第51話 寝る前に読むレシピ本

僕の本棚には、一冊のレシピ本が置いてある。「カフェ飯を家で作れる」というような本でカフェ飯が流行りだした5年前頃に買った一冊だ。


つまり、当時の彼女と僕が一緒に暮らしていた時に一緒に買った一冊だ。特に僕はガパオが好きで、彼女によく作ってもらっていた。天気の良い日は窓際にテーブルを移し、彼女が買った青い食器でガパオを食べる。


それから1年も経たずに彼女と別れることになった。経緯はよくあるものだ。どちらかの愛情が冷めた、というような。ただ、同棲というのは僕にとってはそれなりのチャレンジだったので、別れるということはなかなかこたえた。特に彼女がいなくなった部屋にできた空間に彼女の思い出が詰まったままで、それはなかなか精神にこたえたものだ。僕が仕事にいっている間に彼女は部屋を出ていった。帰ってきた時にいままであったものがなくなっていたことの喪失感。これはもう二度と体験したくないほどの辛さだった。本棚も、一部が抜き取られていた。一緒に買ったレシピ本たちだった。僕は一緒にいる時は彼女と料理を作ったけれど、1人の時は作らなかったから、「僕には不要」と思って持ち帰ったんだろう。


ただ、一冊だけ残っていたのが、カフェ飯のレシピだった。それは彼女が意図的においていったのか忘れたのかわからない。おそらくたまたまだろう。ただ、その一冊が、僕には彼女の残り香のようで、なんだか捨てられなかった。引越する度に捨てようかと悩みながらも持ち続けていた。


レシピ本に彼女の手書きのコメントが書かれていることもあった。「ターメリックを足した方がいい」というような。きっと彼女の独自のアレンジだったのだろう。その手書きの文章がなんだか愛おしくて、僕はつかれた時はそのレシピを読んで寝た。眠れない夜のレシピだ。


ガパオを作ってみよう、と思ったきっかけは、外で食べたアジア料理のお店のガパオがいまいちだったからだ。「これなら俺の方がうまかった」と。週末に材料を揃えて、数年前の記憶をたどりつくってみる。料理は一緒に作っていたので、勘所はわかっている。


まずはにんにくを炒め、香りをだす。そしてひき肉を炒め、その後に野菜を足す。特にバジルは重要だ。最後に調味料と半熟の卵を出して、ご飯に乗せれば完成。フライパン1つでできる。


ただ、彼女は調味料にこだわりがあって、レシピに乗っていた調味料に加え、ラー油を入れていた。鷹の爪や甜麺醤なども試したけれど、ラー油が一番だった。そんな彼女の試行錯誤は見ているだけで楽しかった。


その記憶を思い出し、僕はフライパンをふる。


できたガパオを食べてみる。何か物足りなかった。確かに美味い。ただ、それでも何か足りない。


何度か挑戦したが、それでも僕はあの頃のガパオを作ることができなかった。


そのガパオの再現ができたのは、それから1年後だった。僕は、新しい恋人ができた。「アジアンを食べたい」と彼女が言う。「それなら僕が作るよ」と僕が言う。そして、できたガパオの味は、当時の彼女と食べたガパオの味だった。


僕は気づく。あの頃に作っていたガパオと材料も作り方も変えなかった。でも、変わっていたのは、その時には彼女がいないことだった。作る相手がいない料理は、致命的な何かを失った料理だった。レシピ本には書かれていないけれど「一緒に食べる相手」の存在は、料理の味をぐっと良くする。


僕は、あのレシピ本のガパオのレシピを開いた。必要な材料に「一緒に食べる相手」と書き込んだ。

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