第56話 ミュシャ



初めてミュシャの絵を見たのは、人から貰った栞のイラストだったと思う。凛とした女性と美しい曲線で描かれたその絵は、中学生の僕の目には女神のように写った。


それがアール・ヌーヴォーの旗手の作品だなんて当時は知らなかったけれど、普段、目にしている絵とは違うソレは、中学生を呆けさせるに十分だった。凛とした女性、華美な曲線、花などのモチーフ、様々に表現されるミュシャの絵だったが、どちらかといえば、僕にとっては、それは「威厳」とでも評さるべき対象で、その絵が訴えてくる規律には、ある種の神々しさと畏怖が綯い交ぜになっていた。いわば、背筋をきれいな人を見ると、自分の背筋も伸びるように、その絵を見ると僕は何か崇拝の気持ちを感じることになった。富士山に感じる気持ちにも近いのかもしれない。


そんな私がミュシャの生まれ故郷にいったのは不思議からぬことだった。チェコはなかなか遠く行く機会は訪れなかったのだけれど、「大学の卒業旅行でどこに行きたいか」と考えた時に、自然とそこを選ぶことになった。ただ、友人の誰も一緒に行ってくれなかったけれど。


ただ結果的にプラハのミュシャの美術館はおもったより感動はしなかった。私は絵の中の女性に畏怖を感じていたのであって、絵の展示自体になにかを感じることはなかった。もちろん、生で見るミュシャの絵はそれはそれで力強くあったのだけれど、最初みた神々しさを超えるものではなかった。


ましてやマウスパッドをお土産にすることはなかった。


ただし、プラハの町は私をとりこにした。石畳と何か少し落ち着いた町並みに、当時のミュシャの気持ちを思った。彼は晩年、チェコの愛国心を支える作品を多く作った。あるいは、古代はスラヴ語の民族が統一民族だった、という想像を絵にした。彼は、国を思う人であった。その結果、彼の作品は愛国心を刺激されるとされ、ナチスドイツ軍に詰問をされることになった。


そこで、思う。彼の描く女性たちは、お気楽に何かを見つめているのではなかったのだ、と。きっと戦う何かがあり、それに向かう眼差しがミュシャの絵には込められていた。その目線とは、何かを守るために戦う人が見せる目線だったのだ。


そして、私はプラハの町を歩き、ミュシャの描いた女性たちが見ていた先を考えた。私が中学校時代に、ミュシャの絵に共感したことも納得した。あの頃の私は、自分で精一杯だった。肥大化する自意識と現実とのギャップにあがいていた。そんな中、ミュシャの絵は、何ら動じることはなく信念に添って動こうとする人たちが描かれていた。少なくとも、中学生の私はそれを感じ取った。


中学生の私はミュシャの絵に育てられたのだった。

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