第17話『柴崎千夏』

 まだ夕方の4時過ぎだからなのか、客間を出るととても静かだった。

 俺達が泊まっている客間のあるフロアには自動販売機コーナーがある。複数の自動販売機があるので種類は豊富であり、3人の希望した飲み物は全てあって一安心。

 俺は缶コーヒーを飲もうと思っているけれど、種類がたくさんあって、しかも飲んだことのないコーヒーも複数あるのでどれにしようか迷う。勝負に勝つためにも、2本買ってしまおうか。そんなことを考えていたときだった。


「……直人君?」


 その声を聞いて、俺は思わず身震いしてしまう。

 まさかと思って振り返ってみると、そこには浴衣姿の千夏さんが立っていた。彼女の髪は湿っていて、胸元から顔までほのかに赤みを帯びている。きっと大浴場で温泉を堪能し、客室に帰る途中なのだろう。


「偶然だね、こんなところで会うなんて」

「そうですね」


 千夏さん、穏やかな笑みを浮かべている。


「家族旅行なのかしら」

「ええ」


 俺のことを待っている人がいるんだし、さっさと飲み物でも買って帰ろう。それに、2年前のことを謝られても、本能的にこの人とは長く一緒にいたくない。

 俺は千夏さんのことを半ば無視し、自動販売機で3人の欲しい飲み物を買おうとする。

 しかし、


「……本当にごめん」


 背後から千夏さんに抱きしめられる。その瞬間、とてもドキドキした。それは恋心や興奮という可愛い理由じゃなくて、理由の分からない恐ろしさから。彼女の体は温かいけれど、非常に寒気がした。


「唯のことなら昨日謝ったじゃないですか。離れてくれませんか。俺には待たせている人がいるので」

「……いや」

「……どうしてですか」


 なぜだろう。

 千夏さんから伝わってくる温もりが段々と似てきているのだ。2年前のあの日、唯に手を置かれたときに感じた温もりと。


「直人君のことが好き」


 その言葉を言われた瞬間、俺は千夏さんと向き合わなければいけないと思った。俺の我が儘で彼女を無視してしまってはいけないと思って。

 千夏さんの方に振り返ると、彼女は俺のことを見上げていた。今の彼女の顔はあのときの唯の顔とどこか似ている。


「たまに家に来たときには私とも一緒に遊んだよね。直人君と会う度に、あなたのことが頭から離れなくなって。好意を抱いていることはすぐに分かった。唯があなたのことが好きで、告白するって聞いたときは正直、辛かった」


 見た目が似ている姉妹だとは思っていたけれど、まさか心まで似ているとは。姉妹で俺を好きになってしまったのか。


「あの日、唯がなかなか帰ってこなくて。家族みんなで探したけど全然見つからなくて。だけど、灯岬の下の岩場で唯が亡くなっているのを知って。事故だと思いたかったけれど、直人君に告白しに行くことは知っていたから、もしかしたらって思った」

「じゃあ、本当は……」

「信じたくなかったよ! 唯が自殺したなんて。でも、直前に唯が直人君と会って、直人君が振ったってことを知って。そうしたら、直人君の好きな気持ちが一瞬にして変わっちゃって。直人君のことが許せなくなった」


 事故だと断定できれば、自分の気持ちにけじめを付けることができるかもしれない。でも、自殺の可能性が少しでもあれば、その原因を作ったかもしれない人のことを恨みたくなる。それが例え、自分が好きな人だったとしても。


「でもね、一番許せないのは自分自身だったんだよ」

「何故です?」

「唯が亡くなったって知ったとき、実はほっとした自分がいたの。これで私にも直人君の彼女になれるチャンスがあるって。そんなことを想った自分がとても嫌になった。罪深いとも思った。それを全部、直人君にぶつけてごまかしたかったのかもね……」


 千夏さんのごまかせない気持ちが涙となって溢れ出す。いや、無理矢理閉じ込めていた気持ちを解き放っているのだろう。

 昨日、唯の墓場の近くで謝られたとき、どうして急に謝るんだと思ったけれど、そういう理由だったのか。

 俺は指で千夏さんの涙を拭い取る。


「あなたを幸せにさせて。それが唯とあなたへの罪滅ぼし。もちろん、あなたのことが好きだからっていうのが一番だよ」


 非難されてから俺は千夏さんのことを悪魔のように思っていた。彼女の言葉をきっかけに不登校へ一気に加速したこともあって。けれど、今の彼女は俺に恋をする普通の女性に見えた。彼女の本音を知ったからだろうか。


