戦争だからじゃないですか
時刻は午前二時をまわっていた。ちょっとした人気のない集落を緊張気味に警戒しながら抜けると次は山を越える道に入る。街灯もなく真っ暗だ。
幾重にも曲がりながら斜面を這い登る大蛇のような山道を、この小排気量のバイクは低速ながらもぐんぐんと進んでゆく。ありがたい、これが自転車だったら今頃手押しで登っていたのだろう。
集落を抜けるまで後続車や対向車には細心の注意を払って、少しでもヘッドライトが見えると横道にそれてやり過ごしてきたのだが、山に入ってからすれ違ったのは一台の車だけだ。
街灯もない、月明かりもない、ただ、この心許ない掌に収まるほどのヘッドライトだけが前を照らす頼みの綱であり、急にカーブが現れて慌ててブレーキをつかむこともしばしば。さらに時折襲ってくる眠気と戦いながらの運転には集中力を要する。
バックミラー越しにはただただ深い闇が広がり何も見えはしない、逆に何かが映ろうものならと、想像しただけで背筋が寒くなる。だからできるだけ前のライトの当たる部分だけを凝視して運転することにした。
随分上っては下り右へ左へとを繰り返している。遠くで「ギャアギャア」という何かの鳴き声がしてそれにいちいち驚き、人間の文明が及ばない場所であるという心細さは一層募る。早く峠を降りてしまいたい一心で心は焦り、アクセルは自然と開き気味になった。
今どこまで来ているのだろうか。このスピードメーターのなかのダイヤル文字盤は距離を示している。さっきのお堂から四十キロぐらいは走っているだろうか。半分以下か。でもこの調子なら明け方までには北岸市には着ける、あわよくば樫尾町までも。
ぼおっとそんなことを考えていたら、けたたましい音と共に突然足元がすくわれ予想しない引力に無様に引き倒された。
衝撃とともに視界に火花と回転するフラッシュ映像のようなものが映り込み、その情報を脳が処理できないまま数秒何が起きたのかわからなかった。僕の左頬にアスファルトがついていた。いや、正確には僕の頬がアスファルトについているのだ。
こけた? そうだ、真っ暗な中でもこの頬に当たる感触でわかる、アスファルトに巻き散らかされた砂粒にタイヤが乗ったのだ。
腕と肩と顔の何処かの痛みのあまり自分が道路のどこにいるのか、どんな格好で倒れているのかもわからなかった。バイクはどこに? 今、車がきたら僕は確実に轢かれる、その恐怖心が無理やり体を起こした。左半身が痛い。左目が熱い、涙が出る。これは涙か?
手探りで探し当てたバイクは横倒しになって路肩の溝にはまってしまっているようだ。ハンドルを探り当てて引張る、クソッ、抜けない。さっきとは違うぞ、体は痛いけど力が入らないわけじゃない。どこかに噛み込んでるみたいだ。真っ暗で何も見えない。
手探りで動きそうな部分を探す。ガソリンがかすかな音を立ててもれている。さっきよりも臭いがきつい、早くしないと漏れてなくなってしまう。くそっ!
静寂の中かすかにエンジンの音がする。何か来た!
隠れないと!
いや、花は? ガーベラはどこにいったんだ、車体のフックから外れている、こけた弾みでどこかにとんでいったんだ、探さないと。
僕はアスファルトに這いつくばり地面を凝視する。こうすると真っ暗な夜道でも空のわずかな反射光で照り返し道の実像を浮かび上がらせる事が出来る。そう担任の先生に教わった事がある。
反対車線に倒れこんでいたんだ、そしてバイクはその反対車線の溝に。センターラインのあたりに何か物体が見える、アレだ!
