毒虫ゲンタ(その8)

 コンビニエンス・ストアの棚や商品の配置は、日本全国どの店も同じようなものだ。

〈噛みつき魔〉どもの彷徨うろつく県道を突破しゲンタたちが辿たどり着いたそのコンビニも、他の多くの店舗と同じフォーマットで造られていた。

 店舗前面のガラス窓に沿って雑誌の棚。奥の壁は、弁当、惣菜、冷蔵食品の棚。冷蔵食品の隣には、氷、アイスクリーム、冷凍食品のケース。

 入って左側にレジカウンターがあり、右側奥の壁は一面ソフトドリンクと酒の埋め込み式冷蔵ケース。

 ドリンク類の壁と冷蔵・冷凍食品の壁の間、店の入り口から見て反対側の角にアルミ製のスイング・ドアがあった。

 裏倉庫バックヤードと店舗をつなぐ扉だ。

 ゲンタは、レジカウンターの前を通り、ゆっくりと弁当売り場の方へ歩いた。

 レジの奥にある業務用の電子レンジをチラリと見る。

(あれって業務用だよな……家のやつとは操作方法が違うのかな? 弁当温めるのに使いたいんだけど……)そこで、善忠がこのコンビニでアルバイトの経験があると言ったことを思い出した。(使い方は、あいつに聞けばいいか)

 棚の商品に血が飛び散っていた。足元を見ると赤黒く凝固した血が白いタイルの床にまだ模様もようを作っていた。

(この店もに襲撃されたんだな)

 長剣の切っ先を前方に突き出すような格好で、一歩一歩、奥へ向かって歩く。

 この店は、ゲンタの住んでいる廃工場から一番近いコンビニだった。

 廃工場に引っ越してから、ほとんど毎日三食、ここの弁当で腹を満たしていた。

 どの商品がどこにあるか、今ではその配置一つ一つを記憶するほどになっていた。

 お目当のトンカツ弁当は、弁当売り場の下の段に置いてあることが多かった。

 ゲンタはバックヤードへ続くスイング・ドアから目を離し、欲しい弁当があるか確認した。

(鮭弁、ハンバーグ弁、幕の内に、唐揚げ弁当……あ、あった。トンカツ弁当。一個だけ残ってた)

 透明の蓋の上に点々と赤いものが付いていた。

 ゲンタの後ろについて歩いていた善忠が、「血が……付いてますね……弁当に」とつぶやいた。「これじゃあ、食べられそうにない」

「ラップがせば良いだけの話だろ」

「ゲ、ゲンタさん、こ、これを食べる気ですか?」

「中身は大丈夫だって。レンジでチンすりゃ殺菌消毒されるだろうし。何が問題なんだよ」

「うええ……やっぱゲンタさんってタフなんですね」

「嫌なら食べるなよ。俺は、ここまできて腹すかしたまま帰るなんて、ありえないね」そう言いながら、ゲンタは裏倉庫バックヤードへ意識を戻した。

 店の外では、相変わらすが窓ガラスをバンッバンッと叩いたり、ドアの取っ手をつかんでガタガタ揺すったりしていて、その音が店内に響いて五月蝿うるさかった。

 しかし倉庫の方からは……奥のスイング・ドアの向こう側から音は聞こえて来なかった。

(ただ目的もなくウロウロ歩いているだけじゃ、足音だってほとんどしないからな……倉庫から何も聞こえないからって、油断できん)

 剣のさきを前へ向けて持っていた両手に、ぎゅっと力を入れた。

 弁当売り場から一歩一歩バックヤードの扉へ近づいて行く。

「すいませ〜ん」試しに大声を出してみた。「誰かいませんか〜、レジお願いしま〜す」

 答えは無い。

 もう一歩、二歩、近づいて声を出した。

「すいませ〜ん」

(まともな人間であれ、噛まれて狂っちまった人間であれ、これだけ倉庫の近くで大声を出しゃ、何か反応があるだろう……仮説が正しければ、は人間の声には必ず反応して追ってくるはずだからな)

 ゲンタは振り返って「これだけ大声を出しても動きが無い、ってことは、本当に裏倉庫には誰もいないんじゃねぇか?」と、後ろにいる善忠に言った。

 善忠の顔が凍りついていた。ゲンタを……いや、ゲンタの肩越しにその向こうを凝視していた。

 背筋に悪寒が走った。

 前を向いた。

 裏倉庫へ続くスイング・ドアが二十センチ開いていた。

 腕が見えた。

 傷だらけで血まみれの腕だった。

 そして肩が見えた。

 白と青の細ストライプの半袖を着ていた。

 若い女の顔が半分だけ出てきた。目玉が潰れて真っ赤な洞穴ほらあなのような眼窩がんかから血の涙を流していた。

 若い女のアルバイト店員は、スイング・ドアをゆっくりと押し開け、ゲンタに向かって「抱きしめて」と訴えるように両腕を差し出し、一歩一歩、足を引きずりながら歩いて来た。潰れていたのは片方の目だけだった。残った目が、まっすぐにゲンタを見つめていた。

