第21話『彩花の過去』

 第2体育館の近くにあるベンチに着くと渚、俺、一ノ瀬さん、香奈さんという並びで座った。こうして間近で見ると一ノ瀬さんって大人っぽくて、上級生なんじゃないかと思ってしまうほどだ。


「さっそく訊くけれど、一ノ瀬さん。昨日の夜、香奈さんから話を聞いて率直にどう思った? 彩花が俺を束縛しようとするのは信じられなかった?」

「……そうするかもしれないと思いました。なので、特に驚きはありません」


 意外だ。親友の一ノ瀬さんがそんなことを言うなんて。けれど、思い返せば一ノ瀬さんと出会ってから、彼女は一度も表情を大きく変えたりしていなかったな。

 一ノ瀬さんが驚かないということにもそれなりの理由があるはずだ。


「私にとっては、彩花ちゃんがあんなに元気そうにしているのが信じられないくらいです。中学を卒業するまでは、本当に大人しい女の子だったんですよ」

「俺には大人しいという方が信じられないくらいだ。家でも、彩花は常に明るく振る舞っているし」

「そうですか。彩花ちゃんがそうなれたのはきっと、藍沢先輩と出会って先輩のことを本気で好きになったからだと思います」


 俺の知る限り、彩花に大人しいなんていう印象はこれっぽっちもなかった。一ノ瀬さんの知る大人しい彩花はどうしても想像ができない。


「でも、1番信じられないのは男の人に本気に好きになったことです」

「どういうことだ?」


 その瞬間、一ノ瀬さんの目つきが変わった。落ち着いた柔らかな視線から鋭いものへと変わる。


「彩花ちゃんは中学時代、同級生の男の子と付き合っていたんですよ」

「つまり、あいつには元カレがいるってことか」


 それも何だか信じられないな。彩花に元カレ、ね。


「ええ、浅沼晴樹あさぬまはるきという男子です。彩花ちゃんは浅沼君に一目惚れをして、勇気を出して告白した結果、付き合うことになりました」

「そのことについて、一ノ瀬さんはどう思った?」

「当時は嬉しかったですよ。勇気を出して告白できて、人気のある男子と付き合えるようになったんですからね。でも、優しそうな振る舞いをするだけで、本当の優しさは一切なかった」

「そこに2人が別れた原因がありそうだな」

「ええ……」

「いったい、2人に何があったんだ?」


 彩花はそう簡単に好きな人と離れようとするような女の子じゃない。浅沼という男子との間に、別れる原因となった決定的な出来事があったに違いない。

 一ノ瀬さんは下唇を噛んで少しの間、口を噤んでいた。


「1年前、彩花ちゃんは浅沼君達に強姦されかけたんですよ」


 それが一ノ瀬さんからようやく出た言葉だった。


「そんな……」

「酷すぎるよ!」


 衝撃が強かったのか、渚と香奈さんはそんな言葉を漏らしていた。


「浅沼君は全く彩花ちゃんのことを愛していなかった。彩花ちゃんを自分の欲望を満たすための道具としか思っていなかったんです。だから、取り巻きの男子達と一緒に彩花ちゃんを襲おうとしたんです」



 一ノ瀬さんの話したことに俺は言葉が出せない。

 まさか、彩花が強姦にされそうになった経験があるとは思わなかった。それを匂わせるようなことを彩花からは一度も言われたことはなくて。でも、彩花の気持ちを考えれば、俺にそう簡単に言えることじゃないか。

「最低な奴らだな……」

「私も同感です」

「一ノ瀬さん。強姦されかけたということは、彩花が逃げることができたのか? それとも、誰かにその現場を見られて浅沼達が逃げたのかな」

「逃げることができたというのが正しいです。実は、彩花ちゃんにはお姉さんがいるんです。お姉さんが浅沼君達と会う彩花ちゃんを見かけたそうです。普段と様子が違う彩花ちゃんに違和感を抱いたお姉さんが後をつけたら、襲われそうになった彩花ちゃんが叫んだ場面を目撃したんです。そこでお姉さんが彩花ちゃんを助けて、警察に通報したんです」


 なるほど、だから複数人で襲われても未遂で終わったわけか。というか、お姉さんがいたことも彩花は話していなかったな。今、初めて知ったよ。まだまだ、彩花のことは知らないことばかりだ。


「警察に通報したってことは、浅沼達はやっぱり?」

「逮捕されました。でも、未成年であることや強姦未遂だったこともあって、今はもう彼も少年院を出たと思います。彼の取り巻き達はもっと早く」


 そこでやっと全てが繋がった。どうして、彩花が俺を束縛したがるのか。その全貌がやっと分かった気がする。


「彩花は俺に浅沼達から守ってほしかったのか……」

「ど、どういうことなの? 直人」

「考えてみてくれ。1年前、浅沼達は彩花を襲う計画を立てていた。そして、実行しようとした。でも、彩花が叫んだことや彩花のお姉さんが助けたことで、計画が失敗した上に警察によって逮捕されてしまった。そこで抱く感情は何だと思う?」

「……恨み、かな」

「俺も同じことを考えたよ、渚。欲望を満たすはずだったのに、実際には逮捕されたんだ。浅沼達はきっと、檻から出たときには彩花に復讐しようって決めていると思う。そして、1年前に味わえなかった快感を今度こそ味わってやるって」