僕が起き上がりその物体に手を伸ばし駆け寄ろうとした時、眼前にまばゆい光が広がった。道の先が急な勾配になっており反対車線から来る車の接近に直前まで気づかなかった。
スローモーションで僕の起こした半身は光に包まれてゆく。もうダメだ。僕はここで轢かれて死ぬ。
目が熱い、よく見えない、体が痛い、でも背中が寒い、ごめん、奥田、花も一緒に轢かれてしまう、届けられない、とうさん、かあさん、ごめん、こんな所に僕はいる、山内、ごめん、せっかく花を、希望って、じいちゃん、僕、やったのかな……。
体が動かない、死んだんだから当たり前か。
真っ暗だ、死んだら真っ暗なのかな、道は見えないのかな。
でも声がする。聞こえる。誰かいるんだ。
僕と同じように死んだ人かな。
ねえ、僕はどうなってるんだ、教えてよ。
体が痛い、体が痛い、やっぱり左側が痛くて、目が熱い、なんでさ? 死んでも痛みは残るのかな?
薄ぼんやりと視界が戻ってきた。
空が見える、濃い灰色だ。僕を囲む影が見える。
「むやみにうごかさないほうがいい」
若い男の声がする。
「でも、やばいよ、ほら、こんなに……」
こんなに? なにが? 女もいるのか。
「おいっ、大丈夫か! 返事しろ、頼むから! マジで頼む!」
そんなに頼まれなくたって起きるよ、でもさイマイチ体が動かないんだ。あんまりしつこく頼まれるのは嫌いなんだ、うるさいよ、聞こえてるから。ちょっと待ってくれ。
右手に何か持っている、なんだろう?
「おいっ、しっかりしろ! 生きてるんだろ?」
しっかりしろねぇ……よく言われたなぁ父さんに。今も僕はしっかりしてないかな?
え……生きてる? 生きているのか、君たちは? じゃあ、僕はなんだ? 僕も生きてるってことか? 右手の物体、これ袋だ。
「ねぇっ!動いたわ、ほらっ!」
「生きてるんだな! 大丈夫か! 聞こえるか?」
男と女が交互に何度となく呼びかける。僕はようやくその声に現実に引き戻され、自分が死んだのではないことを確認するだけの思考力を取り戻した。
相変わらず半身は動かなかったが右手は袋を持ち上げる事が出来た。仰向けに倒れている。冷たいアスファルトの上に。開いた右目で持ち上げた、半分破れかけた袋を見る。
花が入っている。この花は? なんだろう。大事なものだったような気がする。
「おいっ、起きれるか、頭とか、首とか痛くないか?」
「う、うん」ようやく声がでた。
小声で男と女は安堵の意味不明な言葉を発した。僕は男に助けられながらよろよろと立ち上がり、男の運転していた四輪駆動車のやわらかな椅子に座らされた。まだ少しぼおっとしている。
車のルームランプの明かりがまぶしい。女が隣で僕の左の頬を濡れたタオルでやさしくなでる。男がコップを差し出した。
僕はそれを左手で受け取ろうとした。真っ赤な手だ。なんだこれ? 女が、彼女が持つタオルも真っ赤。
「眉のところが切れてるわ、大丈夫? 痛くない?」
「え、ええ、すみません」
「ほら、飲みな、水だ。骨とか折れてないか?」
「ああ、すみません。いたいんですけど、わかりません」
「直接病院行きましょ、ここじゃ電話も繋がらないから救急車も呼べないし」
「そうだな、ふもとの集落になら一軒くらいあるだろう。に、してもこんなところで何してたんだ、君は?」
「僕は……北岸市に……」
「え、歩いてか? この山道を?」
「いえ、バイクで……いや、そうです、こけて、それで」
「バイクぅ? どこにそんなもん……いや、それより北岸市にはここからはいけないぜ、この先の雁龍川の橋が落ちちまってる。それで俺たち戻ってきたんだ」
僕はようやく自分が陥った状態を把握した。どうやら、僕がこの花を取りにセンターラインに飛び出した時に、何かの弾みで僕は転んだらしい。それが助かった理由だ。