「……ごめんなさい」


 それでも、俺は千夏さんと恋人として付き合うつもりは全くない。

 嫌いなわけではない。罪滅ぼしという言葉が気に入らなかったけれど、例えそのつもりでなくても彼女とは付き合わないという決断が変わることはない。


「やっぱり、月原から連れてきた女の子がいるから?」

「……ええ。俺の中では彼女達とあなたは違う場所にいる。千夏さんは唯のお姉さんとしか見ることができないんです。気持ちに応えられなくて、ごめんなさい」

「そっか……」


 そう言って、悲しげに笑う千夏さんの顔もあの日の唯とそっくりだった。条件反射なのか千夏さんのことを強く抱きしめる。


「千夏さん」

「なに?」

「また、昔のように遊んでくれますか。昔のように楽しい話を俺としてくれますか」


 俺が千夏さんを怖がっていた理由。いくつかあるけれど、そのうちの1つは今まで親しかった人が、気持ちの上で果てしないところまで離れてしまったからだった。そのことがとても寂しく、切なかったのだろう。

 そんなことを言うなんてと言わんばかりの驚いた表情を見せた後、千夏さんは嬉しそうに笑った。それは俺の知っている彼女の笑み。とても可愛らしい。


「私から言おうと思っていたのに、先に言われちゃった。直人君がそう言うんだからいいに決まってるよ」


 ようやく、千夏さんとも以前のような関係に戻ることができたと思う。


「……何をしているんですか?」


 気付けば、彩花、渚、美月が抱きしめ合っている俺達のことを見ていた。彩花と渚はショックな表情で、美月は驚いてはいるもののどこか面白がっているようだった。


「直人の帰りが遅いから様子を見に来たんだけど、これってどういうことなの?」

「えっと、これはだな……」

「よろめいちゃった私を直人君が抱き留めてくれただけだよ。温泉に入ってきたんだけど、気持ち良くて長く浸かっていたからのぼせちゃって。これでも、脱衣所で扇風機の風に当たりながら休んだんだけれどなぁ」


 千夏さんのその言葉に3人も納得したご様子。真っ赤な頬を見て彼女の言葉を信じてくれたのだろう。彩花も渚もほっとしている。


「そうだったんですか。私、直人先輩がその女性のことが好きで抱きしめているのかと思っていました。とんだ早とちりでしたね」

「……本当にそうなのかなぁ」


 彩花の横で美月は俺達のことを見て疑っていた。鋭い妹だ。


「この2人が直人君の連れてきた女の子なんだ」

「ええ」

「初めまして、宮原彩花といいます。色々と事情がありまして、直人先輩とは寮で一緒に住んでいます」

「初めまして、吉岡渚です。直人とはクラスメイトです」

「そうなの。初めまして、柴崎千夏です。あなた達も知っているかもしれないけど、2年前に亡くなった唯の姉です」


 千夏さんがそう言った瞬間、彩花と渚は真剣な表情になって俺のことを自分達のところに引き寄せる。そうか、2人にとって千夏さんは――。


「彩花、渚、もう大丈夫だよ。たった今、千夏さんとはちゃんと話したから。もうあのことが起こる前のような関係ですよね、俺達」

「そうだね」


 そう言って微笑む千夏さんに、彩花や渚よりも美月が一番ほっとした様子だった。


「早とちりしてしまいましたね、渚先輩」

「そうだね」


 さっき2人が俺を千夏さんから引き離したのは、2年前に千夏さんが俺のことを非難したことを知っていたからか。俺のことを守ってくれようとしてくれていたんだ。


「直人君、月原に上京しても高校生活を楽しんでいるのね。今のでよく分かったわ」

「それなりに楽しくやってますよ」

「そっか。じゃあ、私は部屋でゆっくりするわね」


 俺達の元から去る姿もあの日の唯と似ていたけれど、彼女の後ろ姿はとても生き生きとしていた。まるで、一つの区切りを付けて次なる場所へと向かっていくように。


「……あっ、千夏さんと話していたからまだ買ってないんだった。気分も変わったかもしれないから、この中から飲みたいものを選んで。ただし、1本ずつだ」


 飲み物の種類が多いために、彩花も渚も美月も迷っているようだ。自動販売機の前に来たら別のものを飲みたくなったのかな。俺も何の缶コーヒーを買うか決めておこう。

 部屋に戻って一休憩したら、後半戦のスタートだ。

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