や渚達に悪く思われても俺のことを引っ張ろうと決める勇気。

 本人が言ったように、咲は相当な覚悟を持っているんだ。俺のことが好きな気持ちは彩花や渚と同等、もしかしたらそれ以上かもしれない。そんな咲の姿を見て、紅林さんは彼女を応援すると決めたのかもしれない。


「宮原さんや吉岡さんより想いが強いかどうかは分からない。でも、咲は2人よりも長く、藍沢君のことを想っているよ。藍沢君は今、どうしているだろうって。特に、咲と藍沢君のお友達が亡くなったときはそうだった。そんなときも、スマホであなたと連絡できるのに、咲はそうしなかった。そんな奥手な女の子なの」


 そういえば、昨日……咲は俺に告白するのにずっと勇気が出せなかったって話していた。恋愛には奥手らしい彼女が昨日のようなことをするってことは、自分が何とかしなきゃいけないって想いをとてもつよく抱いたんだと思う。咲は気が強いけれど、真っ直ぐさを持っているから。

 あと、唯が亡くなったことを、咲は当時から知っていたのか。きっと、美緒や北川がそのことを伝えたんだろうな。


「咲は手強いよ。だから、覚悟しておいた方がいいよ、宮原さん、吉岡さん」

「言われなくても分かってるよ」

「昨日の広瀬先輩を見たときに、そう感じましたから」


 そう言う渚と彩花はいい表情をしていた。


「本当は藍沢君に恋する仲間として、咲には2人と仲良くしてほしかったんだけどね。咲は今の状況がよくないって思っているみたいで。どうしても、宮原さんや吉岡さんとは対立しちゃうみたい」


 2人と咲の考えは相反している。早く決めた方がいいという咲の考えはどうしても譲れないのだろう。


「まあ、私は咲に結ばれて欲しいから咲を応援するけれど。そのためなら何でもするつもりだわ。……そうね、私が何か藍沢君にいいことをしてあげれば、藍沢君は咲と付き合ってくれるのかな?」


 そう言って、紅林さんは少し恥ずかしそうな表情をしてワイシャツの第2ボタンまで外してくる。この子、何を考えているんだ?


「だ、駄目です! そんなことをしようとするのは……」

「直人のことが好きじゃない人がそういうことをしようとするのはどうかと思う。ていうか、時間や場所を考えてほしいかな」


 彩花と渚はどぎまぎとした様子で紅林さんに注意する。


「……冗談だって。咲の好きな人とそんなことをするつもりなんてないよ」


 紅林さんはクスクスと笑っている。この様子からして、彩花と渚のことをからかいたかっただけか。


「でも、実際にこうして会ってみると、咲がずっと藍沢君のことが好きだっていうのも分かるなぁ。もし、咲のことがなかったら、私もすぐに好きになりそうだし」


 俺のことをいい人間だと思いすぎだ。咲の影響なんじゃないかと思う。


「あっ、お昼ご飯の邪魔をしてごめんなさい。食べている途中だったわね。私はそろそろ教室に戻るわ」


 そう言って、紅林さんは教室を出て行った。


「意外と、広瀬先輩よりも紅林先輩の方が危険なような気がします」

「そうだね。ボタンを開けたときの彼女の目は本気だった」


 どうやら、彩花と渚は紅林さんに警戒心を抱いているようだ。

 渚の言うとおり、ボタンを外したときの紅林さんは冗談ではなく、本当に何かしそうだった。咲のためなら何でもすると言っているくらいだし、紅林さんには注意しておいた方が良さそうだ。

 気付けば、昼休みの時間も残り少なくなっていたので、俺達は少し急いで昼食を食べるのであった。

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