第95話 バニラの花言葉

明細胞肉腫という珍しい癌だった。28歳という若さで発症したためか、発覚した頃にはもう手遅れだった。


アヤは一言で言えばよく笑う子だった。僕のメールの文章が硬い、とケラケラと笑った。チャックが開いてるよ、と笑った。泣いている時もあったけれど、その10倍は笑っている子だった。僕は彼女の笑顔を見ているだけで、幸せになれたものだった。


病室で彼女は「バニラシェイク」をよく欲しがった。僕はマクドナルドのマックシェイクやロッテリアのバニラシェーキ、モスシェイクを日々届けた。


毎回、飲む度に「この匂いと濃厚の肌触り、最高だね」と大きな口を空けて笑いながら言うのだった。バニラを好み、ストロベリーやチョコは欲しなかった。


ハードロックカフェのミルクシェイクを無理やりお願いしてテイクアウトしてもっていった時はどのシェイクよりも喜んで飲んでくれた。


「パルプフィクションという映画があるの。その中で、『5ドルもするシェイク』というのが登場するのね。ジョントラボルタがそれを飲んで美味しさに驚くシーンがあるの。そのシーンがとても好きで。そのシェイクはこんなシェイクの味がするのかしら」と笑った。


「初めて、ニューヨークにいった時ね、Ronny Brook Milk Barというお店があって。アメリカではバニラシェイクのことをミルクシェイクっていうことも多いんだけど。とにかく、私はそこでバニラシェイクを飲みたかったの。でもどうしてもバニラ(vanilla)の発音が上手にできなくて。頑張って何度か発音したんだけど、なぜか野菜シェイクがでてきちゃったの。ベジーシェイクって聞こえたのかな」と笑った。


「中学校の家庭科でスイートポテトを作ったのね。その時にバニラエッセンスを買ったんだけど、その甘い匂いに興奮して、思わずバニラエッセンスを飲んじゃったの。でも味は全然しなかった」と笑った。


アヤはよく笑い、そして、夜に少し泣いた。がん治療によって、アヤの嗅覚は変わり、僕がつけているジルシチュアートのバニラの匂いにも気づけ無くなったけれど、それでもバニラシェイクは飲み続けた。きっと、アヤは自分自身で、そのバニラの匂いはわからなくなっている。でも、それに気づかれるのが嫌で、飲み続けていたのだろう。


「バニラの花言葉って知ってる?」とアヤはいう。


「永久不滅なんだって」。僕はアヤの手を握りながら「そうなんだ」とこたえる。


「でもね、バニラの花は1日しか咲かないの。なのに永久不滅っておかしいと思わない?」。「おかしいね」と僕はこたえる。


「花がしぼんで、その後にサヤができて中に豆ができるの。その匂いが強烈で、ずっと続くことから永久不滅っていうんだって。花は散っても匂いは永久不滅に残るんだね」相変わらずの笑顔でアヤはいう。


アヤはバニラに自分の願いを投影していたのだ。自分の命はバニラの花のように短くても、自分の思い出だけでも残ってくれるように、と。


僕は、こんなにたくさん、こんなにきれいにアヤの笑顔を映像に残せるカメラがあるのに、なぜ匂いは残すことができないんだ、とiPhoneを握りしめた。

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