 女のバイト店員に続いて、若い男の店員が店内に現れた。

 ストライプの制服が、今は赤黒い血で濡れていた。

 二人のバイト店員……いや、二人のバイト店員は、横に並んで狭い通路でとおせんをするようにゲンタたちに迫って来た。

「ゲ、ゲンタさん……」コンビニの店内という閉鎖空間で相対あいたいし急に不安になったのか、善忠が声を上げた。

「心配するなって」ゲンタは〈噛みつき魔〉たちから目を離さずに、ヘヘッ、と不敵な笑い声を上げて言った。「たかがバイト店員二人……」

 その時、再び倉庫の扉が開いた。

 男がのっそりと出て来た。

 店長だろうか。年齢としは三十代半ばに見える。やはり血にまみれたコンビニの制服を着ていた。

 体が大きい。上背があり、横幅もある。

 巨体のゲンタと同じくらいの身長。脂肪の多いゲンタとは対照的に、隆々とした筋肉が内側から制服を押し上げていた。

 学生時代は空手か柔道、あるいはラグビーかアメリカンフットボール部にでも所属していたようなガッシリとした体だった。

「た、たかが店員三人くらい、何だってんだよ。どうせウスノロだ。瞬殺してやる」

 手始めに手前の女店員を倒そうと決め、そちらにさきを向け、三歩の間合いを一気に詰め、左の乳房、心臓があると思われる場所を突き刺した。

「一丁あがりだ」

 つかのトリガー・スイッチを引く。

 女は……倒れなかった。

「えっ?」善忠がうめいた。

 女のバイト店員が、自分の胸に刺さった剣の刃を両手でガッシリと掴んだ。ギザギザの刃が手のひらに喰い込み、手の甲側に突き抜けた。しかし女はそれを気にする様子も見せず、さらに強い力で剣を押え込んだ。

