最終話 宣戦布告
風鈴館は連日の満員で賑わっていた。
お客さんの半分は相変らずの「外国人」である。
先程、静子がフロントの前を通りかかった時、遠藤の弾んだ声が聞こえてきた。
「二泊三日のご予定ですね。お煙草はお吸いになりますか、勇者様」
あの日以来、異世界からの訪問客が絶えない。
どうも、ここの温泉の泉質が異世界の住民にとってはまさに癒しを与えるものだったらしい。通路は異世界住民の総意で維持されることになり、彼らは次から次へとやってきた。
貨幣経済の違いから、彼らは宿泊料を異世界流に支払ってゆく。それは貴金属類であることが多かったが、魔法使いは祈ることで支払っていった。
それは異世界の住民にとっては大したことではなかったのかもしれないが、魔法を知らない地球では絶大な効果がある。
いつしか「開運温泉」という鉄壁のイメージが出来上がり、旅館は一般客の訪問のほうでも大忙しとなった。
ここでは祈り以外の魔法はご法度で、異世界の客は地球の客と同じようにゆるゆると時間を過ごしてゆく。
先程帰った家族連れの子供が、
「すごかったんだよ。お風呂で牛乳を一気に飲み干す人がいてさ――」
と、楽しそうに話していたのを、静子は目を細めて見送った。
――それにしても。
玄関を掃き清めていた静子の顔に急に翳が差す。
それを遠くから眺めていた榊原は、傍らで風呂敷包みを降ろした佐々木に言った。
「姉さん、また兄貴のことを考えているぜ」
「まったく。大繁盛はいいことだが、あいつが姿を消してから従業員がなんだか元気がなくて困る」
「いつまた戻ってくるんですかねえ」
「さあな、あいつのことだから向こうでも大忙しなんだろう?」
佐々木は庭木の根元に一本の日本酒を置いた。明日の朝にはなくなっているだろう。旅館の修繕を一手に引き受けている緑色の小人達の大好物だ。
――特に老いぼれのやつは目を細めて喜ぶに違いない。
そう考えて佐々木は思わず笑みを溢す。
庭にある池にはゆっくりと亀が泳いでいた。先日の襲撃を踏まえ、神様が何匹か送ってきたやつである。
たまに爬虫類専門の飼育員という男がやってきて様子を見ては帰ってゆく。佐々木とは仲良しで、よく話をするのだが、
「最近、子育てで悩んでいましてね」
と言っていたので、
「お前さん、飼育員の癖が抜けないんじゃないのか。頭を切り替えて親として接してみろよ」
と言ったら喜ばれた。
亀はたまに交代で夜中にいなくなるらしいが、どこに行っているのかは分からない。
分からないと言えば、近くにあるタイヘイ・リゾートホテルのオーナーは、原因不明の病気で亡くなったと聞く。なんでも見つかった時にはかさかさに乾いていたと聞くが、意味が分からない。
庭を団体客が歩いてゆく。先頭を歩く男が、
「いいですか、皆さんは私が選んだ魔王育成プログラムの優秀な候補者です。そこのところを弁えてですね――」
と言っていたので、佐々木は思った。
「それであいつが暇になると嬉しいんだがなあ」
静子は静かに庭を掃く。
離れの方から女の嬌声が聞こえてきたが、客のプライバシーには踏み込まないのが鉄則だ。それにあれは耳かきをしている音だと聞いている。
そこを利用している男に、
「そんなに気持ちがよいのですか」
と訊ねたところ、彼は、
「いや、女将さんには一切手を触れてはならないと釘を刺されておりましてね」
と、ひどく残念そうに言っていた。
庭の掃除が一通り終わったので、静子は玄関のほうに戻ってきた。すると玄関前で新任の大番頭がにこやかに頭を下げていた。
温厚篤実な男――静子の旧知の人物であり、神様が、
「どうも昔馴染みに無理を言って、禁忌に触れて表に顔を出せなくなっていたらしい。そっちは俺が処理しとくから、仕事が出来るのでここで使ってやってくれ」
と言って連れてきた。
「ああ女将さん。掃除が終わられたんですか」
彼の胸には『榎津』という名札が晴れがましく付いていた。
大番頭と話をしていると、子供が一人、玄関に駆け込んでいった。靴をあっちとこっちに脱ぎ捨てると、そのまま中に駆けてゆく。
その後ろを大きな男性が追いかけてゆき、玄関で靴を拾うと、
「ちゃんと揃えて置きなさいと、いつも言っているじゃないか」
と言った。
その声に静子の背筋が伸びる。
手が震えて箒を取り落とした。
しかし、それを拾う余裕がない。
そんな彼女に後ろから声がかかる。
「こんにちわ。今日は宣戦布告に参りました」
静子が振り向くと、小さな男の子を抱えた厨門が立っていた。
「その節は大変有り難うございました」
そう言ってにこやかに笑う厨門に、静子は震える声で訊ねた。
「あの、今の、方は――」
「ああ、私の主人です。貴方の彼ではありませんし、彼はまだ貴方のことを知りません。なにしろ、彼がここに来たのは、我々が向こうに戻った後のことでしょうから」
「貴方、すべてを知っていらしたんですか?」
「もちろん。だから渋谷でお会いした時、貴方の彼に会わなかったんです。目の前でいきなり痴話喧嘩を始められても困るでしょうから」
「でも、どうして今回はわざわざいらしたんですか」
「実は、もうしばらくしたら向こうに戻ることになりまして、それでご挨拶しておこうと思いまして。それに――」
厨門は静子の耳元で囁いた。
「――愛は障害が大きいほど燃え上がると言うでしょう? 貴方には絶対負けるつもりはありませんので」
そう言って厨門は玄関へと入っていった。
静子はしばらくその場に立ち尽くしていた。
手の震えが止まり、腹が座る。
心の中で、久しぶりに炎が燃え上がった。
――上等じゃない。その喧嘩、買った!
来ることが出来るのならば、行くことも出来るはず。
明日、神様が来る予定になっていたので、詳しく聞いてみよう。場合によっては能力の一つや二つ、無理を言って貰おう。
そして休暇をとって出かけるんだ。
彼には「貴方の荷物を半分持たせてほしい」という約束を果たして貰っていない。だから嫌とは言えないはず。
――それよりも何よりも。
静子は両の拳を握る。
――私はまだ一番大切なことを言っていない!
( 終り )
大魔王の憂鬱 阿井上夫 @Aiueo
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