この彼の運転する背の高い四輪駆動車の下にうまいこと潜り込んだおかげで轢かれることなく九死に一生を得た。
ただ、彼らは僕の血だらけの顔を見ててっきり轢いたのかと思ったらしい。この傷は僕がバイクで転んだときのものだと説明して、彼らはようやく胸をなでおろした。
額の血はまもなく止まり、彼の彼女だろうか、その女性に手当てをしてもらった。そんなに深い傷ではないようだったので絆創膏だけを貼ってしのげた。他に目立った外傷は肘や膝に擦り傷があるくらいで少し打身が痛かったが、骨折とかそんな大袈裟なものではないようだった。前に一度やっているから折れているかどうかはなんとなくわかる。
「あの、川の橋が落ちているんですか? このさき」
「ああ、来るときはなんともなってなかったのにな、台風が来たってわけでもないし。なぁ? 人為的に落としたって感じだ」
「そうそう、西側から北岸市に向かうにはほとんどの人がこの道を通るのだけど、どういうことなのかしら」
「それは戦争……だから、じゃないですか」僕は二人のやり取りの場違いさに思わず強い口調で挟んだ。
「な、なに? 戦争だと?」
呆れたことにここにもいたのか、戦争が始まったことすら知らない人間が。
「戦争が始まったんですよ、隣国が、朝華教国が宣戦布告を……昨日の……」
「ばかな! まじかよ?」
彼も彼女も相当驚いていた、どうやら本当に知らないらしい。報道の内容はともかくとしてもあれだけ朝から騒いでいたんだ、このあたりの人ならなおさら知っていないのは変だ。
「いや、ここ五日の休暇で俺たちずっと山に居たんだ、ラジオの電波すら届かない場所さ」
この二人は夫婦だそうだ、外見こそ若く見えたがはっきりとした眉で短髪に細見のがっちりした体格の彼が後藤雄輝、三十歳くらいだろうか。
一方、清楚できりりとした切れ目のポニーテールの彼女がその妻、後藤恵美、二人はアウトドアが趣味で夏になると連休を一杯使って何日も山でキャンプ生活をするのが毎年の恒例行事なのだそうだ。
夫婦は北岸市に居を構えており、夕方に家に戻る予定だったのだが予想外の車のトラブルで山道で立ち往生し、結局この時間になってしまったのだそうだ。
「って、ことは北岸市は隔離されるのか、それとも……」後藤雄輝が神妙な面持ちで口を開く。
「西側の雁龍川の四つの橋、東側の樫尾川の二つの橋が落ちていればそうなるわ」後藤恵美も冷静な口調で応える。彼女は地図を開き指でその位置を指した。
「北岸市を中心とするこの二つの川に挟まれた地区は昔からそういう噂をされていたんだ。原発がある以上緊張は毎年絶えない地域だったからね」
「どういうことですか?」僕はまだはっきりとしない脳で懸命に彼らの会話を理解しようとして訊いた。
「有事の際には見捨てる、ってことよ」彼女が先に答える。
「なぜ、そんなことを?」僕のその問いに対して彼が後に続ける。
「被害拡大を最小限に留めるためだ。上陸部隊があれば湾に面した原発側の若宮町より半島の樫尾町岸からになる。地理的に否定しようがない。ももちろんシーラインで叩けるに越したことはないが、例の要塞島がある限りそれには限界がある。
他岸から上陸を試みても侵略国はその達成率の低さから戦略的に外すだろう。本土上陸のイニシアティブを握るのはこの三角州の都市なのさ。敵国はわが国との戦力差をよくわかっている、だから是が非でも、多少の犠牲をはらっても原発を含む北岸市陥落は本土攻略のための第一上陸要衝なんだ」
なるほど山鍋市からこっち、ほとんど対向車が来ない理由がわかった。おそらく迂回路が別のルートとして用意されているんだ、国防軍によって。
「ずいぶんくわしいんですね」
「おっと、勘違いするなよ」彼はすぐさま両手の平を僕に見せて否定した。
「しませんよ、スパイだなんて」僕は冗談交じりに返した。
「俺は国防軍にいたんだ、士官をやっていた。正確には前身の国土防衛隊時代だがね、こいつもその時の同僚」そういってちらりと彼女のほうを見た。