「くそっ」悪態をきながら、ゲンタはトリガー・スイッチを何度も引いた。

 くそっ、くそっ、くそっ……カチッ、カチッ、カチッ

 剣を左右に振った……いや、

 しかし、小柄な女の力とは思えない強さで押さえ込まれた剣は、巨漢のゲンタの腕力をもってしてもピクリとも動かなかった。

 右側から若い男のバイトがゲンタに迫った。

 とっさに右足を出して前蹴まえげりを食らわせる。

 男の店員がり、バランスを崩して後ろの店長を巻き添えに倒れた。

 少しだけ時間が稼げた。

「バカヤロウ! 善忠! ボサッと突っ立ってねぇで、加勢しろ」

「か、加勢って、どうすりゃ良いんですか! いったい何が……」

「売り場からハサミでもナイフでもカッターでも持って来て奴ら刺しゃ良いだろ! 電池が切れた」

「そんな無茶な……って、え? で……電池切れ?」

「良いから早く加勢しろつってんだろ!」

 半ばパニックになり、ゲンタが唾を飛ばして叫ぶ。

 心臓を突き刺したというのに、女は死ぬどころか痛がる様子さえ見せなかった。

 手のひらが傷つくのも気にせず、ものすごい握力と腕力で剣を押さえる。

 心臓を突こうが肝臓を潰そうが〈噛みつき魔〉は。奴らを殺すには、大電流で脳を焼くか、物理的に脳を破壊するしかない。しかし、ゲンタはそれを知らない。

「死ね、死ね、死ねよ! 死ねつってんだ!」

 叫びながら剣を左右に振ろうとするが無駄だった。

 前蹴りで倒れた若い男のバイトと後ろの店長が起き上がる。

 後ろの善忠が「ひっ」と声を上げ、突然、反対側へ走り出した。

 やっと加勢する気になったのかと思い、ゲンタは「ハサミでも何でも早く持って来い!」と叫んだ。

 しかしゲンタの予想に反し、善忠は店内をグルリと大回りして、洗面所のドアを開け、その奥にある便所に飛び込んだ。

「ああ? 何やってんだ! 善忠! 手前てめぇ裏切んな!」

 男たちがゲンタに迫ってきた。

 ついにゲンタも戦うことをあきらめ、女バイトにガッチリ抱え込まれた唯一の武器を手放し、善忠を追って、店内を大回りし洗面所に駆け込んだ。

〈噛みつき魔〉たちはゲンタを追って向きを変え、飲料売り場側の通路を歩いて洗面所へ向かった。

 店内を大回りするゲンタのルートより、〈噛みつき魔〉たちのルートの方が近道だったが、必死で走ったゲンタの方が足の遅い奴らよりも早く洗面所に入ることができた。

 洗面所の扉を開け、その奥にある便所の扉を引く。

 ――開かなかった――

「オラァ! 善忠! 手前ぇ! 鍵ぃ開けろぉ!」

「……」

が迫ってんだよォ! 早く開けろつってんだろがぁ!」

「……嫌です……」

だとぉ!」

が迫ってるんでしょ? 不用意にトイレの鍵を開けて、僕までえを食らうのは、まっぴらです。ゲンタさん……僕の身代わりになってください」

「きさまぁ、オラァ! 裏切りやがって……ブッ殺してやる!」

「ゲンタさん……どうか成仏してください」

 後ろで気配がした。

 店内から洗面所に入る扉には鍵が無かった……いや、あったのかもしれないが、ゲンタは鍵をかけなかった。確認さえしなかった。便所に入って鍵をかけるつもりだった。善忠が受け入れてくれると思い込んでいた。

 振り向いた。

 が居た。

 さっきと順番が逆だ。店長らしき男が最初に洗面所に侵入して来た。続いて若い男の店員。最後に女の店員。女の店員の胸には、ゲンタが自ら造り絶対の信頼を置いていた剣が突き刺さったままだった。

「クソが!」

 いちばちか、こぶしを握りしめ、男のほおにフックを叩きこむ。

 拳に激痛が走った。

 店長の〈噛みつき魔〉は、自分の頰に飛んで来たゲンタの拳に、顔を横にして口を開け、迎え撃つように噛みついた。

 ありったけの力で叩きつけた拳は、〈噛みつき魔〉の前歯を五本へし折った。

 折れなかった片側の犬歯が、ゲンタの握った指に突き刺さった。

〈噛みつき魔〉の口内に溢れる血と唾液が、傷口を通してわずかにゲンタの体内に侵入する。

 ゲンタはハッとして手を引っ込め、全体重を乗せて店長に前蹴りを食らわせた。

 店長が二歩、三歩、後ろへよろめく。

 しかし、倒れなかった。

 さっき蹴った若い男のバイト店員とは体重も筋肉量も桁違けたちがいだった。

 再び、が迫る。

 ゲンタは奴らに背を向け、便所の中の善忠に必死になって懇願した。

「なあ、開けてくれよぉ! 頼むよぉ!」

「嫌です……さっき、肉と肉がぶつかるような、骨が折れるような変な音がしたけど、ゲンタさん、あんたひょっとして、?」

「え? あ、そ、そんなわけないだろ……なあ、お願い……頼む……」

 大きな肉の塊が、ゲンタの背中に抱きついた。

 生臭い息が右の顔に吹きつけられる。

 次の瞬間、右の肩の肉に犬歯が潜り込んできた。

 店長の〈噛みつき魔〉が、そのまま肉を引き裂くように頭を振った。

 血が噴き出す。

 ゲンタの血が店長の血と混じり、店長の血がゲンタの血と混じり合う。

『何か』が……傷口を通って『何か』が……目に見えない『何か』が、体の中に侵入してくるような気がした。目に見えない、極微小の、何万、何百万もの『何か』が。

 左手首に激痛が走った。

 見下ろすと、若い男のバイト店員が頭を低くして店長の脇から顔を出し、ゲンタの手首に噛みついていた。

 静脈が切れて血がダラダラと指からしたたり落ちた。

(ダメだ……もう、手遅れだ……)

 足から力が抜けた。

 便所の前のゆかに膝をつく。

(ちくしょう、俺じゃねぇんだよ……阿呆アホになってくさい体ひきずって歩きまわるのは、俺じゃねぇんだよ……総理大臣なんだよ、大統領なんだよ、国家主席なんだよ、資本家なんだよ、大会社のエリートどもなんだよ……世界をこんなクソつまんねぇ場所にした奴ら全部なんだよ……俺だけは生き残って、何でも思い通りにするんだよ……嫌な奴は全員ブッ殺して、巨乳女一万人とセックスしまくって暮らすんだよ……)

 だんだん視界が暗くなってきた。

 思考がまとまらない。

 論理的に考えられない。

 ゲンタは、考えることをやめ、暗闇の中に沈んていった。

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