第106話 生きた証

突然だった。事故というものはそういうものなのだろう。予告のある事故なんてない。胸騒ぎも予兆もない。


留学中でのスキー。雪山で車がスリップして木にぶつかる事故。降りたところに後ろからきたトラックもスリップして、その車にはねられた。即死だった。


それから1年の記憶はあまりない。学生だったこともあって、ただ何かに逃げて、篭って過ごしていた。当初は、彼女の写真がなかったことを後悔した。彼女が嫌がってでも、もっと写真や動画を撮っておくべきだった、と思った。


でも、今思い返すと、写真嫌いの彼女のお陰で僕は1年で日常に戻れたのかもしれない。もし、彼女の写真や動画がたくさんあれば、きっと僕はそれを見返し続けていただろう。そして僕の心を捉え続けただろう。


だから、まさかこんなところで僕は彼女に再会するとは思っていなかった。


瀬戸内国際映画祭で友人たちと香川県のアートの島「直島」を訪れた時だ。


僕たちはある展示 (http://benesse-artsite.jp/art/boltanski.html) に訪れた。それはクリスチャン・ボルタンスキーさんという方による2008年から行われているプロジェクトで、人々のあるものを記録し公開している。


そこで、僕はライブラリから無意識に彼女の名前を検索した。今でも1か月に1度はGoogleで彼女の名前を検索してしまう。打ち慣れた彼女の名前。


想像に反して出てきた彼女の名前。まさか、という思いが先に立つ。特徴的な名前ではあるけれど、同姓同名の人とも限らない。でも、そこに添えられていたメッセージは、写真嫌いに触れられた彼女のものだった。


日付は事故から2年前。彼女は、僕と出会う前にここを訪れていた。


震える手で再生ボタンを押すと、流れてきたのは、ドクン、ドクンというリズム。彼女の心臓音だった。生きていた時の心臓の音だった。


彼女はこの美術館で自分の心臓音を録音した。


音というものが、そして、メロディさえも持たない音というものが、こんなにも重いものだとは知らなかった。まるで自分の細胞の隅々までその鼓動のリズムが響いてくるようだった。僕は音に視界を奪われ、時間の感覚さえも奪われた。ただ、その音に神経が吸い込まれていった。まるでブラックホールのような密度のある音だった。何かを訴えかけているような響きが、僕の身体にこだました。


この美術館を作ったボルタンスキーさんはこう言ったそうだ


- 臓音というのは、存在よりも不在を感じる音でもある

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