士官という事は国防軍で言う少尉以上の特別な軍事教練を受けた指揮権限を有する階級、つまり現役の国防軍ならば筋金入りの軍人ということになる。それだけに彼らの言には理論的でそれなりの説得力がある。
「君も知っているだろう、前政権の幸田内閣が国内世論の反対を押し切って半ば強引なやり方で憲法改正をして国軍の創設、防衛省の権限強化、専守防衛の撤廃……えと、守りに徹する兵隊組織は辞めるって奴さ。攻撃は最大の防御だって。そんときに俺は辞めたんだ。今までこの国が守ってきた世界で唯一無二の不戦憲法はなんだったのかって、それがこの国の誇りでもあると思っていたからさ」
「はあ」なんだか急にそんな事情をはなされても困るんだけど。
そういえば国民投票がどうだとか言っていたあの時、僕は小学生だったし学校では強く、いつでも戦争だけはしてはいけない、兵器はこの世から根絶するべきだ、としか教えられなかった。
それなのになぜ防衛隊というどこから見ても軍隊な組織があるのかという矛盾は教師の誰も明確に答えられなかった。そのかわり防衛隊も撤廃すべきという主張のみが声高に響いた。
誰も戦争を望んでいないんだから、もちろん他国だってそうだろう、なんで、それでも、兵器が世の中からなくならないのか、戦争も軍隊もなくならないのか、その時の僕には明確に疑問化されていたわけじゃないけど、今だって大して変わらないし答えも解らない。
先の大戦で旧国軍は本土決戦の際に多くの自国民を犠牲にしたと教えられた。当時の軍事政権下で議会は事実上沈黙、軍部の独走と暴走を止める事が出来ず、なし崩し的に戦況は泥沼化。そのなかで国民は半ば強制的に兵隊に駆りだされ、ちょうど僕の年頃になれば立派な戦力として最前線に送り込まれた。
全てを掌握し主導する軍部は最後まで講和の機会を得ずに国土と国民が灰になるまで戦った。その凄惨な敗戦結果の反省から、この国は軍を廃止し、兵器を手放し、戦争を放棄するという憲法をたてた。
だが現実は迎撃のみの軍事組織がお飾りであっても必要であるとして、戦後に専守防衛を旨とする国土防衛隊が設立された。
それが三年前に世界情勢の変化を理由に、国民投票を行い憲法改正、国土防衛隊は国土防衛軍と名を改め、れっきとした軍隊組織となった。僕が歴史の教科書と新聞やテレビで知るのはこのくらいのことだ。
「話を戻すが、何故君はそんな状況を知りながら北岸市に行くんだ?」
「いえ、正確には、樫尾町です」
「樫尾町?」
「ええ、その上陸要衝です。でもニュースでは北岸市は無事だし、敵軍の上陸も、動きも、何も報道されていません。山間の東山線の樫尾町往きの電車だって動いていましたし、北海岸線の快速も運行してました。でも樫尾町は全域が戦場になっているんです」
「え? なんか話がわからんぞ。君は何をいっている?」後藤雄輝は不思議な顔をした。
僕はこの二人には全てを話しても構わないと思った。だから昨日の朝から今までの全ての出来事を話した、僕の目的とするところも全て。ただ、花のことは伏せておいた。なんか、恥ずかしかったから、人に話すのは。
「なるほどね、どうりで。それにしても友達を気遣うとはいえ、無茶するなぁ。どっちにしてもポリバイパクったからにゃ、ここらに長居はまずい。その話を聞いて君をここに置いてゆくわけにもいかないし、とりあえず迂回路まで走ろう」
雄輝さんはそう言うとあわてて運転席に移動し、エンジンをかけ四輪駆動車を走らせた。
僕たち三人を乗せた車はもと来た山道を下ってゆく。僕は少しだけバイクのほうを振り返って祖父の顔を思い浮かべた。
ぼくは、一人の力でやるだけやったんだろうか。
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