「宮原さんもそれを考えて、自分の身を守るために直人に助けを求めたんだ……」


 彩花は自分に元カレがいた事実をどうしても言い出せなかったのかもしれない。その事実を伝えることで、俺が離れてしまうと思ったから。言い出せない彩花は束縛するという手段を使ってでも、俺を自分の隣にいさせたかったのか。いずれは浅沼達が外に出てくる。そのときは必ず復讐されると確信していたから。それを一ノ瀬さんも分かっていたから、俺が束縛された話を聞いても驚きはなかったんだろう。


「じゃあ、真由ちゃんがさっき、1番驚いたのが藍沢先輩のことを好きになったことだって言ったのは……」

「うん。浅沼君達に強姦されかけた過去があったから。あの後、彩花ちゃんは必要以上に男子に対して恐れを抱いて、話しかけられるだけでも挙動不審に陥る時期もあった。卒業する頃には少しは落ち着いていたけれどね。ただ、今の藍沢先輩の話を聞いて、1年前に負った傷は殆ど癒えていなかったのね。それも仕方ないか……」


 一ノ瀬さんが話している中、俺は彩花を不良から助けたときのことを思い出した。あの時の彩花は酷く怯えていた。その原因は1年前の事件にあったんだな。


「高校に入学してすぐに不良に絡まれたと聞いたとき、私の恐れていたことが起こってしまったのかと思いました。でも、実際には藍沢先輩が助けてくれて、そのことを彩花ちゃんは嬉しそうに話していました。そのとき、私は彩花ちゃんが本当に藍沢先輩のことが好きなんだと思いました」

「そう、だったのか……」

「ただ、浅沼君のこともあって、藍沢先輩のことはあまり信用していなかったのですが、今回会ってみて藍沢先輩なら信頼できると思いました」


 親友だから俺を疑ってしまうのは当たり前だ。それだけ、彩花のことを大切に思っているんだろう。


「彩花ちゃんを守ってくれますよね?」

「……彩花を守るつもりで一ノ瀬さんと話したいと思ったんだ。そんなことを言われなくても俺が彩花を守るよ」

「それを聞いて安心しました。それにしても、彩花ちゃんが藍沢先輩のような人と出会えるなんて。ちょっと羨ましいですね……」


 ずっと硬い表情だった一ノ瀬さんが初めて笑みを見せた。期待通りの可愛さだ。

 一ノ瀬さんのおかげで彩花の過去が分かった。彩花の不安の種は1年前の事件を起こした浅沼達にあることも。


「これからどうするの? 直人」


 渚の問いかけは今、俺が最も考えるべきことだった。


「浅沼達のことは置いておいて、まずは家に帰って彩花と話す」

「家ってもちろん、直人の家だよね?」


 渚は俺に強い視線を送っているけれど、彼女の瞳には涙が浮かんでいた。訊かなくても分かっているんだ。束縛する理由が分かった今、俺の帰る家がどこであるのかを。


「……彩花の待っている場所は俺の家だ。俺は自分の家に帰るよ」

「そう、だよね……」

「彩花に浅沼達のことを話して、彩花を守ることを伝える。そうすればきっと、彩花も心を開いて俺を束縛するようなことはなくなるさ」

「……うん、それがいいよ」


 堪えることができなくなったのか、渚は大粒の涙を流して、ベンチから立ち去ってしまった。

 彩花に協力すると言いながらも、渚の心の中にはずっと俺の側にいたいという強い気持ちがあったんだ。一昨日の夜に発した「寂しい」という言葉が、今でも変わらない彼女の本音なんだと思う。


「渚先輩は本当に藍沢先輩のことが好きなんですね」


 香奈さんはいつもとは違って落ち着いた口調でそう言った。


「渚先輩が泣くところを見たのは初めてです。渚先輩もか弱い女の子なんだな……」

「……それでも、後輩の前では頼られる先輩でいようと努力する。渚は本当に凄いよ」


 何度も俺を勇気づけてくれたし。渚がいなかったら、今の俺はなかった。


「あたしも渚先輩は凄い人だと思います。ますます渚先輩を目指したくなりました」

「その気持ち、絶対に無くさないでほしい。それは香奈さんのためになると思うし、渚のためにもなるだろうから」

「はい、そのつもりです」


 先輩にとって、自分を目標にしてくれる後輩がいることとても嬉しいことだ。香奈さんの気持ちは2人にいい刺激を与えるだろう。


「どうやら、あとは藍沢先輩に任せて大丈夫そうですね」

「一ノ瀬さん、彩花のことを話してくれてありがとう」

「いいえ、そんな。私も藍沢先輩と一度話してみたかったですし。それに、彩花ちゃんの本音に寄り添おうっていう先輩の気持ちが分かって嬉しかったです」

「彩花は悪い子じゃないって信じているからな。彩花から一旦離れるって決めたときもそれだけは思ってた。だから、彩花を助けたい気持ちが生まれたんだと思う」

「そうですか。もし、何か力が必要なときには協力させてください。親友なのに何もできないのは悔しいので」

「……ああ、分かった。そのときは頼むよ」

「せ、先輩! あたしもいますからね! あたしだって彩花ちゃんのためなら……」

「分かってる。香奈さんにも助けを求めるからさ。2人ともありがとう」


 どうやら、彩花には強力な助っ人が何人もいるみたいだ。それも彩花にちゃんと伝えないといけないな。

 今すぐに家に帰って彩花に会いたいけれど、渚が走り去ってしまったからまずは渚のところに行かないと。

「俺、渚のところに行ってくるよ」

 そう言って香奈さんと一ノ瀬さんの顔を見ると、2人とも優しい笑みを浮かべながらしっかりと頷いてくれたのであった。

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