第七話 第三の襲撃 二
俊夫が路上に行き倒れているところが発見されてから、一年になろうとしていた。
旅館の経営は相変らずの低空飛行で、寒くなると客足がさらに弱まる。例年、冬の時期になると危機的状況になり、今まではなんとか凌いできたものの、その年とうとう最悪の事態が到来した。
「幽霊、ですか?」
午前中に外の掃除を終えて従業員の休憩室に腰を落ち着けた俊夫は、彼を追いかけるように入ってきた遠藤からその話を聞いて驚いた。
以前より静子から聞かされていたものの、実際に出たという話は初めてである。
「そう。昨日の夜中に中国人のお客さんが見たと言って、大騒ぎになった」
「ああ、だから今朝の雰囲気がやけに重かったんだね」
「お客さんがいるところでは話せませんからね。佐藤さんには早めに教えておきたかったんだけど、タイミングが合わなくて」
俊夫は朝一番から外の掃除を始めており、なにかと人の姿が絶えない中庭にいたので、その機会がなかったらしい。
「それはそうだよね。従業員が浮足立っていたら不味いもの」
「で、早速その情報がネットで拡散されていて、朝にはキャンセルが二件。理由は言わないけど、多分幽霊騒動が原因だと思います」
「これ、後を引きそうだね」
「まったくですよ。佐藤さんのお陰で昔よりも旅館全体の士気が高揚している時なのに」
「おいおい。俺は何もしていないよ」
そう言ってにこにこ笑う俊夫に、遠藤はいつも驚きを禁じ得ない。
俊夫は自覚していないかもしれないが、彼の存在は従業員の意識を変えていた。もともと女将さんの下で結束していた従業員達は、一方で何をどうしたらよいのか分からずにいた。
サービスの本質は何か。何をどうすればお客さんに喜ばれるのか。それを教えてくれたのは俊夫の行動である。
常にお客様目線でものを考え、行動し、時には「そこまでやるのか」というところまで突き詰めてみる。
そんな彼のサービスのクオリティが従業員全体に浸透した結果、今の旅館は一年前とはすっかり見違えるほどに成長していた。
遠藤自身、いつまでも佐藤の手を煩わせてはいけないと思い、中国語を勉強していた。仕事が終わった後に勉強するのは大変だったが、それも、
「いや、このままだと佐藤さんが大変だから」
と、目をこじ開けるようにして勉強を続けていた。先日、やっとお客さんと簡単な会話が出来るようになって、よしこれから、と思っていた。
坂東もそうだ。すっかり人が変わった坂東は、新しく入った料理人と共に、下仁田葱の調理法をあれこれと考えていた。
昔からの調理方法を坂東が教え、最近のレシピを新しい料理人が提供する。基本に拘っていた頃の坂東には考えられない行動だったが、それがもう少しで実を結びそうになっていたところである。
それが、幽霊騒動で瓦解しようとしていた。
――流石に佐藤さんでも幽霊までは手におえないよな。
遠藤はそんなことを考えながら、佐藤の顔を見つめていた。
*
幽霊騒動は一度だけではすまなかった。
その後、頻繁に「幽霊が出た」という騒ぎが続いて、その度にネットで情報が拡散され、予約のキャンセルが生じる。それにより、そもそも低空飛行だった経営は完全に暗礁に乗り上げた。
年末年始は、後藤家と榊原が関係先の忘年会と新年会の予約を回してくれたので、収支自体はなんとか維持できたものの、新年会シーズンが過ぎるといよいよ経営は火の車となる。
宿泊客のいない旅館はなんとなしに物寂しい。そんな中でも静子は背筋を伸ばし、笑顔を絶やさずに日々女将を務めていたが、状況を一番よく理解しているのもまた彼女である。
大番頭が持ってくる売り上げ報告は日に日に悪化しており、融資先金融機関も渋い顔をし始めた。資金が絶えればいくら従業員の士気が高くても、旅館経営は成り立たない。
その苦しい状況を一緒に背負ってくれるのは、やはり俊夫であった。
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